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もうずいぶん以前のことだが、日高敏隆氏のエッセイで次のような話を読んだことがある。
それは発光体をもつ魚に関する話だった。その魚は海中の比較的浅い水域に棲息しており、腹部の下の方に発光体をもっている。研究者の間ではその魚がなぜ腹部に発光体をもっているのかが長年の謎であったという。けっして強い光ではないが、その腹部にはぼんやりとした明かりがともっている。チョウチンアンコウのように頭部に発光体があれば、前方を照らすための明かりだということがわかる。だが、腹部に明かりをともして、どんな利益があるのだろう。その発光は熱を伴わないので、身体を温めるためでもなさそうだ。 多くの研究者たちはその理由を考えあぐねた。薄暗い海中で自分自身を目立たせるためだろうと考えた者もいたが、自分を目立たせてもなんの利益にもならない。むしろ捕獲者に自分の存在を知らせることになって不利である。またエサを捕獲する際にも、相手に自分の姿を察知されてしまう。発光体を作るにはかなり複雑な機構が必要である。なぜそんな手間暇をかけて、無駄としか思えない機能を発達させたのだろうか。長い間、このことは疑問のままであったという。 ある日、一人の研究者が論文を発表し、その魚の発光体の存在理由について仮説を立てた。その発光体は「捕獲者の目から自分自身を隠すため」に存在しているというのである。研究者仲間は口々に異を唱えた。「そんなバカな。光を出せばかえって目立ってしまうじゃないか。なぜ光を出すことが姿を隠すことに役立つんだ」と。 もっともな疑問である。それに対してその研究者はこう答えた。 「そう思うのはあなた方が魚を上から見ているからです。でも、この魚の捕獲者は海中深く棲息している魚類です。彼らは『上から』ではなく、『下から』この魚を見るのです。海に潜って海面を見上げてください。そこには明るい海面をバックに魚たちがシルエットとしてくっきりと浮かび上がります。その影をめがけて捕獲者は水中を上昇し、その魚を捕獲するのです。もしもその魚が腹部にライトをともせばどうなるでしょう。その光は海面の明るさと一体化し、シルエットは薄まり、見えにくくなるはずです。このようにして、彼らは光を発して自らの姿を消そうと試みているのです。」 研究者仲間は一様に感心した。それは彼らにはまったく思い浮かばない発想だった。観察する視点を上から下へと転換することによって、背景が闇から光へと転じ、その結果、光を発することが自らの姿を隠すことにつながる。この発見はきわめて斬新であった。研究者の間ではしばらくこの論文の話でもちきりだったそうである。 ここまで読み進めた私もすっかり感心してしまった。いわれてみればけっして不思議な考え方ではない。しかし、固定的な枠に縛られていると、こういう発想は出てこない。この学者の発想力はたいしたものだ。そう思った。 しかし、この話はこれで終わりではない。この仮説は後日誤りであったことが判明する。なぜか。その魚はなんと夜行性だったのである。先ほどの仮説はあくまでも海面が明るいという前提のもとに成り立っている。その魚が夜行性であるということで、研究者仲間をうならせたこの斬新な仮説もあっけなく誤りであることが判明してしまったのである。 しかし、それを知った当の研究者はこともなげにこう言ったという。 「いいじゃないか、面白かったんだから。君たちも楽しんだだろう。」と。 私がこの話をほとんど20年近くたった今でも覚えているのは、最後にこのせりふがあったからである。 「いいじゃないか、面白かったんだから。」 いいせりふである。普通ならば自らの努力がむだになって、がっくりと肩を落とし、ため息のひとつももらすところである。でも彼はそうしなかった。自分の立てた仮説の面白さに満足した。 これは「過程」を楽しむ姿勢である。この場合は「仮定」を楽しむと言い換えても同じことだ。これは生きる上ではかなり大切な姿勢ではないかと私は思う。 過程を楽しむ姿勢をもてば、万一結果が伴わなくても、少なくとも過程の楽しさだけは残る。結果が伴えば喜びは二倍になる。この足し算の考え方は好ましい。 過程のマイナスを結果のプラスで取り戻そうとすると、どうしても息苦しくなる。結果が出ないとマイナスだけが残る。この引き算方式では皮肉なことにストレスだけがたまっていく。 考えてみれば、人生は過程だ。生のゴールとして「死」を考えることもできるが、少なくとも生きている本人にはそれを知覚することはできない。そもそも知覚がなくなった状態を「死」と呼ぶのだから。人生はどこまでも続く過程であり、その延長線上に永遠に知り得ない「消失点」としての「死」が存在している。そう考えられるように思う。 だから人生を楽しむことは、過程を楽しむことなのだ。 「いいじゃないか、面白かったんだから。」 このことばをおへそのあたりにしっかりとくくりつけて、悠然と水中を漂うように生きていけたらどんなにいいだろう。ひょっとしてそのお腹のあたりにはかすかなあかりがぽっと灯っているかもしれない。その光はその人間のまわりをあたたかい光で照らし出しているかもしれない。 臨終の床で虚空をむなしくつかみながら「もっと光を!」と叫んでこときれるのもドラマチックではあるけれども、できたらにっこり笑って「いいじゃないか、面白かったんだから。」といって最後の息をほっと吐くほうがはるかに好ましく思える。 まあ、なかなかそんなふうにはいかないもんですけどね、実際には。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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