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M17星雲の光と影

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2006.05.14 楽天プロフィール Add to Google XML

他者を立体視すること
[ その他 ]    

ときおり月を眺めながらこう思うことがある。遠くにあるものは平面に見えるものなんだと。

中学生の頃、科学雑誌の懸賞で組み立て式の天体望遠鏡が当たったことがある。胴の部分が厚紙製の子供だましのものだったが、それで見る月はいつもの平らなお皿ではなく、立体的なボールに見えた。肉眼ではどうしても円にしか見えないものが、望遠鏡ではその円の周囲に微妙な陰翳が観察され、天空に浮かぶ球に見えるのである。そのことに素朴に感動した。「すごい、月が球に見える」と三つ年上の兄にいったら「んなこと、たりめーだろー、ったく」というようなつまらなそうな顔をされた。まあ、考えてみればそれはそうだ。そんなことは誰でも知っている。でも、実感としてその丸い手触りを望遠鏡のフレームの中にとらえた時の新鮮な気持ちはいまだに忘れることができない。

遠くにあるものが平面にみえるというのは、何気ないことだけれども人間の物事のとらえ方のひとつの特質を示しているようにも思える。

たとえば愛してやまない自分の飼い犬や飼い猫の写真をとって、それを眺める。とくに猫の場合には、最初「おやっ」という違和感を感じることが多い。たしかにあの猫なんだけど、何かが違う。形態的な特徴はきわめて忠実に写し出されているのだけれども、なにか肝心なものがそこから消し去られているように感じる。それは人間に対しても同様である。あまり親しくなかったり、自分にとってどうでもいい人間の写真を見てもなにも感じないが、それが自分にとって特別な意味をもつ人である場合、そこには何かが欠けていると感じられる場合が多い。当然のことながら、自分自身の写真についてはもっと大きな違和を感じる。そこにはいったい何が欠けているのだろうか。

おそらくそれは「ふくらみ」ではないだろうか。平面的な写真に写らないもの、それは立体的なそのもののもつ独自な「ふくらみ」である。それは三次元レベルで計測可能な数量的な情報というのではない。もっと主観的なもの、そのものとの個別的なつながりのなかで感じるきわめて精神的な「ふくらみ」、あるいはふっくらとした感触。それがないことに対する違和感ではないかと思う。

愛とはふくらみではないか。愛するものをこころのなかに思い浮かべるとき、その姿は必ず立体的な像として認識される。けっして平面に投影された像としては意識されない。これに対して、満員電車の乗客、街中を歩く人々の姿はかなり平板なものとしてイメージされる。愛するものの姿を立体的な塑像として作ることはそれほどむずかしいことではないだろうが、電車の乗客を粘土かなにかで立体的な像にしようと思ったら、そこにはかなり大きな困難が伴うように思える。

人は愛するものを自分のこころの近くに感じとり、立体としてとらえる。しかし、そこに一定以上の心的距離が存在していると、それは本来の立体感を失い、平面的な像と感じられるようになる。ちょうどそれは夜空に光る月の姿のようなものだ。

遠くにあるもの、自分とは異質と感じられるものは平面として認識される。異文化に接する時、自分にとって排除すべきと感じられる集団をイメージするとき、多くの場合、そこにはステレオタイプというレッテルが貼りつけられる。この「レッテル」という表現は示唆的である。それは本来そのものがもつ立体的な性質を捨て去ったところに生まれる一面的で表面的なぺらぺらのシールなのである。そのシールをべりっと剥がしてぽいっと捨てることにはさほどの抵抗は感じない。でも、それを立体として生々しく感じとっていたとすると、それを排除することは容易ではなくなる。

変なたとえだが、もしもごきぶりがボール紙くらいの平面的な生き物であったとしたら、彼らはあれほどに嫌われなくともすんだだろう。壁に貼り付いているところをぺりっと剥がして、ぽいっと捨てられるのならば、人間にとってあれほど強い嫌悪や忌避の対象にはならない。ごきぶりが無気味なのは、なんといってもあのふくらみなのだ。叩きつぶした後、新聞紙ごしに感じるあの丸みの中にこそ、かの生物のもつおぞましさの実体がある。

話がそれた。私がいいたかったのは、ステレオタイプというレッテルもまた平面的なものであり、そうとらえられるのは、自分と対象との間に存在している心的距離感のせいだということである。

なぜかはよくわからないけれども、人間には好ましいものをふっくらとした立体として、厭わしいものをふくらみに欠けた平面としてとらえる特性があるように思う。

赤ん坊を抱擁するとき、恋人同士の愛の確認が行われるとき、愛するものの亡骸を号泣しながら抱きかかえるとき、そこで行われていることは、ほとんど「ふくらみ」の確認であるように思える。顔を撫で、髪を撫で、唇を寄せ、体を抱きしめる。それらはみなそのもののもつふくらみを自分の体でなぞり、確認する行為ではないだろうか。

それに対して忌避すべきもの、排除すべきものの多くは平面的な像として映る。戦場で兵士が敵兵を狙撃するとき、その標的はほとんどダーツの的のように平面としてとらえられているのではないだろうか。

自分と異質と感じられるもの、共感を感じにくいもの、違和感を掻き立てるもの。そういうものをあえて立体視しようと試みることは、自分の視野を広げ、射程を伸ばし、他者像の解像度を上げることにつながる。それは人間がもつべき公平さ、公正さを身につけるためのひとつの訓練ともなりうるものであるように私には思える。



Last updated  2006.05.16 21:49:29
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