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カテゴリ:その他
昨日、NHKの「クローズアップ現代」で、振り込め詐欺特集をやっていた。いくつかの事例がとりあげられていたが、たとえばこういう新手のやり方があるそうである。
「もしもし」 「ああ、あのー、オレ、オレやけど、今度携帯の番号変わったから、ちょっとメモしといてんか」 そういわれて、電話に出た高齢の男性は、このくらいの年齢で自分が知っているのはと考える。ああ、そうか、おいの○○か。 「ああ、わかった。ちょっと待ってな。いま、ペン持ってくるから。ああ、うん、○○○の○○○○やな。よし、わかった。」 「そう、じゃあ、またな」 がちゃんと電話が切れる。もちろん男性は何も疑わない。変更した電話番号を告げるだけの電話に不信感をもつ人間はいないだろう。まさかこれが振り込め詐欺の序章だとは夢にも思わないはずである。 翌日の夕方、同じ声で電話がかかってくる。 「あのなあ、オレ友だちと最近株をはじめたんやけど、ほら、こないだ株の暴落騒ぎがあったやろ。あれで俺の買うた株がえろう下がってしもうてな。今日中に75万円振り込まんとたいへんなことになるんや。頼むから振り込んで、頼むわ」 その電話の発信番号は昨日告げられた番号である。男性はあわててATMに駆けつけ、指示通りの金額を振り込んでしまう。 世の中には悪知恵にたけた人間がいるものである。 営業にはアプローチ、商品説明、クロージングという三つの段階がある。「こんにちは、○○さーん」から始まって、玄関先に客と一緒に腰を下ろすまでがアプローチ、そこから商品説明が始まり、それが一通り終わって、契約書が取り出されるところから大詰めのクロージングというわけである。 トップセールスはアプローチを重視する。もちろん技術的な面で、簡単にアプローチアウトをくらわないように、ありとあらゆるテクニックが駆使されるのはもちろんだが、下手にアプローチがうますぎると、最初からぜんぜん買う気のない客に延々と商品説明をして、契約書を取り出したとたんに「わたし、いらないわ」の一言で徒労に終わることになってしまう。これでは商売にならないので、トップセールスはアプローチ段階で相手の心理を鋭く見抜く洞察力に例外なく秀でているものなのである。 先の振り込め詐欺の事例で私が感心したのは、犯人が巧妙なアプローチを考案していたからである。最初に「電話番号が変わったからメモしといて」といって、「あんた、いったい誰や」といわれたら、これはだまし通すのがむずかしいという判断がつくだろう。そこで切ってしまえば、詐欺どころか、単なる間違い電話で済む。「ああ、これは失礼しました。まちがえました」で終わりである。 この作業を繰り返して、こちらが名乗るまでもなく、向こうのほうで勝手に自分の知り合いと思いこむ人間に出会うのを待つ。そういう人間に出会ったら、あえてそれ以上話し続けることなく、いったんは電話を切る。そして、翌日かけ直す。ここまでの下準備をした後で、やおら「実は」といって銀行振り込みをもちかけるというわけである。 営業の勝負所は「相手を座らせる」ところにある。この電話の場合、もう相手はべったりと犯人の隣に座ってしまっている。座っているどころか、ほとんど「落ちて」しまっているといってもいい。その後の振り込みの操作とか、振り込むための理由は、実はたいした問題ではない。振り込め詐欺の手口もずいぶんと洗練されてきたものである。 しかし、それにしてもこれだけ連日、警察やマスコミが振り込め詐欺撲滅キャンペーンを繰り広げているのに、なぜ依然としてだまされつづける人がいるのだろう。そうお思いの方も多いのではなかろうか。 私はこのキャンペーンが、実は振り込め詐欺の隆盛に一役買っているのではないかとにらんでいる。 「私はこんな詐欺にはぜったいに引っかからない」という意識が世の中の人々に浸透すればするほど、実は自分の置かれた状況を「これは詐欺ではない」と信じる力が強まるということがある。現に詐欺にだまされつつある状況下で「自分はだまされない人間である」と堅く信じる人間は、その前提から「今、自分が直面している事態は詐欺ではない」という確信に導かれやすい。「私はだまされない」⇒「今も私はだまされていない」⇒「だから、これはけっして詐欺ではない」というループの中にすっぽりと入ってしまい、結果的にまんまとだまされてしまうのである。だから、マスコミは「これだけ教えてやってるのに、まだだまされるアホがいる」というトーンで番組を作るのではなく、そう思っている人間に限って、それを逆手にとられてこんなふうにだまされるという角度から番組を作るべきなのである。「なんで、この人たち、だまされるんやろ、アホやなあ」という感想を視聴者に与えるのではなく、「あら、これやったら、私かてひょっとしたらだまされとるわ」と感じさせる番組を作らないと、犯罪防止には役立たないのである。 もうひとつ。振り込め詐欺に引っかかる人間が後を絶たない理由は、だまされる側の「私は人を助けている」という意識にあるように思う。 現代に生きる高齢者に「人に頼りにされる」機会がどれほどあるだろう。都会の老人などはとくにそういう機会が少ないと思われる。誰にも頼りにされず、一人きりで寂しい日々を送っている高齢者は「はたして自分が生きることにどんな価値があるのか」、「私ははたして人様のお役に立っているのだろうか」、そういう思いを抱きつつ生きているのではないか。地域の共同体から切れ、親族と疎遠になり、孤独な日々を送る高齢者にとって、自分を正当に価値づけるための唯一の手がかりは、ひょっとすると自分の預金通帳の残高なのかもしれない。 そういう人のもとに、ある日「助けてくれ」というSOSの電話が入る。「あなたが頼りなんだ。いますぐにお金を振り込まないとたいへんなことになる。頼むから助けてください」 そういう電話を受けて、彼らはどう思うだろう。実にひさびさに自分が頼りにされている。私を救えるのはあなただけだとこの人は言っている。しかも、助ける手段は自分を正当に価値づけているところの銀行預金だ。今となってはこれだけが自分をアイデンティファイしてくれる貴重な「財産」だ。それを必要とする人に送金手続きをすることによって、もう誰にも頼りにされなくなったこの自分にも再び復権のチャンスがめぐってくる。自分を頼りにし、救いを求める人々を助けることによって、自分が正当に評価される時がやってきたのだ。彼らがそう思ったとしても不思議ではない。 そう信じ込んだ老人にとって(別にこれは老人に限ったことではないが)、「ちょっと待ってください。それはひょっとすると振り込め詐欺ではないですか」と言って振り込みを制止しようとする偉そうな銀行員や警察官はどう見えるだろう。おそらくは彼らの正当な自尊心の発現を邪魔する「敵」に見えるのではないだろうか。だって、彼らは自分に向かって「おまえはマスコミでこれだけ騒がれている振り込め詐欺に、まんまとだまされつつあるおろかで無価値な老人なんだぞ」と面と向かって言われていることになるわけだから。 彼らが「だいじょうぶです。ほっておいてください。これは詐欺なんかじゃありません」といって、銀行員や警察官の手を振り払おうとする気持ちが私にはわかるような気がする。自分の価値を認め、助けを求める人間のために働こうとする自分の行動を邪魔し、自分を愚か者として否定する背広や制服に身を固めた人間に、誰が唯々諾々と従うだろうか。 こう考えると、振り込め詐欺の根は意外に深いところにあることがわかる。 被害者はただ単に巧言にひっかかった受身の存在というよりも、むしろ人を助けようという積極的な意思の持ち主なのである。彼らはだまされたというよりも、むしろ積極的、能動的に自分をだます詐欺行為に参加していると見ることもできる。 「自分は無力な人間ではない」、「自分は社会に参加し、人を支え、助ける力をもっているんだ」――そういう気持ちを高齢者たちが確かにもつことが、そして、それを可能にするような社会の仕組みを作ることのほうが、今行われている振り込め詐欺キャンペーンよりもはるかに有効な防止策ではないかと、私はひそかに考えるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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