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M17星雲の光と影

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2006.06.02
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カテゴリ:村上春樹
このところ「村上朝日堂」を毎日読むのが習慣になっている。基本的にはファンの集い的内容なのだが、彼と「同じ時間を共有している」という感覚を得られるのは同時代に生きる愛読者の特権である。時には「ほおっ」と思わせられる文章にも出会う。先日読んだ「最近の憲法改正論議についてどう考えるか」という質問に対する彼の回答もそのひとつだった。

彼は次のように述べている。

 「現在の憲法は日本の今の現実と照らし合わせてみて、大きな矛盾をはらんでいます。それは確かなことです。いくら「世界に誇れる平和憲法だ」「戦争放棄だ」といっても、現実に立派な軍隊が存在します。おまけにイラクにまで武装したユニット(世界の常識でいえば「戦闘部隊」です)を派遣しました。これはなんといっても大きな自己矛盾です。その矛盾が戦後五十年以上にわたって、日本人の心理にある種の「ねじれ」というか、もっときつく言えば「偽善性」みたいなものをもたらしてきたという言い方もできます。それにだいたい今の憲法は、戦争直後にマッカーサー将軍をトップとする占領軍が中心になって起草したものであるということが通説になっています。公平に見て、国民が自発的に作ったものとはいえないようです。」

この部分は論議の前提となるべき事実の確認だろう。「ねじれ」という表現が加藤典洋の文章から取られたものか、あるいはオリジナルの表現が偶然一致したものなのか、その点はよくわからないが、まあ、それはどちらでもかまわない。ただ「偽善性」というのは一歩踏み込んだ表現であり、ちょっと立ち止まって考えさせられることばづかいである。ここでは、あえて厳しい言い方がなされているようだ。さらに回答はこう続く。

 「にもかかわらず、僕は思うのですが、僕らはそのような矛盾や、ねじれや、偽善性や、出生の不分明みたいなものと、なんとか折り合いをつけて、一緒にうまく暮らしていく方法を覚えることを、切実に求められているのではないでしょうか? ちょうど僕らが友だちや家族とのあいだに矛盾やねじれを抱えながらも、なんとかうまく気持ちをやりとりして、ときどき喧嘩したりしながらも、また仲直りしてつきあったり、一緒に暮らしたりしてる、みたいに。僕らの人生というのは多かれ少なかれ、そういう「心の出し入れ」の産物なのではあるまいかと僕は思います。そんな「折り合い」みたいなものが、僕らの人生をより深く豊かなものにしてくれているのではありませんか? 出生の不分明に関していえば、生みの親より育ての親、という言葉だってありますよね。」

 これはねじれをときほぐして一本化するよりも、まずねじれときちんと向き合おうという提言である。私はこの部分に深く共鳴する。このブログでも以前に「ねじれ」について書いたが、私は人間や、人間の作り出す社会の常態は基本的に「ねじれ」ているのではないかと思っている。社会の仕組みにしても、親子の関係にしても、男女間の関係にしても、それが「ねじれ」ているのがむしろふつうの状態なのではないだろうか。これを強引に、かつ性急にまっすぐにしようとすると、何か細くてデリケートで大切なものが「ぷつん」と切れてしまうのではないかという恐れを感じる。その時、その関係を深いところで規定している本質的な何かが失われてしまうのではないかという思いがある。もちろん「ねじれてて何が悪い」と開き直ろうというのではない。ただ、ねじれを「正常な状態」からの逸脱と決めつけて、強引に矯正しないほうがいいのではないかといっているのである。それよりも、まずはなぜそのような「ねじれ」が生じたのか、その「ねじれ」を徐々にときほぐしていくためにはどうすればいいか。そういうことを考えたほうがいいのではないかと思うのである。

目を転じて自然を見てみよう。そこには基本的に直線は存在していない。自然は直線を好まない。人間存在の核にあるDNAも二重螺旋状にねじれている。そのことの意味を考えてみる必要があるように思う。

憲法九条についても、村上氏のいうような「ねじれ」がたしかに存在している。視覚的にいうと、ちょうどタオルの両端を左右の手でそれぞれ握ってぎゅっと絞った状態。わが国における九条はそういう姿をしている。一方には「理想」があり、「理念」がある。たとえば、それが左手だ。その反対側には「現実」がある。そこには自衛隊が存在し、日米安保条約が存在している。それを右手としてみる。

左手は右手にこういう。「おい、手を離せよ。お前のせいで俺のせっかくの高邁な理想がよじれて見えなくなっちゃってるじゃないか。まったく」。右手は左手に言い返す。「なにいってやがんだい。お前こそ、手を離せよ。浮世ばなれしたこといいやがって。そっちが手を離せば、現実にふさわしい形になるのに。実現不可能な理想なんて早いとこ捨てちまえよ」

最近では、右手の圧力、じゃなかった握力が少し強くなったようでもある。左手、押され気味。でも、このねじれをときほぐすためには、どちらか一方が手を離すしか方法はないのだろうか。「ここはひとつ、なかとって」というわけにはいかないものだろうか。

たとえば、ねじれたタオルの真ん中を口にくわえるというのはどうだろう。

口でタオルの真ん中あたりをぎゅっと噛みしめる。そして両方の手を離す。噛みしめた口を起点として、右端、左端はともに真ん中に合わせるようにゆっくりとねじれをほどいてゆく。こういうイメージで「ねじれ」とつきあうことはできないだろうか。

憲法九条を引く。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

これはいいんじゃないでしょうか、このままで。国際紛争の解決手段としては原則的に戦争を放棄する。しかし理不尽で一方的な攻撃や威嚇に対してはこの限りではないという留保をこの条文の背後に読みとるのは、それほど無理な解釈ではないと思います。この部分に関しては現実との折り合いをつけるのも不可能ではない。あくまでも理念としての不戦の誓いとして。

問題はおそらく第二項ですね。

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

「んなこといっても戦力持ってるじゃないかよ、しかもけっこう強力な奴を。」この反論に答えられないのが弱みなんですよね。すごく乱暴ですが、いっそこの条文の「保持」と書いてあるところを「行使」に変えちゃったらどうでしょう。「陸海空軍その他の戦力は、国際紛争を解決する手段としてはこれを行使しない。」

戦力を行使しない以上、交戦権を認めるわけにはいかないので、変更点はこれだけです。

なんだ、前項と内容がだぶってるじゃないかって?大事なとこだから、念には念を入れて二度いってるわけですよ、理念だけじゃないってことを示すために具体性を添えて。これはつまり、自衛隊を「核抑止論」の「核兵器」と同様に扱おうというわけです。

自国が核を保持することで他国の核の使用を抑止する。これが核抑止論だとすれば、自衛隊をもつことによって他国の軍事力の使用を抑止する。抑止装置としての自衛隊。使わないんだけど、他国の軍事力を使わせないための抑止力としての自衛隊。だから持ってるけど、使わないよ。こう宣言して、ねじれを両方からゆるやかにほぐしていくというのはどうでしょう。

使わないことがわかってりゃ、抑止効果はないよ、といわれるかもしれない。でもそれじゃ核抑止論は成立しない。え、核は使用時の破壊力が甚大で、通常兵器とはレベルが違う?たしかに。でも、要するにあそこを攻撃するととんでもないことになると相手が思ってくれればいいわけですよね。それを担保するためには兵器の殺傷力に頼らなくても、外交的ネットワークの形成でも用は足りるんじゃないでしょうか。もしも日本を攻撃したら、世界の大勢を敵に回し、即座に制裁を食らう恐れがある。あそこを攻めると世界の導火線に火をつけることになる。そういう意識を醸成する必要があると思います。でもそのためには、日本の外務省は一回きれいさっぱり解体して作り直すしかないでしょうね。だいじょうぶですよ。優秀な人材は残せばいいんだし。個人的に仄聞するところでは、あそこの組織の腐り方は尋常ではありません。ほんとですよ。まあ、ねじれとつきあうためにはこのくらいの代償はやむを得ないでしょう。たいしたことありません。今だってたいして機能してないんだから。

武力行使を行わない特異な軍事組織として、自衛隊はもっぱら国内外の災害救助に当たる。この分野に関しては世界的にナンバーワンといわれるくらいの水準にまで、人命救助、医療支援、食糧支援のレベルを高める。そうすることによって隊員の誇りも保てるし、国内外の評価も高まる。

「戦わない軍隊」をいかに有効に機能させるか。この問題のねじれを解く鍵はどうもこのあたりにありそうです。兵法や武術にとって至高の勝ち方は、そもそも戦わずして勝つというところにあるのではないでしょうか。日本人は世界に冠たる頭脳の持ち主だし、そもそも「空手(empty hands)」を生み出した国ではないですか。最強の「戦わない軍隊」の持ち主として、これほどふさわしい国家は他にないと思うのですが。

農耕民族のマッチョなんてみっともないですよ。

それに右手に代表される現実の中には、自衛隊や日米安保や冷厳なるパワー・ポリティックスだけではなく、「六〇年以上戦闘行為を行わなかった」という非戦の歴史もカウントすべきだと思います。こうすると、右手と左手の妥協点も探りやすくなります。

村上氏の回答は以下のように続いている。

「もし現実と論理が齟齬なくぴたっと整合してしまったら、というか現実にあわせて論理を変更させてしまったら、それは逆にとても恐いことなのではないかと、僕は危惧しています。僕は個人的に、そのような状況がもたらされることを、真剣におびえています。日本という国にそんな風になってほしくはない。」

この部分に関しては100%賛成です。「ねじれ」はそれ自体にエネルギーがこもっています。それをほぐす過程でそのエネルギーは放出される。そこでプラスの力を生み出すことが大事なのではないでしょうか。それなのに、もつれてからまりあってるからといって「ああ、めんどくさい」といって、大きなはさみでばっさり「ねじれ」を切ってしまおうとするのはあまりにも乱暴だと思います。それは解決ではなく、破壊と呼ぶべき行為です。われわれはゆっくりとねじれをときほぐしていくべきではないかというのが、私の考えです。

引用した村上春樹氏の回答の全文及び質問は以下をご覧下さい。

村上朝日堂(http://opendoors.asahi.com/asahido/forum/065.html)






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Last updated  2006.06.02 21:14:37
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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