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いまあなたは自分の部屋にいるとする。夕陽が窓から部屋の中に深く差し込んでいる。窓の近くには比較的小さなタンスがあり、その影がカーペットの上に落ちている。
このタンスはいうまでもなく「もの」である。堅固な実体性をともなった物質としてタンスはそこに存在している。では、そのタンスの描き出す影はいったい何か。それは物質ではない。物質に光が当たった結果、生み出される現象、それが影である。「もの」がなければ影もない。物質が引き起こす現象、それをいま仮に「こと」と呼ぶことにしよう。 世界にはありとあらゆる「もの」があふれている。そしてその「もの」はさまざまな作用を引き起こし、多様な「こと」を作り出す。タンスという「もの」が私の部屋に影という「こと」を作り出すのもそのひとつのあらわれである。 この影をなくすためにはどうすればいいか。ちょっと重いけれども、あなたはそのタンスをうんこらしょと持ち上げ、よいしょよいしょと部屋の外へと運び出す。その結果、タンスの影は消滅する。あるいはカーテンを引いて夕陽が部屋に差し込まないようにする。こうすれば部屋全体が薄暗くなるけれども、とにかくタンスの影は消える。このことにはなんの不思議もない。そうですよね。 しかしそれはあくまでも外界の話である。外界ではタンスという「もの」と影という「こと」の間に明確な境界線を引くことができる。そして一方の「もの」を取り除き、もう一方の「こと」を消去することもできる。 ところがこれを内面世界にそのまま持ち込もうとするとどうなるだろうか。今、自分のこころの中には深く暗い影が差している。この影をなんとか取り除きたい。そのためにはその影をもたらした実体を取り除けばいい。そう考える人がいたとしても不思議はない。 だが、こころの中には「もの」と「こと」を隔てる明確な境界線は存在しない。そもそもこころの中には「もの」と「こと」ということば自体が存在しないのだ。こころの中にある影は「こと」でもあり、同時に「もの」でもある。こころの中にある喜びや悲しみ、苦しみや痛み、それらは「もの」として、かつ「こと」として存在している。両者の間に区別はない。こころの中で「愛するもの」と「それに対する愛情」を切り離すことはできないし、「憎しみの対象」と「それに対する憎しみ」を分離することもできない。こころの中では「もの」と「こと」は分離不可能な形で一体化しているのである。 しかし、外界と内界のこの違いに気づくことなく、人はひたすら内面の影を消そうとする。この影を作り出しているタンスさえ部屋の外へ運び出せば、その影は自動的に消えるはずだ。そう信じて。そしてそのタンスを担ぎ、全身の力を振り絞ってそれを部屋の外へと運び出す。 なんとかタンスは片づいた。彼は自分の部屋に戻ってきて、じっと部屋の床を見つめる。だが、そこには、以前と同じように、いや以前よりももっと濃く黒々とした影が無気味に横たわっている。なぜだ。影を作り出した原因をいま取り除いたばかりなのに。しかし、やがて彼は自らの過ちに気づく。外界の法則は内界では通用しないのだ。原因としての「もの」があり、それが引き起こす「こと」があるとするならば、「もの」を除去すれば、「こと」は消える。しかし、内界では「もの」と「こと」の区別はないのだ。 彼はタンスを部屋の外へ運び出した時、そのタンスの向こうに存在していた光源までいっしょに部屋の外へ運び出してしまったのかもしれない。あるいはタンスを出そうとして自分自身を部屋の外へ追いやってしまったのかもしれない。わからない。彼は自分の頭を抱え、その場にしゃがみこむ。 それはちょうど真昼時、自分の足元に丸くできた影を見て、その影に輪郭線を引き、それにそってのこぎりを入れていく人の姿に似ている。最後の最後、やっと自分の影の輪郭を切りとり、それを捨て去ることが出来ると思った瞬間、その円周の最後の部分をのこぎりで一引きした瞬間、丸い影ごと、その人間はその穴から奈落の底へと落ちていく。彼は自らの影を捨てようとして、自分自身の足場を失い、自ら地の底へと転落していったのだ。 われわれはこころの中の影を捨て去ることはできない。もしできることがあるとすれば、それは自分のこころの中の影をじっと見つめ、その影の生まれてくるメカニズムを出来うる限り理解しようと努めること、そしてその影の向こうにどのような「もの」や「こと」が存在しているかを知ろうと試みること。ただそれだけである。 われわれは影とつきあっていくしかないのだ。こころの中では影は実体だ。それは大地のしみのようにこころの中に広がり、けっしてその姿を消そうとはしない。 これこれこういうことをしたから、こころの中にこういう影ができたんだ。そう考えるのは自由である。たしかにそれがあてはまる場合もあるだろう。しかし、すべての影をそういう理由で説明することはできない。私たちのこころの中にはなぜ存在しているかわからない、そういう影がたしかに存在している。 「原罪」という考え方、「罪業」「輪廻」「カルマ」という考え方は、こころの中に存在するこのような「影」とどのようにつきあえばよいかという難問に対して賢者が人類に与えたひとつの解答だったのではないかと思う。 人間のこころの中にはこうするからこうなるんだという法則性を適用することのできない領域が確かに存在している。その領域をあなどってはならないのだと私は思う。 こころの中の影はタンスの影のように簡単に消し去ることはできない。むしろその影を拒絶し、忌避し、遠ざけ、排除しようとすればするほど、その影はまるでそれ自身に生命が宿ったように、その人のこころの中で暴れ回り、踊り狂い、その人自身を深く損ない、傷つける。 われわれは影とともに生きるしかないのだ。その影のささやきにそっと耳を傾けるしかないのだ。そう覚悟を決めたとき、その影はそっと私の体のなかに吸い込まれ、その姿を静かに隠すのである。
お針子さんへ
おやおやそうですか。昨日のブログと点滅するピカチューはじっと見つめないほうがいいかもしれませんね。すこし意識のレベルを下げて、気持ちを「降ろして」書いたので、無意識のすきま風が文章に入ってきた可能性はあります。(2006.05.17 19:27:34) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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