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junjun081359のメモ [全669件]
オタール・イオセリアーニの半自伝的作品『汽車はふたたび故郷へ』。 公開は来年2月(HPの公開はちょっとヘン)? いつもながらも不思議でありつつユーモラスな作品で、あっという間の2時間。 過去のイオセリアーニ作品を想起させるシーンもいくつか挿入されるところ (『四月』にあるような建設されている幾つもビルディング、窓辺で楽器を演奏している人びと、 ほかにタイトルは同定できないけれど、 しばしばごくごく自然に顔をだしてくる動物たち、太い声で歌っている人たち、などなど)もいいし、 尼僧の格好をした3人がタップを踊っていたり、 笑えるところが各所にあったりする。パリからグルジアまで、伝書鳩で手紙をとばすのも可笑しい。 (パリで主人公を迎えるのが「アレクサンドル・ボロディン」だったりするのだけれども、 そう、ボロディンはグルジア出身だったのだ……。) 子どものときから大人まで、仲の酔い男性2人、女性1人の「トリオ」が、 余計説明も会話もなしに、一緒に行動しているのがじつにステキだ (特に女の子、子どものときも大人のときも、じつに魅力的。イオセリアーニの女性の趣味はもう……!)。 もちろん、グルジアでもフランスでも、体制やプロデューサーに理解されない映画監督というのは、 ある種、イオセリアーニ自身の「(反)英雄」性を読みとるひともいるだろう。 だが、そんなのはどうでもいい。 作者と切り離して、まずは観ること、だ。 個人的には、イコンの前にあるロウソクがふっと消えて、煙がのこっているところなど、 ちょっとしんみり。 http://bitters.co.jp/kisha/
今年観てきた邦画には何らかのかたちで芝居がかかわってくる作品が4本あった。 『大鹿村騒動記』『少女たちの羅針盤』『行け!男子校高演劇部』『WAYA!』。 ある意味『シャッフル』も戯曲をもとにしているから、近い路線かも。 それぞれにおもしろくはあった。 でも、こういうふうに、 芝居という別の表現媒体を映画に持ちこむことで活性化するというところに、 何か、邦画の現状があらわれているようにおもえなくもない。 今年はあと2か月半あるから、さて、どうなることやら。
昨晩、(9月21日・水)、ustreamで朗読をしてきました。 坂本龍一さんたちがつくられた『いまだから読みたい本』(小学館)を中心にしたもので、 DJのサッシャさん進行のもと、 本の紹介を吉村栄一さんがされ、 それから 14歳の藤波心さん、わたし、坂本美雨さん、高野寛さんが朗読をしました。 http://www.ustream.tv/recorded/17412347#utm_campaign=www.facebook.com&utm_source=17412347&utm_medium=social みなさんは『いまだから』から朗読されたのでしたが、 わたしは『ろうそくの炎がささやく言葉』(勁草書房)から1篇、 カリン・ボイエの詩を。 訳者・冨原さんの名を言い忘れ、 あとでさりげなく付け加えた、という不始末。 それに滑舌がわるく、恥じ入るばかり。 上のリンクは前半で、わたしこの「前半」の後半にでてきます。 ま、ご覧にならなくてもいいものですけど(笑)。 なにしろ台風でしたから、ほんとにやるのかどうか心配していたのです。 14時からの教授会は15:30くらいに中止となり、 風雨のなか、一度、自宅に戻りました。 それからすこししごとをしたのでしたが、放送が中止となる連絡などはない。 だから、18時過ぎに自宅をでたのです。 ところが! 飯田橋駅に着くと、営団地下鉄はいっせいに運休。 これでは行くことができない!としばし途方にくれたのでしたが、 気をとりなおして、動いている大江戸線に乗り、 ちょっと時間をかけて、築地市場へ。 下車し、地上にでると、朝日新聞前は雨もやみ、 風はすこしあったけれど、ひとも少なく、静か。 そんななかを東銀座の東京ニュース通信社へ歩いていった、という次第。 放送が終わったのは22時。 外にでるとふつうの東京に戻っていました。 こんな日に-----交通渋滞など3.11以来だろう-----こうした本の朗読をおこなう、 ということになったのも、不思議なものです(高野寛さんもそう言っていました)。 終わった後、友人の店ですこし飲んだのでしたが、 その最中に茨城発の地震がありました。 「安全」というのを確信できなくなっているのが、現在、なのでしょう。
![]() (もちろんどんな映画だってそうなのだけれど)。 林由美香という女優とのつきあいを、 平野勝之という監督が映画にしたもので、 はじめはただ淡々と観ていられるのが、 徐々に、というか、唐突に、というよりぐっとあるとき変化する。 それについては特にふれないが、 映像を記録し、残し、さらにまた一種の作品化すること、 について、もろもろ考えずにはいられない。 2人がつきあいはじめたころの1980年代と あとのほうの2000年代とでは、映像の質感が当然ながら違う。 2人の顔や表情も違う。 年月がそうしたところにあらわれている。 言い方を変えれば、 おなじフィルムとして、いろいろな時間が定着され、 ひとつのものとして提示されることのこわさ。 そして、それはまた、生も死も、であり、 バルトではないが、”かつてあった”と”いまもある”が 同一平面にあってしまう、ということ。 由美香が《ゆうやけこやけ》をうたうシーン。 自転車で北海道をめざす、という2人。 映像は、ピントがずれたりぶれたり、わざと動かしたりも。 タバコ。 2人が吸うタバコ。 あるいは、壮行会をやる飲み屋での、 タバコを手にするひとの多さ。 かつてはあれがふつうだった、とおもってしまう現在。 由美香の(北海道行途中での)泥酔。 これは、のちのちに伏線のように、あとで、おもえなくもない。 ときどきあらわれる動物。 由美香のママの家にいる猫。 テントと猫。 由美香の部屋にいる白い犬。 ひたすら動いている犬。 由美香の「昔の男はいいなあって」ということば。 インサートされる文字/ことば、字幕、声 ヴィデオ・カメラは、自動で撮れてしまう、ということ。 ほおりだしても、勝手に撮っている。 おもわぬところで、記録が撮れてしまう。 湿度が高い日の夜、とうとう雨が降りだし、 アスファルトが1粒1粒濡れてゆくさま。 このシーンは2回。 そしてあとでまた登場する。 「監督失格」であることの意味、かさなり。 反復されること。 事実として、以上に、平野勝之という監督自身の、 由美香から言われたこと、そして、自らにむけての、 自らの確認としての。 さいごにながれる矢野顕子の弾き語り。 書き下ろし《しあわせなバカたれ》。 ピアノのひびき、と、残響と間。 このエンディングにほっとする。 タイトルは、プロデューサー・庵野秀明によるものか。 庵野には、つれあいの安野モヨコによる『監督不行届』がある。 公開は9月3日より、TOHOシネマズ六本木ヒルズ。 http://k-shikkaku.com/
![]() 鈴木了二が『「建屋」と瓦礫と』を書いている。 副題としてあるのは、「テクノニヒリズム」以後。 考えさせられることは幾つもある。 そのなかで、とりあえず2つ。 そもそも「建屋」という語に、筆者は引っ掛かる。 専門家はふつうに使うようだが、 わたしのような一般人には、慣れない語であり、 その点では同感なのだが、そのニュアンスは異なっている。 原子炉建屋、これは明らかに差別用語だ。 ポンプ室や工場などで使う名称であるとはいえ、 これほど巨大で危険な施設に適用すること自体がなおさら差別的である。 そして、もうひとつ。 ほとんど崩壊しながらも本質的なレベルで廃墟になりきれないという 宙ぶらりんの恥辱が、 神々の宿る神域にも似たその場所に剥き出しになっている状態、 それが福島第一原発という建築の存在形式にほかならない。 しかも弔うことさままならぬその恥辱を 今後も延々と生き続けなければならないのだ。 建築の新たな存在形式であることは間違いない。
![]() そこから武蔵野線に乗り、西国分寺。 中央線に乗り換えて、 八王子、高尾、諏訪湖へと。 帰りはその逆をとるが、 意外に高尾とか八王子とか西国分寺が混む、 ということを発見。 東上線に乗り換えるときのホームや階段はものすごい。 乗ったことがありはしたものの、 大抵はすいている時間だったのだ、と気づく。 写真は、相模湖。 まわりは、ほとんど、何もない。 でも、2時間もあれば行けることがわかった。 |一覧| |
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