ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
255633 ランダム
地下へと下る階段の踊り場にて… (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
M17星雲の光と影

PR

Calendar

November 2011
SMTWTFS
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<一覧へthis monthnext>

Keyword Search

Category

その他(267)
村上春樹(20)
SELECTION(6)
文章論(15)
(33)
猫のいる公園にて(4)
映画(6)
音楽(20)

Archives

Mobile

>>ケータイに
このブログの
URLを送信!

 

M17星雲の活動記録

<< 前へ次へ >>一覧コメントを書く

2006.03.14 楽天プロフィール Add to Google XML

地下へと下る階段の踊り場にて
[ 村上春樹 ]    

数日前から村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んでいる。ずいぶん以前にハードカバーを買ってはいたのだが、さすがに手にとって読み始めるまでにかなりの時間がかかった。この本の「重み」に自分が耐えられるかというのが逡巡の理由である。おそらくは同様の理由でこの作品だけは読んでいないという方もおられるのではないだろうか。

まだ前半の150ページを読んだくらいだから、確かなことはいえない。だが、いくつか気づいたことはある。

ひとつはテープ起こしに村上氏自身が手をいれている(これ自身がすごいことだと思うが)ことから、文体が統一されていることである。極力、発言者のニュアンスを損なわない配慮はなされているが、細かな言い回しはやはり春樹氏のそれである。だから、彼の作品という感触はこちらにちゃんと伝わってくる。証言者の発言を忠実に再現することと、全体の文体をある程度揃えることとのバランスをとることは至難の業であったと思うが、その点がきちんと整理されている。さらに不謹慎なことばづかいを許してもらえるならば、ここには読み手を作品世界に引き込む文体的魅力というか、文章のもつ牽引力ともいうべきものがしっかりと感じとれる。これは村上春樹という文学者が自らの社会的使命として行った「誠実なる」仕事という以上の意味を、この作品がもっていることを意味している。彼は自らの「崇高な意図」に酔ってはいない。これは誠実な文学者の編んだ単なる証言集という意味を越えて、あくまでも村上春樹の一作品として成立している。そうしようとした作者の気概を私はこの文章の背後から感じとることができる。彼は社会的な使命感の陰に隠れて、作品の完成度をおろそかにするという愚を犯してはいない。社会的発言を行う使命感を口実に、作品の完成度を見る眼を曇らせてはいない。そのことだけは言っておきたいと思う。この作品においても、彼は読者を自らの文章の力で引っぱっていこうとしている。私はそのことをとても好ましいことだと思った。

この作品の全体を通して作者が表現しようとしたことについては、通読した後で改めて感想を述べることとして、当座の断片的印象だけを書き連ねるとすれば、ここで試みられているのは、ある事件の「立体化」ではないかと思う。

ある事件の立体化とは何か。それは「地下鉄サリン事件」ということばを人が耳にした時の最も一般的な反応、そう「ああ、あの事件ね」という表現に対するアンチテーゼではなかったかと思う。彼は「ああ、あの事件ね」という反応をいつも思い浮かべながら、それへのアンチテーゼとしてこの作品を作り上げたのではないかという印象をもった。

「ああ、あの事件ね」

私たちはいつもそう口にする。でもあらためて考えてみると、なぜ「ああ」なのか、なぜ「あの」なのか、うまく説明することはできない。「ああ」とは何か。「あの」とは何を指すのか。われわれは半ば無意識のうちにこれらのことばを口にする。この本はそれに対してこういう問いを突きつける。「その『ああ』っていったいなんですか。」、「その『あの』って何を指しているんですか」と。

私はその問いになんとか答えようと試みる。「ああ」は、おそらくその情報が既知のものであることを示す表現だろう。「そのことは既に知っている」の「ああ」である。人間は未知のものに畏れを抱く生き物である。したがって、身の回りの事物に「既に知っている」という「既知」ワッペンをぺったりと貼りつけることでとりあえずは安心できる。少なくとも無用な畏れからは解放される。この「ああ」という感動詞は、精神安定剤の役割をする「ああ」なのである。

これに対してこの本はさらにこう問いかけてくる。「あなたは何を知っているのか」と。そこで私たちはかすかにひるむ。いったい私は何を知っているのだろう。その問いを突きつけられた瞬間、われわれの無知は露呈する。われわれは心の中にべったりと貼り付けていた「既知」ワッペンをそっと引き剥がそうとする。びりびりという音を立てながらそれが剥がされる瞬間、ちょうど傷跡の薄皮を引き剥がす時に感じるようなぴりっとした痛みをわれわれは感じる。そして、同時にそれは少しだけ生理的な快感ももたらすのだ。それを引き剥がすと赤ん坊の無垢の柔肌のようなピンク色のなめらかな表皮が露出する、その瞬間のかすかなときめきのようなものを私は感じる。

そこでもうひとつの問いかけが本の向こうから聞こえてくる。さっき、あなたは「ああ、あのサリン事件ね」といいましたね。その「あの」っていったいなんなんですか、と。うーん、そうだな。それはいわゆる「マスコミ報道で知るところの」というぐらいの意味だよ。そう私は答える。その「マスコミ報道であなたは何を知っているのですか。」本のページの向こうからさらなる問いかけが聞こえてくる。私はマスコミ報道でいったい何を知っているのだろう。ハンカチで口を押さえ、路上に横たわる多数の人々、オウム真理教の幹部の発言とその表情、麻原の資料映像、事件の再現映像。そのどれもが「異常」なものであったことにわれわれは気づく。その異常さをデフォルメする強烈なバイアスがこの事件に関する報道にはかけられていたことにも。

でも、だからといって、一概にマスコミの報道が偏向していたといってみても始まらない。あの事件はたしかに異常な事件だった。それを報じるのに異常性に焦点を当ててはいけないのか。マスコミ関係者はそういうだろう。あなたがその時、報道する側に立っていたら、いったいどういう視点から報じましたか。われわれと違うどういう方向性が考えられるんですか。そう問いかけられたら、私はうなだれて沈黙するだろうと思う。異常な事件の異常性に焦点を当てることのどこに問題があるのか。その問いかけにすぐに答えられるかどうか、私には自信がない。

でも、と私は思う。マスコミ報道に問題はなかったか。もちろんそこには大きな問題があった。異常な事件の異常性を描き出すことには問題はないとしても、その異常性の描き方、異常性への焦点の当て方には幾通りかの方向性が考えられたはずだ。

「異常性」をどう描き出すか。まずはその異常性が瞬間的なものか、継続的なものか、そのいずれに焦点を当てるかという選択肢があっただろう。マスコミ報道の多くは、その異常の瞬間性に焦点を当てるものだった。しかし、あの事件がもたらした恐怖感はけっして一過性のものではなかったはずだ。急激な地震や津波の恐怖感というよりも、ぼろぼろと足元の地面が崩れ落ちていくような継続性のある恐怖感がそこには感じとれた。そのような永続する恐怖感を伝えるためには、永続的な意思のもとになされる報道が必要である。瞬間的に沸騰して、すぐに冷却する報道姿勢では、その恐怖の永続を表現することはできない。この「アンダーグラウンド」という本は、その粘り強い、ある意味では執拗ともいうべき取材を通して、あの事件の永続的な恐怖感をわれわれの脳裏に刻み込む。そのこともまたここで指摘しておきたいことだ。

多くのマスコミ報道はあの事件に、比較的短い賞味期限を設定し、短期間でその物語を消費し尽くそうとした。その姿勢に対するひとつのアンチテーゼがこの本の中にはある。私はそう思う。

そして、衝撃的な事件、異常な事件の、衝撃性、異常性を描き出すためには少なくとも二つの方法が考えられるのではないだろうか。それは日常生活では考えられないほどの「轟音」をどう表現するかということを考えてみればいい。

一つの方法は、高感度マイクをもってその衝撃的な音をなるべく忠実に記録媒体に残すことである。十分なダイナミックレンジをもったハードとソフトを用いて、原音に忠実に、その衝撃音を再現する。これがひとつの方法である。

しかし、この方法にも一つの難点がある。それは何度も何度も繰り返し、その再生音を聞いていると、われわれの耳はいつしかその音に馴化し、最初に聞いた時の衝撃を次第に忘れてしまうということである。

次々に衝撃的な事件が起こると、やがてわれわれの神経は、それに馴化し、鈍化してしまう。やがてそのような刺激は刺激とは感じられなくなり、日常生活の一部に取り入れられてしまう。衝撃を忠実に再現しようとして、いつしかその衝撃を衝撃とは感じとれなくしてしまう。サリン事件の報道にもこのような馴化作用があったように思う。

そのような報道姿勢に対するアンチテーゼがはたしてありうるだろうか。ひとつだけ方法が考えられる。それは巨大な音の衝撃を、それ自身を再現することによってではなく、それが消え去った後の静寂を通して、いわば裏返しに表現することである。

衝撃的な音の響きをそれ自身ではなく、その音が消え去った後の静けさ、草むらの虫の鳴き声で表現することも可能ではないか。この事件に即していえば、その非日常的な異常性を、被害者の日常性を描き出すことで裏側から表現することもできるのではないか。そのようなアンチテーゼも私はこの本から感じとることができる。

非日常的な異様な轟音を、その後に訪れた日常的な静けさを克明に描くことによって反対側からあぶりだすこと。それはオウム真理教という非日常的な現象を、われわれの日々の日常から逆向きにあぶりだす作業を意味している。

地底へと続く階段の踊り場に立って、今日考えたことはおおよそ以上のようなことである。この階段を下ることでまた新たな風景や音が私の目の前に出現するかもしれない。でも、とりあえず、今日はこの踊り場にじっとうずくまって、ひとときの眠りにつこうと思う。地表の騒々しいざわめきから遠く離れたこの場所で、自分の膝を抱え込んで、たったひとりで。



Last updated  2006.03.16 20:06:19
コメント(2) | コメントを書く





■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
・メッセージ本文は全角で800文字までです。
・書き込みに際しては楽天ブログ規約の禁止事項や免責事項をご確認ください
・ページの設定によっては、プルダウンで「顔選択」を行っても、アイコンが表示されません。ご了承ください。


はじめまして   hisakohayashiさん


Re:はじめまして(03/14)   M17星雲の光と影さん


<< 前へ次へ >>一覧コメントを書く一番上に戻る


Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.