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ペダンティックということばがある。日本語に訳すと衒学的ということになる。しかし、ペダンティック、衒学的ということば自体が、なぜかペダンティックで衒学的である。なぜこういうことになるのか。
このことばはあまり一般的ではない。「えっと、聞いたことあるんだけど、それってどういう意味だっけ」と思われているあなた、あなたには罪はありません。おそらくはそう思わせるために巧妙に仕組まれた罠がこのふたつのことばなんですから、そんなものぜんぜん気にしなくていいですよ。 「デリダがいうように」「ヴィトゲンシュタインはこういっている」「ヤスパースもつとに指摘しているように」というような言い回しで相手を煙に巻く話し方をする手合いに対して使われることばが「ペダンティック」であり、「衒学的」である。 「知ったかぶり」と訳すと、ちょっとお人好しな印象を与えて、対象の「いやーな」感じを的確に表現できない。広辞苑では「学者ぶるさま。知ったかぶり。」と書いてあるが、これは明らかに誤っている。これでは学者さまにはペダンティックな人間がいないみたいではないか。おそらくはもっともこの種の人間が多く棲息する領域をあらかじめ除外してしまってはいけない。 こういう時には在野の空気を漂わせている辞書を引いてみよう。やはり三省堂の新明解国語辞典だろうか。「何かにつけて学識の有ることをひけらかすような言動をする様子。衒学的。」うん、こちらの方が一歩対象に接近している手ごたえがある。岩波くんはちょっと学者に甘すぎるよ。こんなこと書いてると、「あ、ぼくちゃん、ペダンティックじゃないんだ。わーい」といって宮台真司氏が誤解してしまうじゃないか。あ、しまった。これでは「言葉は時に感情的で」になってしまう。宮台さんごめんなさい。 なにはともあれ、ペダンティック、ないしは衒学的ということばのイメージは新明解でだいたいつかむことができる。「う~ん、ぼくちゃんはね、あんなえらい人の本も、こんなえらい人の本も、ちゃーんと読んで、おまけにわかっちゃってるんだよ。だからさ、あんたみたいにあんなえらい人の本も、こんなえらい人の本も、ろくに読んでない人とはさ、レベルがちがうわけ、レベルが。わかる?だからさ、その証拠にさ、あんなえらい人と、こんなえらい人のおことばをさ、ぼくちゃんはちゃんとそらんじることができるわけ。わかった?この時点で勝負あったってわけ。だからさ、きみはさ、きいたふうな口たたかないでさ、ぼくちゃんの前にひれ伏せば、それでいいわけよ。どぅゆうあんだすたん?」 やや冗長になってしまったが、これが「ペダンティック(衒学的)」の語義である。 英語世界でこのことばがはたして日常語として頻繁に使用されているのかどうか、私にはよくわからない。(どなたかご存知だったら教えてください)でも、日本語ではカタカナ語でいおうが、漢語でいおうが、すくなくとも耳で聞いただけでは語義がとらえられないことばである。 しかし、日本の知識人の書いた文章のほぼ七割以上は、この形容語を冠する必要のある文章である。「またかよ」というくらい頻繁に使う必要のあることばが、なぜこれほどレアな響きを帯びているのか。これは考えるととても不思議な現象である。 ここにはやはり作為を感じざるをえない。「おっと、これはぼくちゃんにはイタイことばだな。ふーん、こんなことばがあるんだ。でも一般人にこんなことば教えちゃうと、ぼくちゃんみたいな良心的知識人に向かって、ばしばし使われそうだから、こんなことばは一般ピープルが使えないように、ちょっと頑丈なコーティングで包んでおかないと、あぶないよね。くわばら、くわばら。(ふるい)」ということで、いまだに「ペダンティック(衒学的)」ということになっているのではなかろうか。 そして、ペダンティスト(こんなことばあるのかなあ)の生まれてくる土壌は、実ははっきりしている。それは「引用」を培養土として生まれてくるのである。 引用とは、剽窃を犯さないための倫理的、道徳的装置といえる。私のこれから述べようとすることは100%自分のオリジナルな意見ではなく、実は先人の知見にその多くを負っている。それを読む人に知らせないのはアンフェアな態度である。だから、そこのとこをはっきりさせるために、私は正直に先人のことばをここに明らかにしておくのである。これが「引用」の思想である。基本的にこの考え方は正しいと思う。 Aはこういっている。Bはこういっている。先人の業績を公明正大に衆目の前に明らかにする。これはとても大事なことである。しかし、その後に必要な接続詞は逆接の接続詞でなくてはならない。「だけどね、ぼくは思うんだけど」、この構文を使う時に、引用は本来の意味をもつものとして存在する。 でも、ペダンティストはここで順接の接続詞を使う。「Aはこういっている。Bはこういっている。だから、ぼくはこうおもうわけ。そしてその正しさは順接の接続詞を使ったことで明らかなように、AとBが保証してくれてるわけ」 これが忌むべきペダンティストの発話パターンである。 こういう手合いに対してどう接するかというと、ここは伝統知で対抗するのが正解ではないかと私は思う。 あなたの取ろうとしているポジショニングは古来から多くの人間が取ってきたスタイルである。だから、そのポジショニングに対しては、すでに古人のいいならわしてきた的確な評言が存在している。 古人はそれをこう言い表してきた。 「他人のふんどしで相撲をとるな」と。 「ふんどし?なんですかー、それ」ってか。新明解を引きやがれ。そこにはこうある。「ふんどし=男子の陰部をおおうための細長い布」(う~ん、的確な語義だ)、「他人のふんどしですもうをとる=他人のものをうまく借用したり、そのやる事に便乗したりして、自分の利益をはかる」。どうだ、わかったか、ばーろーめ。 「それのどこがいけないんですか?」ってか。いったいどこまであたまがくさってんだよ、てめえは。えー。「先賢のことばを借用し、それを利用するのはけっして悪いことではないのではないですか。それはむしろ自分の卑小さを十分に認識した上で行われる謙虚な行いではないですか」だと、このおおばかやろうー。だからいんてりはきらいなんだよ。おれは。 そんなあたりめえのこともわからないで、よく学者さんやってられるもんだな。あきれちまうよ、ふんとに。あのなー、他人のふんどしでなー、すもうとってるとなー、たしかに勝つこともあるかもしれねーよ。なんどかはよ。だけどさ、問題はそのあとにあるんだよ。「どんな問題がありますか?」だと。そんなもん人にたずねなきゃわかんないのかよ。ほんっとになさけねーやつだな。おめーは。 そんなもんわかりきってるじゃねーか。他人のふんどしで相撲とってるとなー、他人のいんきんがうつっちまうんだよー。わかったかい、べらぼーめ。なにー、「いんきんってなんですか?」ってか。 あのねー、宮台くん、わたしがいってるのはね、他人のふんどしですもうとってると、股間が赤くただれちゃうってことなの。わかった? 自分がペダンティックだってことを「ペダンティック」なんてこむずかしいことばでコーティングしちゃうと、しまいには股間が赤くただれて、自分のあんよで歩けなくなっちまうよってことをおいらはいってるわけ。歩けないばかりか、自分の生命の源を深刻に損ない、そればかりか、その菌を他人にばらまいて、とんでもない事態をひきおこしちまうぞってことをいいたいわけ。わかる? やっとわかったみたいだな。わかりゃいいんだよ、わかりゃあ。だからよ、もしわかったんだったらよー、明日洗いざらしの自前のさらしをぴしっと締めてまたあそびにきな。そしたらまた相手してやっからよー。 あーつかれた。こちとらどなりすぎてのどががらがらだよ。おー、またあしたきな。まっててやるよ。じゃあな。またな。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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