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酒井啓子「イランとアメリカ」(岩波新書)読了。いまさらという気がしないでもなかったが、この本を薦める文章を最近読んで、なんとなく読む気になったのである。なかなか面白い本だった。特に最終章に示された著者のメッセージが印象に残る。惜しむらくはこのメッセージが本書全体に貫通していれば、より統一感と切れ味のある本となっただろうというのが読後の率直な感想である。
そのメッセージとは何か。それは「二項対立的思考の克服」ということである。そもそもフセインは米ソの冷戦下において両大国を巧みに利用しながら自らの地位を築き上げた。ソ連崩壊後、冷戦の二極構造が崩壊すると、今度は自らとアメリカを対置することによって超大国アメリカに立ち向かうフセインという構図を作り上げ、その中に世界中を巻き込んで自らのスタンスを維持した。そして、そのフセイン政権を打倒しようとする反体制派もやはりこの「アメリカ対フセイン」という二極対立を利用し、アメリカの強力な軍事力を背景に抵抗運動を組織した。つまり、この国の政治はどこまでいっても二極対立構図の中から抜け出せないのである。ここから抜け出さない限り、イラクは永遠に「フセイン的なるもの」から自由にはなれない。それが本書の著者の問題意識なのである。このことは本書の出版から4年を経過した今日においてもまだ有効性を失っていない論点といえるだろう。 そういえば、最近読んだ三冊の本を順に並べると、「アンダーグラウンド」、「約束された場所で」、「イラクとアメリカ」ということになる。前の二冊も実は二項対立、すなわちマスコミの作り上げた単純な「正常な一般市民」対「異常なカルト集団」という構図に異を唱えるという姿勢のもとに書かれた本だった。 われわれは異なる二つの力の対立として世界をとらえる習慣からなかなか逃れることができない。たしかに黒と白のモノクロ映像で世界を表現することはできる。コンピュータの世界では、0と1の二元論で世界が構成されている。しかし、だからといって、世界が異なる二つのものから出来ていると考えるのは誤りである。そこには「中間色」が抜け落ちている。二元論の世界はいわば脱色された世界なのである。 二元論は世界を対立の構図でとらえようとする。対立軸にそって事象を二分しようとする発想は、おそらくは人間の生理的な条件に由来するものなのだろう。人間の脳自体が右と左に二分され、外界は光と影ととらえられ、性は男女の一対でとらえられる。 しかし、世界には中間色があふれており、生物の世界は多様性に満ちている。アマガエルとキリンは別に対立していないし、人間とゾウリムシも対立関係にはない。すべてを二元論でとらえようとする発想だけでは、世界を理解することは不可能である。 そして二元論の最大の問題は、それが「絶対」を生むというところにある。「アンダーグラウンド」「約束された場所で」を読みながら、私が最も強く感じたことは、この犯罪を生んだのは「絶対」であるということだった。 オウムの信者は「絶対善」としてのオウムの教義を信じ、その教義の体現者である教祖に絶対的に帰依している。「絶対善」の考え方は、その対極に「絶対悪」を想定する。そして、その「絶対悪」は絶対的に排除されるべきものとなる。手段や方法は選ばない。絶対善の発想は、人をそこまで導いてしまうのである。 もしも絶対善というものを想定するとしたら、民主主義的プロセスを経て暫定的に社会の多数意思を形成しようとすることなど、実におろかなふるまいに映ることだろう。より直線的、直接的に絶対善の実現に向けてわれわれは邁進すべきである。そう考えるのはむしろ自然である。 民主主義という制度はたしかに多くの非効率と誤りと欺瞞に満ちている。しかし、それは、実はわれわれ一人一人のもつ誤謬と欠点を映し出したものなのである。だからこそこのシステムには意義があり、意味があるのだ。時にはそれはわれわれの欠点を映し出すだけでなく、それらを拡大し歪曲する増幅器の役割を果たしているかもしれない。しかし、そこには紛れもないわれわれの似姿が映し出されている。だからわれわれは自分の姿から目をそらし、「絶対」の誘惑に屈してはならないのだ。すべてが相対化の波に洗われるこの世界において、唯一絶対的に言えることがあるとすれば、それは「絶対善は絶対に存在しない」、あるいは「絶対善は絶対悪である」ということではないだろうか。 われわれの社会の相対性を確認することは、「絶対善は絶対悪だ」と考えることと同じである。ちょっと待ってくれ、その考え方自体が絶対化に陥っているではないかといわれる方もいるかもしれない。しかし、それは違う。これは毒性のきわめて強い「絶対」という劇薬に対する「毒消し」なのである。毒消しが存在する猛毒物質は、究極の毒物とはなりえない。 いったん絶対化の誘惑に負けたものを相対化の観点から説得、論破することは実のところきわめてむずかしい。それはオウム事件の当時、オウムの幹部との討論で誰も彼らの主張を根底から否定することができなかったことからもわかる。 単純な二元論の誘惑に負けないこと、絶対化のわかりやすさに屈しないこと。複雑さと両義性を楽しみ、反対者との共存というややこしさを生き抜く手間暇を惜しまないこと。そこにしかわれわれの生きる道はないのだと思う。
そういう事ですか。 どうも中東の事となるとワカランのでして、(正しくは、「分かろうとしない」です)避けておりました。
「ここから抜け出さない限り、イラクは永遠に 『フセイン的なるもの』から自由にはなれない」 分かり易く説明して下さったので私にも勉強になりました。 「…複雑さと両義性を楽しみ…」っていいですね。 楽しむんですね。 それはそうと、「君に読んでほしいんだって、Sが」というあの学生時代の お話ですが、M17星雲さんをご指名だったという事に、 そ、そういう人なのねM17星雲さんて、へえ~と思わされましてね。 余り親しくはなかったとかいうSさん、それでもしっかり見ていたんですねぇ。 一目も二目も置いていたんですね、M17星雲さんに。 当時からただならぬオーラを発していたのでしょうね、M17星雲さんは。 むむむっです!(2006.11.09 20:15:03)
ジュンさんへ
酒井啓子さんの本はその後もう一冊読みましたが、とても風通しのよい頭をお持ちの方とお見受けしました。テレビに出ても(というか私はテレビで初めてこの方を知りましたが)知的に見える稀有な知識人のひとりだと思います。(2006.11.10 19:24:02) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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