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都内某所にて、養老孟司先生の講演を拝聴する。
聴衆のほとんどは大学の受験生である。しかし、養老先生、まったく聴衆に合わせない。その話の面白く、わかりやすく、かつ奥深いこと。そのラディカルさには心底、感銘を受けた。こちらも必死で話についていったが、おそらく理解度は7~8割というところだろうか。断片的にはわかりやすい話なのだが、それらをつなぐ連関、意味の鎖を見出すのはそれほど簡単ではない。そういう話である。受験生諸君の理解度はいかがだっただろうか。まあ、とにかくその話の面白さは無類だった。出し惜しみ、水増し、時間つなぎ一切なし。異常なほど密度の高い話だった。先生の文章ももちろん卓抜した面白さではあるけれども、あの頭の回転速度をリアルスピードで体感できるだけでも得難い経験である。先生は基本的には文章家というよりも「語り」の人ではないかという印象をもった。 ただ惜しいかな、あの語りを文章で再現するのはむずかしい。私のせせこましい文体では、あのスピード感は描き尽くせない。ただ非力ながら、そのさわりだけでもなんとかご紹介することとしたい。まあ、アイマスクをかけて巨象のおしりをこわごわと撫でるだけに終わるのは最初からわかっているのだけれども。 えっと養老です。今日は「脳・心・記憶」というタイトルでお話させていただきます。でも、心というとあまりにも幅広いし、文学的、情緒的にいろんなニュアンスを帯びますから、ここはひとつ「意識」ということで考えたいと思います。こうすると、少し定義がしやすくなりますし、範囲が限定されます。「意識」、わかりますよね。もしわからない方があれば、もう何十分かすると皆さんのなかで意識をなくされる方がいると思いますので、そういう人をじっと観察してください。ああ、あれが意識がない状態で、それに比べて私のほうが意識がある状態だと(笑)。おそらくそれでおわかりになるのではないでしょうか。 ここに脳の簡単な絵を描いてみます。こちらが入力、こっちが出力ですね。入力のところに5本線を引いた意味はおわかりだと思いますが、これは五感、すなわち感覚ですね。視覚とか聴覚とか感覚器で受容した信号をすべて電気信号、パルスに換えることによって脳に伝達されるわけです。それはご存知ですね。ご存知ない方もいらっしゃるかもわかりませんが、まあ、それはいいです。 脳はそれにもとづいて出力を行います。ここで誤解されている方が多いと思いますが、脳の出力はすべて「運動」という形をとります。100%運動です。わかりますよね。いま私がしゃべっているのもこのあたり(胸から喉のあたりを指さして)が複雑な運動をしているわけです。これはかなり修練がいります。たとえばロシア語の文を聴いて「そのまま繰り返してください」といわれてもできませんよね。かなり複雑な運動や修練がそこでは必要になってくるわけです。 脳の出力が運動ということは、私が卒中になれば一発でわかります。体が動かせなくなりますね。脳卒中になると。筋肉にはなんの支障もないにもかかわらず、体が動かせない。脳が壊れるとそうなるわけです。 さて出力の話はちょっとややこしくなるので今日はやめときます。入力の話に限りましょう。さて、この入力のところをぐるっと円で囲みます。そして脳の回りもぐるっと円で囲む。入力、これはつまり感覚の世界ですね。そこに「違い」と書きます。そして、脳の回りには「同じ」と書きます。つまり、感覚は違いを見分ける。脳はそれに対して「同じ」だということを認識する。このふたつにはそういう違いがあるんです。おわかりになりますか。 感覚の世界というのはすべて「違い」を感じる世界です。いまこの部屋の電気がぱっと消えて真っ暗になったとする。「あ、暗くなった」とわかりますね。それは今までと違ったことが起こったからです。あるいはうしろの方からきな臭い匂いがしてくる。「火事じゃないか」とうしろのほうの人は思いますね。それもいままでしない匂いがしてきたからです。和式の便所。入った直後は臭いですね。でもしばらくすると臭くなくなる。要するに感覚というのは、今までと違ったことを感じとるということなんですね。 たとえば、いま私の姿をみなさんは見られています。でも誰一人としてまったく同じ像を見ている人はいませんね。前の人は私の姿が大きく見えて、後の人は小さく見える。右にいる人は私の右顔、左にいる人は私の左顔ばかり見ている。誰も同じ像は見ていません。一人一人の見ているものは全部違いますね。これが感覚の世界なんです。しかし、NHKの報道局長の人なんかは「中立、客観、公正」ということをいいますね。でもNHKのテレビカメラはどうなってるか。あれは一人の人の視点でしょう。それをたくさんの人が見ている。そして同じ像を共有したと思っている。一人一人の違いはこの時点ですべて捨てられて、切られてしまっているわけですね。これが情報化社会の特徴なんです。ここに問題がある。私はそう思うんです。 脳が扱うのは「同じ」ものです。典型的なのは言語ですね。ことばは違うものではなく、同じものをとらえるための道具です。 たとえば私はずっと長いこと猫を飼っています。猫の耳というのはこんな風な内耳をもっています。そして音の高さが変わるとそれに共鳴する部分が変わるんです。それで動物は音を聞き分けているんですね。いま、私がその猫に「ネコ」といったとする。私のかみさんも「ネコ」という。でもネコはそのふたつが同じことを意味するとはわからないはずです。だって音の高さが違いますから。とても同じことを二人がいってるとは思わないはずです。私が「ほーほけきょ」といいますね。皆さんは「ああ、うぐいすか」と思うかもしれない。でもうぐいすはそれを聴いてもけっして「オレの鳴き声だ」とは思わないはずです。だって、音の高さがぜんぜん違いますもの。こういうふうに感覚的には違いが意識され、同じものとは感じとれないんです。でも、人間だけは音の高さに関わらず、それが同じ意味のことばだと思う。それはなぜか。それは人間の脳が大きいからなんですね。脳というのは同じことを認識するものなんです。 動物は生まれつき絶対音感をもってるんです。人間でも小さい頃から楽器をやっている方は絶対音感をもっている。長い年月の訓練の結果、絶対音感を身につけたとかいいますが、それは違います。それは本来もっている絶対音感を消さないために訓練をしたんですね。ふつうの人間はことばを獲得する過程でその絶対音感をなくし、相対音感を身につけるんです。音の高さが違うにもかかわらず、それが同じ曲だと認識する。こういう能力をなんといいますか。そう、「音痴」というんですね(笑)。人間はことばを獲得することによって「音痴」になっているわけなんです。 人間は同じものをとらえる道具をふたつ持っています。ひとつはさっきお話したように「ことば」ですね。もうひとつはわかりますか。誰でももってるものです。そう、お金ですね。一万円を皆さんに渡してなんでもいいですから、これで買えるものを買ってくださいといって、その買ってきたものをこの教室の前に並べると、雑多なものが並びますね。ネコはそれを見てこれらの共通点がなんだか絶対わからないと思います。きゅうりとさんまをそれぞれ一万円分買ってきても、ネコには全然共通点がわかりません。 ネコはなぜことばをしゃべれないか。それはネコが頭が悪いからである。なんていう人がいますが、それはそういうことをいう人のほうが頭が悪い。ネコはバカじゃありません。私は今日雨の降る中わざわざここに来て、こんなくだらないことをしゃべってますね。じゃあ、うちのネコはなにをしてるか。飯を食って、ごろごろ昼寝をしている。どっちが頭がいいですか。はっきりしてますね。ネコのほうがよほど頭がいい(笑)。 というような調子で先生のお話はすいすいぐいぐいと展開していきます。この後も、 ・ 定冠詞と不定冠詞の違いはどこにあるか。前者は感覚世界、後者は脳の世界である。 ・ これは日本語では「は」と「が」という助詞で使い分けられる。 ・ それを意味する語が前に来たり、後に来たりするのは同時処理した情報をいったんことばに整序する際に一列の時系列に沿って並べなければならないからである。 ・ でも中国語にはその区別がない。だから中国人の話は長くなる。具体論か一般論かいちいち註釈が必要になるから。 ・ 個性なんか存在しない。個性とはその人間固有の特徴で、途中で変わらないものだという。それは例えば血液型のようなものだろう。だとすると、「個性を伸ばそう」なんてとんでもない話だということがよくわかる。だって血液型をどうやって伸ばすんですか。「私はえーーーーー型です」とかいうんですかね。(笑)。 ・ ここに四つの果物があるとする。二つはりんご、二つはナシです。でも脳はこれを「リンゴ」と「ナシ」にカテゴライズする。すると2つになります。4つが2つになる。さらに「果物」とカテゴライズすると1つになる。脳は延々とこの作業を続けるんです。ほとんど自動的に。そうすると最終的にはどうなりますか。最後は一つになります。その一つとはなんでしょう。「唯一絶対神」です。ユダヤ、キリスト教はそうやって神を必然的に作ったんです。 ・ これに対して日本ではどうか。日本はこの感覚世界の底のほう、これが神さまなんですね。八百万の神という。感覚世界そのものです。でもこの二つの考え方はどっちがえらいかというのではなく、お互いにお互いを支えあっているんですね。かたっぽがなければ、もうかたっぽも存在できないわけです。 ・ 「自分探し」とか「個性」なんてものはありません。自分の考える自分自身、そこから一歩でも踏み出すことを「勇気」というのです。 ・ 秩序活動(秩序を作る活動)を行うと熱力学の法則により無秩序も増えるんです。秩序と無秩序はバーターの関係なんです。だから昼間行っている意識の秩序活動に対して人間は夜寝るんです。それが証拠に統合失調症や鬱病が悪化してくると、秩序形成活動が円滑に行われなくなって、その結果、不眠症状が出ます。秩序が作れないと寝る必要がなくなるから、眠れなくなるんですよ。 というような話が出るわ出るわ、次から次へと飛びだしてくる。それらが決して脱線というのではなく、たしかにつながってはいるのだが、ほとんど螺旋状にぐるぐると複雑にループを描いて、時折ぱっと火花が散るような瞬間が訪れる。 電光石火、快刀乱麻、変幻自在、当意即妙。まことに貴重な一時間半の語りだった。 「どーこーの誰かは知らないけれど 誰もがみーんーな知ってーいーる 月光仮面のおじさんは」って歌詞、変だと思いませんか。よく考えると。(笑)でも、これが私たちの脳がやってることなんですよ。 そういって、にやりと笑った養老先生のお顔がまるでチェッシャー・キャットの笑顔のように私の脳裏に貼りついております。 養老先生、貴重なお話、ありがとうございました。 先生のお話を聞いて、前途有為の若者の脳細胞に広大な未知の世界が広がったことを確信しております。
こんにちは。タイトルに惹かれて内田先生のブログから来ました。
養老先生の講演、私も一度聞いたことがありますが、面白いですよね。M17星雲さんのおかげで紙面(画面?)で読むことができて大変嬉しかったです。ありがとうございました、 この記事に触発されて、自分のブログに記事を書きました。TBさせて頂きました。私個人の考えなので、お邪魔でしたら外して下さい。(2006.10.14 13:01:10)
はじめまして。コメントありがとうございます。
養老先生の話をうかがって私が思ったのは、「ああ、この人こそ本当のラディカリストだ」ということでした。似非ラディカリストは力んだり、こわばったり、絶叫したりするのに、ホンモノは、飄々と、軽やかに、にこやかに、私たちが立っている(と信じている)地盤を根こそぎ持ち上げて、ひっくり返してしまう。そういう力を私は感じました。 ちょっと特殊な場所での講演だったので、一般の養老ファンの方の目にとまって、うれしく思います。メモもとらず、記憶だけを頼りに書きましたので、細かい誤りもあるとは思うのですが、ほんとうに中味のつまった面白い話でした。 ブログも拝見しました。考えることが好きな人間にとって養老先生や内田先生の文章や語りはなによりの栄養剤であり、強心剤ですね。 では。では。(2006.10.14 20:24:09)
アイマスクを付けて巨像のおしりをこわごわと触る感じ…?
とんでもありません、愉しませていただきましたよ。 養老センセイの特徴をよく捉えていて臨場感が漂ってますって。 この教授、本当に面白いですね。 私はテレビで何度か見ましたが実に面白い。 こういうのを、居ながらにして見られるというのがテレビの良さかも知れません。 この人と暮らしたらさぞ愉しいだろうな、奥方は幸せだろうなぁ~と、そんなコトもテレビの画面を見ながら思ったりもしているんですよ。(2006.12.01 10:54:05)
ジュンさんへ
たとえばテレビで同じ講演を聴いたとしたら、少なくとも私にはこういう文章化は不可能だろうと思います。やはり生身のその人を間近で見て、話を聴くということは大切なことだと最近しみじみ感じております。河合隼雄先生、内田樹先生、そして養老先生、その姿を、声を、肉眼で見、耳で聞いて、はじめて得心のいくことが多かったものですから。でも、文章を書く人間が身近にいるということはあまり心愉しいことではないのではないかと思いますね、私は。自らをかえりみても。(2006.12.03 20:07:26) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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