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これは内田樹先生の2月8日のブログを読んだ感想です。
「匿名」ということばを私は嫌います。このことばにはどうにも卑劣さがつきまとうからです。でも、この世にある著作物を記名と匿名で二分する考え方にも私はかすかな違和を感じます。自分の書いたものに名前を冠する。これは基本的に正しい立場だと思います。そして、あえて名を秘すことによって自分の負うべき責任を逃れ、他人を誹謗中傷する、これは卑劣きわまりないことである。私はそう思います。 ただし世の中をこの二分法で割り切ることはできない。私はそうも思うのです。名をもつものとしての「有名」、名をかくすものとしての「匿名」。そして、そこにはもうひとつ「無名」というカテゴリーが考えられるのではないでしょうか。 私はこのブログで自らの姓名を名乗ってはいません。しかし、あえて名前を秘匿しているというのでもありません。個人名を特定されてもなんら差し障りもないし、読んでいただいている方に「ちゃんと姓名を名乗れ」といわれれば名乗ると思います。それには何の抵抗もありません。 このブログを始めようと思い立った時のことをお話しします。とてもシンプルにいいますが、その時私は「私の文章を、文章それだけで、読んでくれる人がこの世界にいるのだろうか」と思ったのです。 私は文章に関してまったくのしろうととはいえないかもしれません。大学受験の小論文というきわめて狭く限られた世界ですが、受験生にその書き方を教えることを職業の一部としております。といっても、何の資格があるわけでもありません。大学の卒論以外、一編の学術論文も書いたことはありませんし、教職の資格ももっておりません。ちょっとした偶然から、そういう仕事をするようになった。ただそれだけの人間です。 その仕事を初めてからほぼ十年近く、私は自分で解答例を書いたことはありませんでした。解答例として人に示すような文章を書く資格を私は自分に認めなかったからです。でも、そのかわりに私は生徒の文章を赤ペンで添削することに、文字通り寝食を忘れるほどに打ち込みました。一日に50枚以上添削を続け、いわゆる書痙にかかり、医者に「これ以上ペンで書く作業を続けると、一生手首が使い物にならなくなるぞ」といわれたこともあります。 でもそうせざるをえないほど、生徒の小論を添削する作業は面白かったのです。その文章の問題点を一点に見定め、具体的に指摘し、どうすればよいかをひとつだけ示し、それに従って、次回に書かれた生徒の答案が見違えたような文章に変わる時、そのよろこびをなんにたとえればいいでしょう。 私はそれまでの人生で徹頭徹尾教師運の悪い人間でした。でも、その反動というか、あるいはその見返りなのか、偶然、人に文章の書き方を教える立場に立つと、自分が信じられないくらい生徒運に恵まれた人間だということに気づきました。来る日も来る日も生徒の書き言葉の体裁すら整えていない文章を読み、それのどこをどういうふうに変えればいいのか、必死で考えてアドバイスする。すると、そのことばをしっかりと正面から受けとめ、必死で実行しようとするたくさんの生徒がいる。自分はなんと恵まれた人間であることか。私は正直そう思いました。 そんな毎日の中でいろいろな工夫を授業の中に取り入れました。「小論文お料理講座」「作文から小論文への変貌 狼少年編」「道案内文章上達講座」などなど。そして、その中に「文章サバイバルゲーム」あるいは「文章バトルロワイヤル」と呼ばれるゲームがありました。 そこでは「小論文」という枠組みさえはずします。何かテーマを与え(「使いたくないことば」「頭の中の言語地図」など)、それに関して800字以内で文章を書かせます。どんなスタイルでもかまいません。小論でもエッセイでも詩でも短歌でも俳句でも作文でも手紙でもなんでもよろしい。とにかく私が読んで面白いと思う文章を書いてくれ。私はそういいます。必死に文章を書き始める生徒に向かって私はさらにこういいます。「ただし、添削はしない。今日帰って、夕飯を食べ、お酒を飲み、風呂に入る前にその原稿用紙の束を私はかばんから取り出す。そして一枚一枚読み始める。氏名の欄は読まない、性別もわからないようにする。ただ文章だけを読む。そして面白いと思ったら、右側に置く。つまらないと思ったら左側に置く。そして、その左側の机の下にはゴミ箱が置いてある。私は左側の文章を躊躇なくそのゴミ箱に突き落とす。(ひぇー、という生徒の声)一通り終わったら、右側の原稿用紙の束を手に取り、第二次選考に入る。同じ作業を延々と続け、最後の一枚に残った文章を明日紹介する。それがこのゲームの手順である。 名前も性別も超えて文章だけで生き残れる文章を書け。私はそういって教壇の前に座り、腕組みをして生徒の姿をみつめる。教室内にはこつこつという鉛筆の音だけが響き渡る。そういう授業を何度かやってきた。 そんなある日、私は底知れぬ深い闇に直面し、その入り口でうろうろとさまよう経験をすることになった。どうすることもできない。なにをしてもむだである。でもなにもしないと気が狂いそうになる。その時、私が考えたこと。それは「文章を書こう」ということだった。 理屈ではない。理由などいらない。自分に今できること。それは文章を書くことしかない。そう思ったのである。そして、同時に「文章サバイバル」のことが頭に浮かんだ。今までさんざん生徒にそれをやれと命じてきたけれど、自分では一度もやらなかった。自分の名前を示さず、自分の文章だけで、「あ、これは面白い」と思ってくれる人がこの世に何人いるだろう。いや、この世に一人でもいるだろうか。他人に命じたことは自分でも行うべきである。私はそう思って、このブログを始めた。だから、名前はあえて示さなかった。そういうことである。 私は唐突に割り箸のことを思う。それは朱塗りの箸ではない。輪島塗の箸でも、漆の箸でもない。だから銘もなく、文様もなく、署名もない。でもそれもまたひとつの箸である。ある日、誰かがその箸を拾い上げる。何の変哲もない箸である。うどんを食べようとしていたその人は、その割り箸を真ん中からぱちんと割る。きれいに半分に割れる。ささくれもできない。一見何の変哲もない割り箸だけど、そこに使う人間への配慮と想像力が働いていることがなんとなく感じとれる。指にしっくりとなじみ、うどんもすなおにその割り箸にまきつき、つるつるとおいしく口の中に入る。 けっこういい割り箸じゃないか、とその人は思う。今度うどん食べるときにはもう一回この割り箸使ってもいいかな、と思う。でも、その割り箸には作った人の名前はない。割り箸は無名だ。誰が割り箸に作った人の署名など求めるだろうか。 そういう割り箸のような文章が書ければ、私は本望である。責任を逃れるために名を秘そうとは思わない。そもそも秘するにあたいするような名前など私は持ち合わせてはいない。私は「無名」の存在なのだ。割り箸一本一本に制作者の署名がなされていないように、私の文章にも私の戸籍上の氏名は付されていない。そもそも一本一本の割り箸に作り手の名前が書かれていたら、私はうんざりしてしまうだろう。この世に輪島塗の高級署名入りの箸が存在することの価値を私は認める。その文化的価値を私は否定しようとは思わない。でも、それと同時に無名の、何の変哲もない、しかし、それを使うことによって作り手の存在がその割り箸の向こうにぼんやりと浮かぶ。 そういう割り箸があってもいい。私はそう思う。 文章で他人を誹謗中傷するかどうかは、名を示すか、名を秘すかということで決まるものではない。それはその文章を書く人間の品位が、節度が決めることである。品位のない人間は、たとえ自分の名を明かしても他人を誹謗中傷する文章を書くだろう。匿名という隠れ蓑をはずし、自分の名を示していることにおびえ、他人への誹謗中傷をためらう人間の署名入りの文章に品位が宿るとは私には思えない。 匿名でものをいわない。これは立派な信念であり、態度表明であると私は思う。しかし、同時に無名の割り箸のような文章があってもいい。私はそうも思うのである。
内田さんの文章と合わせて、いつもながら興味深く読ませていただきました。
一つとは限らないその文章の目的・意図を全体として最も効率よく達成するためには、署名をどうするべきなのか、と考えて決めればいいのではないかと、私自身は思います。 大切なのは、署名の有無ではなくて、その文章の目的・意図の方である気がします。(2006.02.10 23:18:41)
最後の一文、私も同感です。コメントするのがむずかしい文章を書いてしまったかなと思ってたところだったので、このコメント胸に沁みました。ありがとうございます。また感想をお聞かせ下さい。(「名もなき割り箸」拝)(2006.02.11 06:53:12)
こんにちは。はじめまして。
とても興味深く、そして(身体的に)気持ちよく読ませていただきました。 ふと、思い出したことがあります。 たしか沢木耕太郎さんが、「寅さん」シリーズについて書かれていたことだったと思います。 自分は寅さんシリーズを、大衆的で、安易で、「芸術」「作品」とは言えないと思っていた。けれどもあるときふと、思いが変わったと。 これは芸術性の高い高価な一点モノではない。芸術家の名が掲げられたものでもない。しかしよく手になじみ使いやすく、割れても惜しくないほど安価で、怖がらずに安心して使える、日常使いの茶碗のようなものである。裏に名前が記されているわけでもなく、誰が作ったのかもわからないが、壊れたらまた同じものを買い足してしまう。 「芸術性の高い」茶碗もすばらしいことにちがいないが、この日常使いの茶碗こそ「いい茶碗」と言ってよいものではないか。そういったものを作り出す人を芸術家ではなく職人というのではないか。自分の考えは浅かったと思う。寅さんの山田洋次監督は、「映画職人」といっていい、すばらしい作品を作る人なのだ。 というような内容でした。 うろおぼえなので細部は確かではありませんが。 私も食べ終わったあとに、あれ、これちょっと使いやすかったな、と気づく割り箸とか、 なんかあれ、おいしかったなと店を出てから気づくお水とか、そういうものがとても大事だと思っています。 スムーズになにかをこなした時って、そのスムーズさがそういう無名のものたちに支えられているものだって、気づきにくいものですよね。 でも日常の大方って、そういうものでできていますもんね。 (2006.02.16 15:26:19)
肴Aさん
こちらこそはじめまして。あたたかいコメントありがとうございます。私も職人的世界には強く引かれます。今のところ職人的なのは頑なで意固地なとこだけですが。でもあの文章を書いていた時には、たしかに無銘の茶碗や生活道具のあれこれを思い浮かべていたので、同じイメージを共有できてうれしく思います。またお立ち寄りください。(2006.02.16 19:55:32)
こういう書き方、好きです。 へえ~へえ~と、どんどん吸い込まれるように読ませて頂きました。 「無名」というカテゴリー、割り箸、なるほどですね。
生徒運に恵まれた、ということはM17星雲さんが良い先生だからでしょう。 せっせせっせと添削に明け暮れて、しかもそれが愉しい…と。 他の教科と違って添削ほど大変な科目は無いのではありませんか? 何がそのご苦労を支えていたのか…それは「愛」、生徒に対する愛、私にはそう思えてなりません。 いい先生ですね、なかなか。 きょうの内田先生の日記も「それは愛、愛です」で結ばれてましたね。 (2006.10.31 13:27:08)
ジュンさんへ
内田先生の文章に向かって書いていますから、ちょっと力が入っていたかもしれませせん。「愛」というようなおおげさなものではないと思いますが、私自身は自分の生徒に対して「いやな人間だな」と思ったことは一度もありません。よく「ウソでしょう」といわれるのですが、そして、日常生活ではいやな人間は山ほどいるのですが、生徒に対してはそう思ったことはないんです。人間をその可能性に着目して見ている限り、その人間をきらいになるということはめったにないのだと思います。だとしたら、少しは自分自身の可能性にも目を向けてみようかな。この文章を書いた時にはそういうことを考えていたように記憶しています。 (2006.11.01 20:12:50) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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