別れまでの数日愛犬を連れ帰ったその日、既に一昨日までの気力はないように見えましたが、きっとこれから徐々に良くなるのだろうと思っていました。病院から夜鳴きがひどい時に飲ませても構わないと言うことで睡眠薬をもらっていました。 これは家族が愛犬の痴呆に疲れ切らず、長くうまくつきあえるよう手助けをして貰う薬でした。 この睡眠薬は愛犬にとってはもちろん良くない薬であり、量を間違えば血圧が低下しすぎて死に至ることもあるものですので、 私は極力使いたくなかったのですが、病院から連れ帰った日の夜もやはり夜泣きがひどく、病院へ電話をし 最小の量を再度確認し飲ませることにしました。愛犬は病院から帰宅して以来、ずっと何も口にせず水しか飲んでいなかったので 無理矢理におかゆと薬を口に入れてやりました。それでもほとんど食べず横になっていました。 次の日は母が仕事で昼間いないので私が実家へ行き、つきっきりで見ていることにしました。 外で様子を見ていると病院へ行く前ほども歩けず、手で支えて歩かせてやると、 すぐに頭から地べたへ前転するように転がってしまいました。また水も口に入れてやっても垂れ流してしまいました。 しばらくして鳴きも落ち着いたので、毛布を敷きその上で寝かせてやり、ぽかぽかと陽のあたる場所で私も座って寝顔を見ていました。 するとこの愛犬の娘も側へ来ました。このところ母犬の症状がひどくなってからは、この娘犬も母犬に対し以前の世代交代の時のように 怒ることもなくなり、優しく見守るようになっていました。 この時は時間がおだやかにゆっくりと流れている感じで、この親子の光景がとてもほのぼのとしていました。 ゆっくりじっくりと母犬が心の声で、娘に何か伝えている時間のようでもありました。 夕方になり母が帰宅したので、親子仲良く昼寝していたことを報告し自宅へ帰り、夜は愛犬が気になったので 私も実家で泊まることにしました。その日は父がいなかったこともあり、母の布団に一緒に愛犬を寝かし、その側に娘犬も一緒寝ました。 夜はまたひどい夜泣きが始まったので、私が作ったご飯と一緒に薬を飲ませようとしましたが、あとで少しもどしたので 飲んだのか出したのか解らない感じでした。この時愛犬が口をなかなか開けなかったので、 指でつっこんでやったのですが、かなり強い力で小指を挟まれてしまいました。 結局この3日間ほとんど食べず飲まずでしたが、また食べるようになれば少しは歩けるようにもなるだろうと思っていました。 その夜は、それを口にしたきりおとなしく静かに眠ってくれましたが、私は午前4時頃に娘犬が足下に来たので「あれ?」と思い起きました。 横を向いて愛犬と母の寝ている布団を見ると、母が起きて一生懸命に愛犬のお尻を拭いていました。 聞くと、さっき起きてみた、らうんちが少しづつでてるから拭いてあげていると言うのです。 私は嫌な感じがして、そっとそしてじっと愛犬のお腹と表情を見てみました。思った通りでした。 愛犬の表情はうっすらと目を開けて私の方を見ていましたが、目は合いません。お腹はいつものように大きく動かずじっとしています。 愛犬は、母の布団の上で安らかな顔をして私を見つめたまま、旅立っていました。 母にお腹が動いていないことと、表情が固まっていることを落ち着いて静かに告げると、母も取り乱すことはなく確認し 「よくがんばったね。ありがとう」と涙を流して愛犬をなでてやりました。 私もすぐ側へ行き、母と二人でいろいろと声をかけながら泣き崩れました。 その時娘犬はこのことを理解していたのかどうか解りませんが、大人しくそっと私たちの側にたたずんでいました。 母をご主人様と思い、母のことを守っていた犬でしたので、その夜一緒に布団で眠ったまま逝けたことは 愛犬にとっても幸せだったろうと思います。安楽死を考えた日から、たった3日ほどしか延ばせなかった命でしたが、前日はずっとついていてやれ、 自身でそのときを選び、自宅で眠りにつけたことで、愛犬の最後に後悔はありませんでした。いえ、ないと言うのは嘘になりますね... 朝帰宅した父も、私が自宅へ帰った後母の前で涙を流したそうです。 家族みんなに惜しまれつつ、愛犬は天国へ旅立ちました。亡骸はいつまでも側にいると離れるのもつらくなる上、 醜くなるのは可哀想だったので、その日の午前中に宝塚動物霊園へ連れて行き荼毘にふされ、遺骨は持ち帰りました。 その明くる日まで、愛犬に挟まれた小指の痛みが残っていて、その痛みすら愛おしく、小指を見つめると涙があふれていました。 「昨日までこんなに強く噛む力があったのに...やっぱりお薬が嫌だったのかなぁ、ごめんね。」と、心でそうつぶやいていました。 2003年10月18日午前4時頃 愛犬は永眠しました... *犬の痴呆 *別れまでの数日間 *愛犬のお葬式 *残されたわんこ |