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教育に関して、次のように言われることがある。 「教育においては、子どもに学ぶことの楽しさを教えることが大切だ。そのためには、生活のさまざまな現象や遊びと学習を結びつけたり、学習のなかで発見の感動を味わわせるなどの工夫が必要である」 まことにもっともな意見に聞こえる。では、この発言の「教育」を「食事」に置き換えるとどうなるだろうか。 「食事においては、子どもに食べることの楽しさを教えることが大切だ。そのためには、生活のさまざまな現象や遊びと食事を結びつけたり、食事のなかで発見の感動を味わわせるなどの工夫が必要である」 なんだか大きなお世話という気がしてくる。こういう指導方針の下、子どもががつがつと旺盛に食い物をほおばる姿はイメージしにくい。口を閉じて、もくもくと静かに咀嚼している姿は浮かぶけれども、どうもあまりおいしそうではない。 そもそも「好きになる」ことと「教える」ことはあまり相性がよくない。ほんとうに面白く、楽しく、好きなものを、他人にも同じように「好きにさせる」ことはむずかしい。たとえそういうことが起きたとしても、それは教える者への敬意や共感や好意に裏打ちされている場合が多く、純粋に「好きである」ことが教えられたかどうかは疑問である。「好き」という気持ちの核心には主体性や自発性がある以上、それを「教える」ことはそもそも不可能だと考えたほうがいいのかもしれない。 では、子どもにおいしいものをたくさん食べてもらうにはどうすればいいか。まず教師自身が生徒の目の前でむしゃむしゃとうまそうに食いものをほおばるのが一番だ。無言で、必死に、ただひたすら食い物にかぶりつく。そこに「さあ、みんなも食べなさい」とか、「食べるって楽しいよ」などということばは不要だ。ひたすら食いまくる教師の姿を見て、子どもたちがごくりと生唾を呑み込んだら、その時、教育の目的はすでに達成されたことになる。 「食べることはすばらしい」「食べることは楽しい」という言明は、すでにして食べることが「つまらない」、「楽しくない」ことを前提にしている。 「学ぶことはすばらしい」「学ぶことは楽しい」という表現も、「学ぶこと=苦しい、辛い、めんどくさい」ことを前提としている。 だから「学ぶことの楽しさ」を教えるよりも、まず教える人間自身が「学びを楽しむ」ことのほうが先決ではなかろうか。 「学ぶ」対象は何でもいい。学問に限らず、スポーツ、武道、能、茶道、詩、短歌、俳句、賭け事、パチンコ、麻雀、その他諸々。「学ぶ」ことと「自発的な喜び」が共存していれば対象を問う必要はない。 よく「学びからの逃走」といわれる。現在の生徒たちが「学ぶ」ことそのものから逃走を開始しているということだが、その子どもたちの前方に、教える人間の「学び」から逃走する後ろ姿が見える。そして、子どもたちの後方からは「学ぶ」ことの楽しさを熱心に教えこもうとする「情熱的な」教師が追いかけてくる。子どもたちは一方では「学ぼうとしない」教師に先導され、他方では「学ぶことの楽しさを教えようとする」教師たちに追い立てられる。ちょうど牧羊犬に前後を挟まれて移動する羊の群れのように。 学びから逃走する教師、それを後方から追いかける生徒、それを懸命に追いかける誠実な教師。 この三者が一直線に並んで走る姿が浮かぶ。 もしも、その動きの延長線上に「学び」の世界の断崖絶壁があるとしたら。 私は少し悲観的になりすぎているのかもしれない。 その直線運動を止めるには、ひとつの逆説が有効だと思える。 「もっとも効果的な「教え」は教えないことのなかにある」 この逆説に賭けてみたい気持ちが今の私にはある。 │<< 前日へ │翌日へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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