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三島由紀夫作・野村萬斎演出『サド公爵夫人』@世田谷パブリックシアター。 ラシーヌ、というか、フランス古典劇を意識しているのかもしれないとはじめておもう。新潮文庫にはいったときはすぐ買って熱狂して読んだものだった(カップリングは『わが友ヒットラー』で、女性のみ/男性のみのコントラスト)。「そこ」では何も起きない。多くのことは語り・ことばのなかでのみ伝達される。 ステージの上に円形のもうひとつの舞台があり、そこに椅子やテーブルがある。一段低いところには黒い砂らしきものがあって、一度、それを手にとるところがある。 開幕すると、下りているシャンデリアを家政婦・シャルロットがあげる。第1幕と第2幕、それは変わらない。第3幕はあげることなく、そのまま下におりたまま。これが、シンプルな舞台のなかで、一種の象徴的な意味あいを持っているようだ。たとえば第2幕、サン・フォン伯爵夫人=麻美れいがテーブルの上で横になり、脚を露出しながら黒ミサを演じるとき、吊るされた真上のシャンデリアの色が変わる。そして音がひびく。 主役といえるサド公爵夫人=ルネ(蒼井優)、批判もあろうけれども(まわりではあまり拍手もしていなかった)、あれだけのセリフをよくやっていたとおもう。最後のシーンでは中央に立って、ずっと語るのである(全体のなかで何度かかんでいたけど)。その背後、ちょうどアタマのところにシャンデリアの鎖がみえ、あたかも頸を吊っているかのようにみえたりするのも一興。最後のセリフとともに、この鎖の音がし、つづいて暗転、《ラ・マルセイェーズ》がひびく。 ルネの母親・モントルイユ夫人=白石加代子についてはその存在感についていまさら言うべきことはない。 個人的な好みとしては、ルネの妹・アンヌ=美波で、つい、目が追ってしまった。ほっそりとした脚をだしていたせいもあるが、第二幕における表情の変化、ちょっとした不機嫌さ、など、いいのである。この幕では、座っていると、何度も脚を組み替えていた。幕ごとに化粧や髪型が変わってもいった(ま、ほかの役者も同様だ。それだけ年数が経ったという設定なのだから)そういえばこの子、蜷川演出の『エレンディラ』にでていたのだったな。 ヴェニス、という場所の名が何度かでてくるが、どこかでイタリアと言い換えられるところがある。それって、だけど、当時からそう呼ばれたのだったか? そこは歴史的知識が欠けていて、ちょっと疑問だった。 昔読んだときにはわかったような気がしていたけど、やっぱり難しい。ましてやパロールで耳にはいってきても意味は充分に追いきれない。サドの世界観についての解釈、それもまわりにいる女性たちによる解釈、と言ってしまえば簡単なのだけれど、いやいや、それだけではすむまい。 http://setagaya-pt.jp/theater_info/2012/03/post_268.html
オタール・イオセリアーニの半自伝的作品『汽車はふたたび故郷へ』。 公開は来年2月(HPの公開はちょっとヘン)? いつもながらも不思議でありつつユーモラスな作品で、あっという間の2時間。 過去のイオセリアーニ作品を想起させるシーンもいくつか挿入されるところ (『四月』にあるような建設されている幾つもビルディング、窓辺で楽器を演奏している人びと、 ほかにタイトルは同定できないけれど、 しばしばごくごく自然に顔をだしてくる動物たち、太い声で歌っている人たち、などなど)もいいし、 尼僧の格好をした3人がタップを踊っていたり、 笑えるところが各所にあったりする。パリからグルジアまで、伝書鳩で手紙をとばすのも可笑しい。 (パリで主人公を迎えるのが「アレクサンドル・ボロディン」だったりするのだけれども、 そう、ボロディンはグルジア出身だったのだ……。) 子どものときから大人まで、仲の酔い男性2人、女性1人の「トリオ」が、 余計説明も会話もなしに、一緒に行動しているのがじつにステキだ (特に女の子、子どものときも大人のときも、じつに魅力的。イオセリアーニの女性の趣味はもう……!)。 もちろん、グルジアでもフランスでも、体制やプロデューサーに理解されない映画監督というのは、 ある種、イオセリアーニ自身の「(反)英雄」性を読みとるひともいるだろう。 だが、そんなのはどうでもいい。 作者と切り離して、まずは観ること、だ。 個人的には、イコンの前にあるロウソクがふっと消えて、煙がのこっているところなど、 ちょっとしんみり。 http://bitters.co.jp/kisha/
今年観てきた邦画には何らかのかたちで芝居がかかわってくる作品が4本あった。 『大鹿村騒動記』『少女たちの羅針盤』『行け!男子校高演劇部』『WAYA!』。 ある意味『シャッフル』も戯曲をもとにしているから、近い路線かも。 それぞれにおもしろくはあった。 でも、こういうふうに、 芝居という別の表現媒体を映画に持ちこむことで活性化するというところに、 何か、邦画の現状があらわれているようにおもえなくもない。 今年はあと2か月半あるから、さて、どうなることやら。
昨晩、(9月21日・水)、ustreamで朗読をしてきました。 坂本龍一さんたちがつくられた『いまだから読みたい本』(小学館)を中心にしたもので、 DJのサッシャさん進行のもと、 本の紹介を吉村栄一さんがされ、 それから 14歳の藤波心さん、わたし、坂本美雨さん、高野寛さんが朗読をしました。 http://www.ustream.tv/recorded/17412347#utm_campaign=www.facebook.com&utm_source=17412347&utm_medium=social みなさんは『いまだから』から朗読されたのでしたが、 わたしは『ろうそくの炎がささやく言葉』(勁草書房)から1篇、 カリン・ボイエの詩を。 訳者・冨原さんの名を言い忘れ、 あとでさりげなく付け加えた、という不始末。 それに滑舌がわるく、恥じ入るばかり。 上のリンクは前半で、わたしこの「前半」の後半にでてきます。 ま、ご覧にならなくてもいいものですけど(笑)。 なにしろ台風でしたから、ほんとにやるのかどうか心配していたのです。 14時からの教授会は15:30くらいに中止となり、 風雨のなか、一度、自宅に戻りました。 それからすこししごとをしたのでしたが、放送が中止となる連絡などはない。 だから、18時過ぎに自宅をでたのです。 ところが! 飯田橋駅に着くと、営団地下鉄はいっせいに運休。 これでは行くことができない!としばし途方にくれたのでしたが、 気をとりなおして、動いている大江戸線に乗り、 ちょっと時間をかけて、築地市場へ。 下車し、地上にでると、朝日新聞前は雨もやみ、 風はすこしあったけれど、ひとも少なく、静か。 そんななかを東銀座の東京ニュース通信社へ歩いていった、という次第。 放送が終わったのは22時。 外にでるとふつうの東京に戻っていました。 こんな日に-----交通渋滞など3.11以来だろう-----こうした本の朗読をおこなう、 ということになったのも、不思議なものです(高野寛さんもそう言っていました)。 終わった後、友人の店ですこし飲んだのでしたが、 その最中に茨城発の地震がありました。 「安全」というのを確信できなくなっているのが、現在、なのでしょう。
![]() (もちろんどんな映画だってそうなのだけれど)。 林由美香という女優とのつきあいを、 平野勝之という監督が映画にしたもので、 はじめはただ淡々と観ていられるのが、 徐々に、というか、唐突に、というよりぐっとあるとき変化する。 それについては特にふれないが、 映像を記録し、残し、さらにまた一種の作品化すること、 について、もろもろ考えずにはいられない。 2人がつきあいはじめたころの1980年代と あとのほうの2000年代とでは、映像の質感が当然ながら違う。 2人の顔や表情も違う。 年月がそうしたところにあらわれている。 言い方を変えれば、 おなじフィルムとして、いろいろな時間が定着され、 ひとつのものとして提示されることのこわさ。 そして、それはまた、生も死も、であり、 バルトではないが、”かつてあった”と”いまもある”が 同一平面にあってしまう、ということ。 由美香が《ゆうやけこやけ》をうたうシーン。 自転車で北海道をめざす、という2人。 映像は、ピントがずれたりぶれたり、わざと動かしたりも。 タバコ。 2人が吸うタバコ。 あるいは、壮行会をやる飲み屋での、 タバコを手にするひとの多さ。 かつてはあれがふつうだった、とおもってしまう現在。 由美香の(北海道行途中での)泥酔。 これは、のちのちに伏線のように、あとで、おもえなくもない。 ときどきあらわれる動物。 由美香のママの家にいる猫。 テントと猫。 由美香の部屋にいる白い犬。 ひたすら動いている犬。 由美香の「昔の男はいいなあって」ということば。 インサートされる文字/ことば、字幕、声 ヴィデオ・カメラは、自動で撮れてしまう、ということ。 ほおりだしても、勝手に撮っている。 おもわぬところで、記録が撮れてしまう。 湿度が高い日の夜、とうとう雨が降りだし、 アスファルトが1粒1粒濡れてゆくさま。 このシーンは2回。 そしてあとでまた登場する。 「監督失格」であることの意味、かさなり。 反復されること。 事実として、以上に、平野勝之という監督自身の、 由美香から言われたこと、そして、自らにむけての、 自らの確認としての。 さいごにながれる矢野顕子の弾き語り。 書き下ろし《しあわせなバカたれ》。 ピアノのひびき、と、残響と間。 このエンディングにほっとする。 タイトルは、プロデューサー・庵野秀明によるものか。 庵野には、つれあいの安野モヨコによる『監督不行届』がある。 公開は9月3日より、TOHOシネマズ六本木ヒルズ。 http://k-shikkaku.com/
![]() 鈴木了二が『「建屋」と瓦礫と』を書いている。 副題としてあるのは、「テクノニヒリズム」以後。 考えさせられることは幾つもある。 そのなかで、とりあえず2つ。 そもそも「建屋」という語に、筆者は引っ掛かる。 専門家はふつうに使うようだが、 わたしのような一般人には、慣れない語であり、 その点では同感なのだが、そのニュアンスは異なっている。 原子炉建屋、これは明らかに差別用語だ。 ポンプ室や工場などで使う名称であるとはいえ、 これほど巨大で危険な施設に適用すること自体がなおさら差別的である。 そして、もうひとつ。 ほとんど崩壊しながらも本質的なレベルで廃墟になりきれないという 宙ぶらりんの恥辱が、 神々の宿る神域にも似たその場所に剥き出しになっている状態、 それが福島第一原発という建築の存在形式にほかならない。 しかも弔うことさままならぬその恥辱を 今後も延々と生き続けなければならないのだ。 建築の新たな存在形式であることは間違いない。
![]() そこから武蔵野線に乗り、西国分寺。 中央線に乗り換えて、 八王子、高尾、諏訪湖へと。 帰りはその逆をとるが、 意外に高尾とか八王子とか西国分寺が混む、 ということを発見。 東上線に乗り換えるときのホームや階段はものすごい。 乗ったことがありはしたものの、 大抵はすいている時間だったのだ、と気づく。 写真は、相模湖。 まわりは、ほとんど、何もない。 でも、2時間もあれば行けることがわかった。
![]() 12日(火)から始まって2日目。 訪れたときには、自作の《月夜の海》を17絃箏で演奏中。 午後になり、15時くらいから、 古代楽器の復元・箜篌(くご)で、三輪眞弘《蝉の法》を。 写真は、この珍しい楽器。
![]() I.S.O.:大友良?英、Sachiko M、一楽儀光。 隅田川アート・フェスティヴァル「江戸を遊ぶ」の一環。 境内の三方にはなれて3人が位置し、 聴き手は自由にそのあたりを?動く。 大友良英は赤いよだれかけをした牛の前に陣取るが、 そばに?は千羽鶴がさがり、背景には東京スカイツリーが、という不思議な?光景。 高速道路の音、東武線の音、通り過ぎる自転車、 歩くひとの?音、風に揺れる木と葉ずれの音。 ときには賽銭を投げ入れる金属音?も。 20時から本堂(?)で、大友良英と小沼純一でトーク。 場と音・?音楽の話を中心に。 すでに投稿したハクビシンの話も。 なお、17日(日)には、吾妻橋周辺において、 「アンサンブルズ?・パレード/すみだ川音楽解放区」開催。 多くの人たちが演奏しな?がら、練り歩きます。 写真は、音だし/リハーサル中の大友良英。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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