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マンションのベランダに植えている植物の緑色が濃さを増している。所有者が朝晩「湯水のように」水分を補給するので(風呂の残り湯なので正確な表現ではあるが、正確すぎて比喩ではなくなってしまった)、よろよろふらふら状態のオーナーよりもはるかに元気がいい。
冬のあいだ、行き倒れの死体のようだったジャコバサボテンもいつのまにか息を吹き返して、つやつやとした肉厚の葉を出しているし、鉢植えのカロライナジャスミンも連休中に黄色いかぐわしい花を咲かせた後は、緑色の柔らかなつるを天に向かってぐんぐん伸ばしつつある。生育が良すぎて謎の巨大生物と化したピンク色のゼラニウムも、暑いのは苦手そうだが、なんとか細々と花をつけているのがけなげだ。 プランターには観葉植物のアイビーが洪水のようにあふれだしているが、一ヶ月ほど前、そのプランターの空いた場所に朝顔と夕顔の苗を植えた。プランターがベランダの手すりの真下にあるので、その木枠からベランダの手すりまで麻紐を4~5本くらい縦に張り、紐と紐の間にも横に紐を渡して粗雑なハンモックみたいなものを作り、そこにつるを匍わせている。つるは毎日律儀によちよちと紐を上ってくる。既にネットの大半は葉っぱに覆われつつある。朝顔の苗が五つ、夕顔がひとつ。あさがおの葉は小さな毛に覆われ、人はいいのだがいささか粗雑なアメリカの娘さんの肌を思わせる。それに対して、つんとすましたスペード形の葉を逆向きに垂らした夕顔さんは、しっとりとしたなめらかな肌をもつ大和撫子の風情である。朝顔さんほど元気で旺盛に花をつけるわけではないが、夏の夕暮れにぽっかりと白くかぐわしい花を開くさまはたとえようもなくすばらしい。その私のささやかな願いが聞き入れられるといいのだがと思ってそちらを見ると、夕顔さんはそしらぬ顔で「そんなこと知りませんわよ、わたくし」という感じ。このへんがフレンドリーな西洋朝顔さんとは違うところだ。ご機嫌を損ねないように気をつけねばならない。 残る花はエアコンの室外機の上に鎮座しているルリマツリがふた鉢。カタカナで書くといささか味気ないが「瑠璃茉莉」とは優雅な名である(瑠璃は青色の宝石。茉莉はジャスミンに花の形が似ているところからつけられた、と聞いたことがある)。丈夫で病害虫にも強く、花はすずやかで、私の大好きな花のひとつである。一つは薄いブルー(アガパンサスの花色に似ている)で、もうひとつは白。瑠璃というくらいだから、白はルリマツリとは呼ばないのかもしれないが、学名「プルンバーゴ」ではかれんな瑠璃ちゃんがかわいそうだ。ブルーのルリマツリは今年で既に3年目か4年目になる。冬は枯れた状態でベランダの隅に放置されているのだが、春とともに目覚め、毎年年越しをする。そういう意味でも愛着のある花である。この青瑠璃さんは実は冬枯れの時期に家人に枯れ木と思われ、燃えないゴミの袋に詰められてゴミ収集所に出されたことがある。それを知った持ち主が血相を変えて、階下に駈け降り、間一髪のところでゴミの収集車からその可憐な命を守り、ひしと抱きしめたというギリシャ神話のような(でもないか)せつない逸話の持ち主である。それ以来、恩義を感じてか、夏が来るたびに見事な花を咲かせてくれる。今年も最初の花弁が開きかけ、つぶつぶのついたさや状のつぼみからすずやかな青色が顔を覗かせている。 ということで、なんだかねじのゆるんだ天声人語みたいになりつつあるので、このへんでトーンを変えて、と。 朝夕、水やりをしながら彼女たちに接していると、「植物的生」とはなにかということを考えさせられる。昔の中国の皇帝は不老不死を願い、その秘薬を求めてさまざまな試みを行ったという。それらは伝説として今に語り継がれているが、不死などというものはそれほどおおげさに考えるほどのものではない。実現しようと思えば、さほど困難ではないのだ。どうすればいいかって?要するに植物になればいいのである。 植物的生においては、「個」というものが意識の上にのぼることはない。種が芽をふき、双葉をつけ、葉を茂らせ、実を結び、やがてさやから種を落とし、そこからまた芽がふいてくる。どこで個体が消滅したかなどということは誰も気にしないし、当人も気にしている様子はない。そこには連続した生があり、連綿と続く生命活動があるだけだ。第一、植物には「株分け」というものが存在するではないか。二つに分けられた株が「ああ、俺のアイデンティティはどこにいったのだ」と苦悩の叫びをあげたりはしない。だから、不死を願う皇帝は植物になるための手だてを探せばよかったのである。中国四千年の歴史で、人間を植物に変えるくらいの技法はなんとか調達できたのではないだろうか。 植物から動物へと「進化」し(こう言い切っていいかどうかは疑問だが)、移動の自由を手に入れ、能動性と攻撃性を身につけることで、その生物の内面には「個」の意識が宿るようになる。そして、同時にそのかけがえのない「個」を喪失することは、動物の個体にとってもっとも大きな恐怖の対象ともなる。 その動物の中でも最高度に「進化」した(と自己申告している)ホモ・サピエンスに至っては「個」は唯一絶対の動かしがたい存在のよりどころとなった。しかしそのかけがえのない「個」は必然的に「孤」に通じている。閉ざされた個の意識は、他の生とのつながりを断ち切られ、広大な宇宙空間の中でおびえ、ふるえるかぼそい一本の葦となった。 人間が不死の存在となる唯一の方法。それは他の個体との生のつながりを回復することだ。肉親という血のつながりのなかに生の延長を感じとるのもいいだろう。あるいは、見知らぬ他者との間に共感の絆を築くことで生の意識を拡大するのもいいだろう。とにかく他者との間に生命の交流、命の流れを体感することができれば、人間はその蒼白い貧血状態の意識を脱して、あたたかい血の色に頬を輝かすことができるのだ。生のぬくもりのなかで、みずからの体温を相手の腕のなかに感じ、相手のぬくもりを自分の体熱と溶け合わせることができるのだ。それなのに、なぜ人は他者との分離ばかりを考えるのだろう、せっかく結び合わせた絆を断ちきって、個の意識に立ち戻ることばかりを考えようとするのだろうか。 他者との生のつながりを回復すること、その方法を模索すべきではないだろうか。 日が暮れて、ベランダにも涼しい風が吹きはじめる。生まれたての緑色の葉を涼風にそよがせながら、さやさやと彼女たちがささやく声が聞こえる。 「さみしいおもいをするよりも、そっとそばによりそうこと」 「しずかにささやきかけるこえを、しっかりとそのむねにかんじとること」 彼女たちのサ行を強調したひそかなささやきは私の耳にはそう聞こえるのである。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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