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M17星雲の光と影

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2006.03.19 楽天プロフィール Add to Google XML

コピー川の岸辺にて
[ その他 ]    

むかしむかしあるところにひとりの詩人がおりました。その詩人は毎日毎日ことばを使って世界の謎を綴っていました。そのことばは平明で透明、やさしくやわらかな響きをもちながら、時にきびしく強い力をそなえていました。

しかし詩人というものは元来それほど裕福な暮らしをしているものではありません。もちろんその詩人には豊かな才能と清新な感覚がありましたから、自分の暮らしに困るようなことはありませんでしたが、彼のまわりの詩人たちの暮らしぶりは貧しく、とても詩だけを書いて生活が成り立つというレベルではありません。詩人はそのことに常日頃から心を痛めておりました。

詩というものはやはり世間の荒波にもまれている大人たちよりも、こどもたちや若者に好まれる傾向があります。とくに幼い子どもにはみずみずしいことばで書かれた詩を与えてやりたいという気持ちが、彼らにものごとを教える立場の人間には当然起こってきます。

ことばを学びはじめる子どもたちのテキストにも彼の詩が載せられることが多くなってきました。そして大人たちよりもむしろ子どもたちに、彼の詩はいっそう支持されるようになりました。それは彼にとって純粋、かつ大きなよろこびでした。

ここまでは何の問題もありません。すぐれた詩を子どもたちが純粋に味わい、それを書いた者もそのことによろこびを感じる。ことばの世界においてこれほどまざりもののない純粋なよろこびを味わうことはまれなことかもしれません。

けれど、教育とか学習ということになると、どうしてもそれだけではすまない。いや、それだけでは十分ではないと考える大人たちがでてきます。「やはり、ただよろこんでいるだけでは不十分だ。子どもがそれらをどれだけきちんと身につけているかを何らかの形で確かめる必要がある。」そう考える大人たちも出てきます。

彼らはテストを作って生徒の理解を判定しようとします。あまり望ましいことではないかもしれませんが、まあ、ある意味では「必要悪」ともいえるでしょう。多くの学校でこれと同じことが行われていますから。

でも学校の先生はいそがしい。生徒の生活指導もしなければならないし、家庭訪問もあるし、遠足や学校行事もたくさんある。とても自分でそのテストを作ってはいられない。どうしても町のテスト屋さんに頼んで、彼らの作ったテストを買ってきて、それを子どもたちにやらせるということになります。

教科書と同じ文章や詩が載っているテストがあれば、そちらのほうがより望ましい。先生たちはそう考えました。そして、そういう問題集は「ドリル」と呼ばれるようになりました。

でもここで問題が起こりました。テスト屋さんはその詩人に「この詩を使いますよ」という許可を得ていなかったのです。テキストを作る時には、そういう許可をする決まりになっていますから問題はなかったのですが、そのテキストに基づいてドリルを作る時には、あらためて詩人の許可を取るという習慣がそれまでなかったのです。ドリルを作っている人たちも、その多くは小さな会社で、「あんまりお金もないし、それにこれはなんといっても子どもたちにいい詩を読ませたいという気持ちでやっていることなんだから、まあ、許されることじゃないかな」そういうふうに思っていたのです。その詩人もそのことにはあまり関心をもっていませんでした。そもそもそんなドリルのことなど詩人はよく知りませんでしたし。

その詩人はとても人気があったのでお友だちもたくさんいました。その中に外国生活が長くて、写真関係の仕事をしている人がいました。写真関係といってもカメラマンではありません。カメラマンに代わって「この写真を使うんだったらちゃんと許可をとって、お金を払わなくちゃいけませんよ」という仕事をしている人です。そこの国ではそういうことはとてもきちんとなされていました。

その人は詩人にこういいました。
「他人の詩を無許可で勝手に使うなんてぼくには考えられないな。そういうことを許しておくと、君のまわりの貧しい詩人たちはますます貧しくなってしまう。君はそれでもいいのかい。」
詩人はそれはいけないと思いました。自分は人気があってなんとか暮らしをなりたたせていくことはできる。でもまわりの詩人の友だちはそうではない。少なくとも彼らの生活をさらに苦しくするようなことをぼくがしていいはずはない。正義感の強い詩人はそう思いました。
「いったい、どうすればいいんだろう」
「僕の住んでた国ではそういう場合は訴えをおこすことになっている。そして、そんなことをしてはいけないということを国の機関に認めてもらうんだ。そして、これまでしてはいけないことをしてきたことに対しては賠償金を払わせるんだ。そういうシステムになってる。」
「訴えをおこすのかい。」詩人はちょっと考え込みました。詩人の常として彼は争いごとを好みません。できれば平和的に話し合いで解決できないだろうか。そう思ったのです。
だいいちどうやって訴えをおこすのか、その方法もわかりません。
「だいじょうぶ、ぼくはね、その国でそういう訴えを起こす方法を勉強してきたんだ。ぼくにまかせておけばだいじょうぶだよ」友人はそういいました。詩人は決心しました。なにより友だちの詩人たちの暮らしが少しでもよくなるようにという、それは純粋な気持ちからでした。

訴えはおこされました。そして、その訴えは認められ、裁判所は、テスト屋さんに大きな額の補償金を支払うよう命じました。詩人は勝ったのです。その時にはすでに訴えをおこした詩人の友だちは、他の詩人や作家にも声をかけ、会を作っていました。詩人は有名でもあるし、人柄も信頼されていたため、多くの人がその会に入りました。もっとも、何十年も昔から存在しているえらい作家の人たちが入っている名門会に比べると、その数はまだ十分の一程度というところでしたけれども。

私は朝晩舟に乗って川を上り下りしながらいろいろな荷物を運ぶ仕事をしています。今お話した話は、その川の右岸にある村で起こった話です。その川は「コピー川」と名づけられていました。

一方、川の左岸にはひときわ大きな樹のそびえる村がありました。そこには体の大きな村長さんがいて、いつもにこにこと子どもたちを教えていました。勉強はもちろん、体育や武道の指導も行い、子どもたちにはたいへん人気がありました。その村長さんも毎日せっせと文章を書き、それを子どもたちに自由に読ませておりました。

学校のテキストやドリルを作る人たちは、これはこの村長さんにもあいさつをしておかなければいけないなと思い、「あのー、村長さんの文章を使いたいんですけど、どうすればいいでしょうか」とおうかがいをたてました。

村長さんは「がはは」と笑い、「なに、許可?そんなものは必要ないよ。じゃかすか使ってかまわんよ。だって、俺様の頭のなかにある考えだって、ほんというとどっかで読んだこととか、どっかで聞いたことばっかりなんだし、俺はそんなもの許可なんか取らないでじゃかすか書いちゃってるわけだから、ぜんぜん気にすることないよ。むしろ宣伝になってありがたいくらいのもんだよ。がはははは」といいます。村長さんは豪快さんだったんですね。こういう人を「大人」といいます。「おとな」と読んでもいいですけど、「たいじん」と読むと、「この人、人間がでっけーなー」という意味の表現になります。よい子は覚えておきましょうね。

私は毎日川を上り下りしながら、川の両岸にあるふたつの村の様子をじっと眺めます。世の中のたいていのことがそうであるように、正しいのは右か左か、黒か白か、マルかバツか、なんてことは簡単に決められることではありません。どちらにももっともな根拠があり、どちらにもそれはどうだろう?という問題点があります。世の中の問題というのはそういうものです。

でも同じ船頭仲間の一人がこの間そっと私に耳打ちをしていきました。
「これはあくまでも噂なんだけどね」と前置きをした上で。

あの有名な詩人の会にいって、「すいません、許可をもらいたいんですけど」っていったドリル屋さんがいるそうなんです。そしたら、会の事務の人が出てきて、
「もし許可をもらいたいんなら、これまで不正に使ってきたんだから、10年前まで遡って使用料を払ってもらいたいな。」
と言ったそうです。そして、その使用料はこれまで名門会に払っていた金額の3倍近かったそうです。
「そんなお金払ったら俺たち倒産しちまうし、あきらめて帰って来ちゃったよ」
と、そのドリル屋さんはこぼしていたということです。

また他の船頭はこんな噂を聞いたといっていました。
「あの会で訴えを起こして補償金をたくさんもらっただろ。でもその半分以上は実は詩人の人じゃなくて、会を組織した人のところへいっちゃったらしいよ」って。

しょせん不確かな噂です。そんなことは事実じゃないだろうと私は思います。でも気になるのは、そういう噂があるおかげで、その会の会員である詩人の作品は、「これはもし万一なにかトラブルがあるといけないから使うのはやめとこうよ」ということで使われなくなっているというんです。これでは貧しい詩人の人はまったくもうからないばかりか、むしろもっと貧しくなってしまうじゃないか。私はそう思ってしまうんです。

「それにね」ともう一人の私の友達は私に耳打ちするんです。「あの会ってさ、会員の名簿をまったく非公開にしてるらしいんだ」

これはどうもほんとうらしいです。さすがの私もそれはちょっとおかしいんじゃないかという気がしてきます。貧しい詩人を助けるための正しい会なんだから会員名は正々堂々と発表できるはずです。なぜそれを秘密にする必要があるのでしょうか。

でもよくわからなくなってきます。コピー川の右岸の村の人も左岸の村の人も「善意」から行動しているはずなんです。どちらの村にも私の大好きな文章の書き手がいます。信頼もし、尊敬もしている人がいるんです。でも、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

世の中って複雑でよくわからないことが多いですね。今日も私は舟を漕ぎながら、川の両岸の村をぼんやりと見つめ、そう思って、深―いため息をつくんです。ふーーーって。

みなさんはどう思いますか?





Last updated  2006.03.19 20:57:16
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Re[1]:コピー川の岸辺にて(03/19)   M17星雲の光と影さん


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