|
|
|
|
| HOME | Diary | Profile | Auction | BBS | Bookmarks | Shopping List |
|
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く |
1972年1月1日、「木枯らし紋次郎」放映開始。ずいぶん昔の話だ。でも、70年代がずいぶん昔に思える時が来るとは、あの頃予想もしていなかった。今では中学校や高校の入学願書の生年月日の記入欄には「昭和」という項目は存在してないんですよ。知ってましたか?彼らの年代にはもう「昭和」という項目は必要がなくなったんですね。まったくもって恐ろしい世の中です。
とにかくこの日のことはなぜか鮮明に記憶している。今なら新しいドラマが始まる時には、「とりあえずビデオにとっておいて、暇な時にでも見るか」という選択ができるけれども、当時はそんなオプションは存在していない。固唾を飲んで放送開始時刻を待つという姿勢を日本中がキープしていたわけである。私はこの日、このドラマが始まるのを心待ちにしていた。 そのドラマが「市川崑劇場」というサブタイトルを持っていたのがひとつの理由である。ちょうどその頃、「野火」や「鍵」など市川崑の古い映画を名画座に見に行っていた。スタイリッシュな映像美を追求する監督であり、東京オリンピックのいくつかの映像は子供心に強く焼きつけられていた。あの市川崑がテレビドラマを。15の春の少年の期待はふくらむばかりである。 もうひとつの理由は主演男優。中村敦夫はその頃、ほとんど無名だったと思うが、私は「火曜日の女シリーズ」(うう、なつかしい)で、たしか飛行機の墜落事故が絡むドラマで航空会社の社員の役で出演していた、おそろしく声が良く、おそろしく地味な顔面をしたこの俳優は、私を一目で魅了し、とりこにしたのである。「はっきりいって、男は声だよな」。当時の私はかたくそう信じていた。元旦に配達された新聞のテレビ欄を見て、彼の経歴をチェックし、卒業大学が「東京外国語大学」であることをチェックし、「おお、ぜんぜん知らない大学だけど、なんだか誰も知らない大学出ててかっこいい」と思ったことまで覚えている。この時の刷り込みのおかげか、それから何年か後、ふと気づくと、その大学のキャンパスをうろうろしている自分を発見することになるのだが、それはまた別の話である。 夜の10時半になる。あらかじめ「これだけはみせちゃり」という懇願で、なんとか家族の合意をとりつけ、私は15分前に風呂で体を清め、歯を磨き、準備万端整えて、テレビの前に正座した。ふーっとため息をつき、柱時計を眺める。 真っ白な背景をバックに、市川昆劇場という墨文字が鮮やかに浮かび上がる(真っ黒なバックに白文字だったかもしれない)。おふくろが蒲団を敷き始め、親父はソファで高いびき、兄貴は素っ裸で風呂に入る支度をしている。「あのねー、あんたたち、もちっと、静かにしてくれんかね。私のプレシャス・タイムを邪魔せんといて」といっても、当然のことのように全員無視。ああ、愚かなる大衆よ、と慨嘆しながら、私は自分の世界に没入する。 おお、はじまった。じりじりと焼けるような太陽にあぶられた街道が映し出される。陽炎が立ち昇る。望遠レンズを使った映像だ。その向こうから破れた笠をかぶった男の姿が徐々に現れてくる。そして、音楽が流れる。 「どーこかでー だーれかがー きーと まってー いてくれるー」 上條恒彦の声で「誰かが風の中で」という曲の最初のフレーズが流れてくる。 「どこかで 誰かが きっと待っていてくれる」 この時の歌詞はそのまま私のこころに刻み込まれた。そして、34年(!)たった今でもそのままの形で刻み込まれている。それほど強烈な印象をこころに刻んだファーストシーンだった。 どこかで俺のことを待っている人間がいる?そんなことはありえない。まずそう思った。俺のことなんて誰も待ってやしない。そんな楽観的な希望を持つことはできない。だいいち何の根拠もないじゃないか。ひねこびた中学生だった私はそう思った。 そんな感傷的なせりふにはだまされないぞ。だいいち、そんなことをくちずさみながら、街道を歩くなんてみっともないじゃないか。ニヒリストならニヒリストらしく、甘っちょろい希望なんてきっちり断念しろよな。ったく。 あくびをしながら「あー、眠かった」といって起き出した親父の声を背後に聴きながら、私はそういう義憤に駆られていた。 でも、それから何十年たっても、ことあるごとに頭の中にあの時の唄の一節が浮かんでくる。 「どこかで 誰かが きっと 待っていてくれる」 いま、思えばたしかに何人かがまさに私のことを待っていてくれた。それは単なる感傷的な希望ではなかった。どうして、こんなところに、しかもこんな偶然を介して、私のことを待っていてくれたとしか思えない人が存在しているのか。けっして数は多くはなかったものの、私はこれまでの人生で何度か深いため息をもらしながら、そう呟いたものである。 そして、そういう時に私はあの唄の一節を思い出す。 「どこかで 誰かが きっと待っていてくれる」 ああ、この歌詞は「いつかどこかで俺を待っていてくれる人がいる」という予想を述べていたわけではなかったんだ。そのことにあらためて気づく。 これは予想でも、観測でもなかったんだ。もしもそうだったら、「どこかで誰かが待っている」、これで十分だったはずじゃないか。予言ならばそれで用は足りる。 でも、あの歌詞は違った。 どこかで 誰かが 「きっと」待って「いてくれる」 この「きっと」と「いてくれる」ってことばはなんなんだろう。なぜ「待っている」ではなくて、「待っていてくれる」じゃなければならないのか。 そこまで考えて、私はようやく気づく。これは未来への予測でも、希望的観測を述べたものでもなく、「祈り」であり、「願い」の唄だったのだということに。 自分のことなど誰も待っていてくれはしないのだ。でも「きっと」誰かが「待っていてくれる」と念じ続ければ、いつか奇跡は起こるかも知れない。そして、そう念じ続ける者の前にだけ、自分がこころの底から待ち望んでいた人がある日、忽然として姿を現すのだ。「なぜ、いま、こんなところに、こんなかたちで」と絶句するようなタイミングで。 あの唄をはじめて聴いてから30年以上経ってはじめて、私はあの歌詞に込められた切ない祈りの感情を理解することができるようになった 奇跡とも思えるような偶然の出会いは、ただひたむきな「祈り」のなかからだけ生まれてくる。 この唄が実は甘美なラブソングだったということに初めて思い至った。 そして、人生の真理がいつもそうであるように、それに気づくのがほんの少しばかり遅すぎたという悔悟の念がそれには伴っているのである。 「誰かが風の中で」 和田夏十作詞・小室等作曲 どこかで だれかが きっと 待っていてくれる 雲は焼け 道は乾き 陽はいつまでも 沈まない こころは むかし死んだ ほほえみには 会ったこともない きのうなんか 知らない きょうは 旅をひとり けれども どこかで おまえは 待っていてくれる きっと おまえは 風の中で 待っている どこかで だれかが きっと 待っていてくれる 血は流れ 皮は裂ける 痛みは 生きているしるしだ いくつ 峠をこえた どこにも ふるさとはない 泣くやつは だれだ このうえ 何がほしい けれども どこかで おまえは 待っていてくれる きっと おまえは 風の中で 待っている [音楽]カテゴリの最新記事
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||