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M17星雲の光と影

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2006.04.07
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カテゴリ:その他
自分にとってもっともたしかなものは何か。そう問われたら、それは自分の意識だと答えるだろう。「えっと、自分にとっていちばんたしかなものっていったいなんだろう」と考えている意識そのものがいちばんたしかなものに思える。それまで疑ってかかると何も考えられなくなってしまうから、これは自分がものを考える際の動かしがたい前提といっていいと思う。

そこで「もっともたしかなもの=自分の意識」としておく。さて、そのたしかな意識というのはいったいどこに住んでいるのだろう。なにぶんはっきりとした形をとることのない意識の世界の話だから、具体的なすみかを考えるのはむずかしいが、その意識が住んでいる場所というものを想定することはできる。おそらくはそのような意識の棲息場所を「自我」と呼ぶのだろう。自分にとっていちばんたしかな「意識」を中核とする自己存在の中枢、それを「自我」と呼ぶ。とりあえずはそういうことにしておきたい。

疑いようのないほどたしかなもの、それを中心にもつものを「自我」と呼ぶとすれば、その自我にはある広がりがあるはずである。たしかな存在はこの世界において一定の空間を占めており、それはある広がりをもっている。こう考えるのは自然だろう。そしてどうやら自我にはその面積を拡張、拡大していこうとする欲求があらかじめ内蔵されているらしい。しばしばそういう思いにとらわれる。

たとえば「表現」というものもそのひとつの表れだと思う。自我を外に向かって表現する。それは文章であったり、絵画であったり、音楽であったり、手段や媒体はさまざまであるが、何らかの形で自分自身をその表現の媒体に載せることによって、自己の心の内側から外部へむかって自我を拡大していく。そこには本来的な欲求が充足されたようなある種の満足感が伴う。現にこういう文章を書いていても、そのような快感、満足感のようなものを感じることはある。(ごくまれにではあるが)

それは必ずしも表現にとどまるものではない。友人を作る、恋人を作る、あるいは家族を形成するというのも、自我拡張のひとつの表れと考えられなくはない。すくなくともそれは外にむかって自我を開いていこうとする方向性の表れと考えることはできるだろう。

だから電車の中でぱふぱふと厚化粧に余念のないお嬢さんもそれによって自我拡張の満足を得ているのであり、ネットで株の取引に余念のないお兄さんもそこで得られる金銭的価値によって自我の拡大を目指そうとしていると考えることができる。地位や名誉、収入や配偶者、さまざまなものへの欲求は、本来的には自我の拡大欲求が具体的な形をとったものと考えることもできそうだ。

だが、しかし、この自我の拡大欲求を満足させることは容易ではない。それはこの世界には無数の自我が存在し、それらが互いに押し合いへし合いしながら、それぞれの自我を拡張しようとしているからだ。世界の限られたスペースで延々とおしくらまんじゅうをしていれば、かなり疲れるし、第一拡大すべきスペースも自ずから限定されてくる。どこかでそれを断念しなければならなくなる瞬間が確実に訪れるはずである。

そこで多くの人は欲求不満に陥り、ストレスがたまってくる。なんとか自我拡大の欲求を充足させたいと考え、擬似的な環境や空間でそれを満たそうとする。そういう施設やゲーム、遊びというものにもこの世界は事欠かない。スポーツやギャンブルなどの存在意義もそのあたりにあるように思える。

しかし、それらを通してもなおかつ自我を拡大できない、あるいは自己を「実現」できないと感じる人々は数多い。考えてみると、「自己実現ができていない」という言い方は奇妙だ。これではまるで実現すべき自己があらかじめ存在しているかのようだが、そんな保証はどこにもないはずである。「実現できてないんなら、そんな自己は始めからなかったんじゃないの」と考えるほうがむしろ自然なような気もするが、みんなはそうは考えない。社会の側も「個人の可能性は無限である」と自我拡張を奨励する。それでみんなありもしない巨大な自己の実現を目指して、自分探しの旅に出ちゃったりするわけである。これもまた自我拡大の欲求に従った行動といえるだろう。

あくなき自我拡張の欲求とそれを実現することのむずかしさ。両者の間で板挟みになって、現代人の心は徐々に疲弊してくる。そして、それらから解放される場所はどこかにないかと考えはじめる。しかし、そういう場所をみつけるためには何らかの発想の転換が必要だ。

基本的には自我拡張の欲求そのものを捨てるか、自我拡張を実現する方法を新たに発明するか、方法は二通りしかない。前者は宗教的なアプローチである。自我よりももっと大きな存在を仮定し、その大いなるものの意志を実現するために自分は生きる。そのことによって飽くなき自我拡張の欲求から解放される。安心立命の境地に到達する。これもひとつの方法ではある。

もうひとつは自我拡張欲求を実現する新しい方法を開発することである。これはなかなかむずかしい。世界には限りがあり、自我の拡大すべきスペースにも限りがあるからだ。単純に自我のスペースをどこまでも拡大しようというだけではやがて行き詰まるのは目に見えている。何かいい方法はないか。

ひとつ考えられるのは、延べ面積ではなく、占有率で勝負しようという方法である。自我拡張の欲求を面積ではなく、ある地域の何パーセントを自分の自我が占めているか、そのパーセンテージの高さによって充足しようという考え方である。その数値が100%に達すれば欲求は完全に満足される。こう考えてくると、スペースに限りがあっても欲求の充足そのものは可能になる。むしろこの場合、世界は狭ければ狭いほどいい。自分のベッドに横たわり、頭の上からすっぽりとふとんをかぶる。そうすればそのふとんの中が自分にとっての世界となる。占有率はほぼ100%、めでたし、めでたしというわけである。「ひきこもり」という現象も単に外界への怖れや自我の不安というだけでなく、あらかじめ自分の世界を狭く限定することによって、その世界の中における自我の占有率を高め、ある意味では自我の拡張欲求を満足させる。そういう行動と考えられなくもないわけである。

しかし、この方法が不毛であることは誰の目にも明らかである。占有率を上げるために世界を縮小する。そうすれば自我の拡張欲求を満足させることは容易になる。さらに世界を縮小させる。ますます占有率を上げることは容易になるが、同時に世界そのものは限りなく小さくなり、最後には消滅してしまう。世界が消滅してしまえば、自我も存在することはできなくなる。つまり、この方法では自我欲求の満足を求めた結果、最終的には自我の自死を引き起こしてしまうのである。

自我拡張を占有率ではなく、面積によって行おうとしても、結局は欲求を充足することはできない。それはAの自我の拡大は隣にいるBの自我の縮小を意味するからである。ある人間の自我を拡大すると、隣人の自我は縮小してしまう。一人の自我の拡大はもう一人の自我の縮小を招いてしまい、結局は総体としてみた場合の自我は依然として欲求不満状態のままである。

自我を拡大しようとした結果、自我そのものが消滅してしまう。あるいは自我を拡大しようとした結果、自我が縮小してしまう。このようなパラドックスはなぜ生じるのか。それはここまでの議論のどこかに誤りがあったからだと思われる。いったいどこが誤っていたのだろう。これまでの議論を振り返ってみよう。

私たちにとって疑いようのないたしかなもの、それは自我である。この前提に誤りがあるとは思えない。我々の意識の中核は自我であり、その中核が私たちの意識にとってもっともたしかだと思われることは、われわれにとっては認識以前の「実感」とも呼ぶべきものである。ここまで疑ってしまっては不毛な不可知論に陥ってしまう。ここはとりあえずだいじょうぶそうだ。

その次の段階。それはたしかな自我には当然広がりがあり、面積があるという箇所である。この部分を検討してみよう。たしかな存在には広がりがあり、面積がある。そう言い切っていいだろうか。

私の考えではおそらく先ほどのパラドックスはここから生じているのではないかと思われる。その存在がたしかなものであったとしても、それは必ずしも広がりや面積をもつとは限らない。そういう存在が何か考えられないか。

たとえばそれは「てこの支点」である。重い物体を移動させるために平たく長い板をその下にかませ、途中に石を置き、反対側をぐいっと下方に押し下げる。そうすることで手ではもちあげることのできなかった大きな物体がぐらつき、向こう側へ移動する。ここにはたしかな力の作用があり、その結果、物体の移動が起きる。この現象を引き起こしたのは「てこの作用」であり、その作用の中心に位置するのは「てこの支点」である。しかし、この支点には広がりも面積もない。数学の点の定義のようにひろがりも面積もない「点」にすぎない。たしかではあるけれども、広がりのない存在がここに認められる。

さきほどのパラドックスを招いたのは、人間の自我を一定の広がり、面積を有する存在と前提したからではないか。それを広がりを有しない「点」として意識すれば、パラドックスは回避できるのではないか。この「自我=点」という前提から、先ほどの自我拡張欲求を考えると、どういう視野が目の前に広がってくるだろうか。

とりあえずここでは自我を点としてとらえることの意味を述べた。「点としての自我」によってどのようなパースペクティブが広がってくるのかという話は次のPART2で述べたいと思う。

(ふー、ちかれた。「あたしゃ、こういうのは苦手だー、あたまが痛くなってくるー」という方は無理しなくていいですよ。とにかく長くなりそうなのでいったんここで休憩を入れて、第二部につづきます。)






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Last updated  2006.04.07 15:03:51
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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