19話 【興味津々】19話 (環) 【興味津々】―キョウミシンシン― 「……名古屋店だって?」 麻生環の手に握られた辞令には、次の避難場所が書かれていた。 避難場所……しつこいストーカーから逃げる手段として用意されたシェルター。身を守るための、新たな隠れ蓑である。 (名古屋店にはあいつがいるんじゃなかったか?) あいつ……つまり、柾直近だ。麻生の同期というだけの少ない接点ながら、何の因果か、付かず離れずの距離にいる男。 ストーカー被害に遭い、女嫌いになってしまった麻生と違い、妻帯者だというのに平気で不倫をこなす柾はまるで対極の存在だ。 (あいつと同じ支店で働くのは、これが初めてだな) 初対面は入社式を迎えて間もない頃だった。 その際、ひょんなことから互いの名前を知ることとなり、以来、何かと本部や出張先、会議で顔を合わせる機会が多くなった。 仕事が終わればそのまま一緒に飲みに行くが、休日にわざわざ会う仲でもない。あくまでも職場の同期という間柄だ。 (相変わらず不倫生活を謳歌してんのかね) 考えただけでも悪態をつきたくなる。 純粋な恋愛から縁遠くなってしまっただけに、自ら泥沼愛憎劇を選ぶ柾の心理が理解できない。 妻がいるのだから、その妻をひたすら愛し抜けばいいではないか。なぜ妻や愛人を悲しませるような真似をするのか理解不能だ。 (阿呆だな、あいつ) 平穏が一番に決まってる。1対1で、お互いを尊重し合いながら愛を育むのだ。 それが麻生の考える恋愛であり、不倫やストーカーは決してその類ではない。 *** 名古屋店に異動する2日前の夜、同期の五十嵐が、祝い酒を手土産に麻生の実家を訪れた。 五十嵐が同郷だと知ったのは、意外にもまだ最近のこと。 車で10分とかからない近さにお互い奇妙な縁を感じたのがきっかけで、たまにこうして麻生の家に寄っては語り合う。 国際結婚をしている五十嵐の妻は現在アメリカで暮らしているので、時間も気にせず気楽に語らうことが出来た。 とはいえ麻生は実家暮らし。親から結婚をせっつかれ、居心地が悪いのも確かだった。 「なにせ関店だろ? 社宅に住む必要がないから、実家から通うしかない。毎日顔を合わすたびに結婚しろの一点張り。 だがまぁそれも明後日には解放だ。何せ一人暮らしだからな」 そう言って笑う麻生の部屋は、既に荷作りを終えているため広く感じられた。大の男2人が足をゆったり伸ばすことも可能だ。 「結婚はまだにしても、彼女は作らないのか?」 とくとくと酒を注ぐ五十嵐の手元を見ながら、麻生は苦々しい顔を作った。 「彼女ねぇ……。いや、女はいいや。懲り懲りだ。だからって男に走るわけじゃねぇからな」 「もちろん分かってるよ」 「妹もわがままだし。俺はもう女に振り回されるなんざ、ご免蒙るよ。 最近、家にまで届くんだぜ、婚姻届。さすがに命の危険を感じ始めたところだ」 「例の女性か……。麻生、一体どんな助け方をすればそんな風に熱烈的な歓迎を受けるんだい?」 「……俺に思い出させるつもりか?」 「場合によっては、麻生が助け過ぎたってことも考えられるしね」 (助け過ぎ?) 麻生としては、そこまで大層なことをしたつもりはない。つもりはないが、五十嵐の視点からすれば、話が違ってくるのかもしれない。 「……。スクランブル交差点で――」 「うん?」 「あの女が、スクランブル交差点の真ん中でヒールが折れて難儀してたんだ。信号は点滅してて、じきに赤。 危ないと思って、俺は咄嗟に彼女を背負って退避を……嵐?」 「そんなことしたのか?」 「した」 「……間違ったことをしたとは思わないよ。間違いなく危険な場面だったろうし。でも、それをやられたら女性は惚れるかも……」 「なんでだよ! 普通は引くだろ!? 手首掴まえて、引きずるぐらいで良かったんだ。何で俺、おんぶなんかしちまったんだろ!」 どうやら五十嵐の言うように『助け過ぎ』たらしい。もし過去に戻れるなら、それは間違ったやり方だと教えてやりたいぐらいだ。 「ドン引きする女性もいれば、感謝する女性もいるさ。その女性は麻生の行為に惚れてしまった。……仕方ないよ」 「だからってなぁ……!」 職場を突きとめ、毎日押し掛けてくるのはどういう了見だ? 挙句の果てに家の住所まで突きとめ、婚姻届を送りつけてくる。 一体彼女はどういう神経をしているのか。その内こちらの神経がどうにかなりそうだと、麻生は気が気でない。 「おかげでこちとら3ヵ月単位で異動する羽目になってんだぞ。俺の出世も泡となって消えたし! いい迷惑だ」 「やれやれ……。まぁ元気を出すんだ、麻生」 祝い酒が自棄酒になる。やってられるかとばかりに麻生は徳利ごと酒を呷った。 *** 「俺のことはいいんだよ。そっちはどうなんだ、嵐?」 五十嵐は半年ほど前から名古屋店に異動し、レディース売り場の担当をしていた。そういう意味では『先輩』にあたる。 「本社が近いこともあるから、やっぱり売り上げは上位だよね。でも、老朽化が激しいかな」 「あぁ、新しいのを建ててるんだろ? 来年移転するんだっけ。名前はまだ決まってないって聞いたな」 「“新しい名古屋店”だから、“ネオナゴヤ”って皆は呼んでるみたいだけどね」 「身も蓋もない呼び方だな」 「そう? 分かり易くていいと思うけど」 「で、店の様子はどうよ。柾もいるんだろ? 元気にしてるか?」 「あぁ、柾ね……」 「どうした?」 「いや……。実は最近、柾の様子がおかしいんだ」 「おかしい?」 「噂が流れてるんだ。付き合っている女性全員と手を切ったっていう……」 五十嵐の言葉は俄かに信じ難く、麻生は思わず噴き出した。 「嵐! お前、何年柾や俺と同期やってんだ? まさかお前がガセネタ掴まされるなんてなぁ……あははは!」 「……どうやら、好きな女性がいるらしい」 そこでやっと麻生は笑うのをやめた。 五十嵐の顔は真剣で、ふざけている様子は一切ない。そもそも彼は、この手の話題を冗談で言える人間ではないのだ。 だとすれば噂は高確率で真実で。麻生は一気に酔いから醒める。 「……あの柾が本気の恋をしてるだって? おいおいマジかよ……相手は一体誰なんだ?」 とうとう奥方一本に? とも思ったが、どうやらそうではないらしい。 「嵐は柾から直接聞いてないのか?」 「俺が尋ねても素直に教えてくれるとは思えなくてね。向こうから話してくれるのを待ってる」 「そんなことじゃ、いつになるか分からんぞ……」 「でも、ことがデリケートなだけに、興味本位で詮索するのも気が引けるっていうか。 でも、柾から別れを告げられたある女性は、気になる女性が出来たと言われたそうだよ。どこの誰かまでは分からないけど」 「うわー気になる。相手は店の中なのか、外なのか」 「それもよく分からなくてね……。女性陣は血眼になって相手を探しているらしいが」 「あの柾を本気にねぇ……。意外と三木佐和子との復活愛だったりして」 「柾に不倫を教えた魔性の女性? いや、違うと思うよ。彼女はこの前婚約したって聞いたから」 「マジか?」 「あぁ。婚約相手はユナイソンの社員ではないみたいだけどね。 何だい麻生。ストーカーから逃げていて余裕がないと思ってたけど、名古屋店に異動するものだから、安堵感に満ちちゃってる?」 「それもあるが、『あの柾が本命を見付けた?』っつー興味の方が上だな」 「結婚して妻がいる身である俺から言わせて貰えば、複雑な心境だよ」 「嵐は恋愛結婚だからそんなことが言えるのさ。柾は違う。夫婦関係は複雑で、そもそも愛なんてものがあったかすら怪しいもんだ。 おまけに奥方には前の旦那との子供が2人いるときてる。初婚の柾には難しかったんだよ」 「麻生はやけに柾の肩を持つんだね? 奥方の話も聞かずにさ。一方の話だけで判断するのはフェアじゃないと思うけど」 「そもそも俺は女なんか信用してないんだ。そんな説法は無駄だぜ」 凝り固まった麻生の思想をほぐせるとも思えず、五十嵐はその言葉を丸ごと聞き流した。いまは柾の話題だ。 「柾も不器用な男だからね。幸せを掴みにくいのかもしれないな。でも……幸せになって欲しいと思う。 離婚して、女性との関係を清算して、本命一筋になるというのなら、全力で柾をサポートするつもりだよ」 窓から差し込んだ月の光が、猪口の酒の上辺をゆらゆらと漂う。その様子を見つめつつ、麻生は呟いた。 「……その点については俺もお前に同感だ、嵐」 *** 結局、柾の噂話の真意を確かめる暇もなく1月1日を迎え、麻生は名古屋店に異動した。その日は柾の誕生日でもあった。 朝早くに出勤した麻生は、真っ先に祝福を交えた『諸々の挨拶』満載の花束を、柾のロッカーへと置きに行った。 柾の反応が楽しみなだけに、自分がその瞬間を見られないのが少しだけ残念でもある。 その後は事務所に向かい、1人黙々と作業している若い社員――ネームプレートによれば平塚鷲――を見つけた。 「よぅ。平塚君だっけ? おはよう」 「はい?」 福袋を空箱に詰めていた平塚が、きょとんとした顔で、見慣れぬ麻生を見上げた。 「おはようございます。えーっと、すいません。どなたですか?」 「今日付けで配属された、家電の麻生だ。よろしくな」 「あぁ、そうなんですね! ドライ食品担当の平塚鷲です。よろしくお願いします」 麻生は差し出した右手を握り返しながら微笑んでいる平塚に対し、「それ」と空いた方の手で福袋を指差した。 「凄い量だな。今日売る分か?」 「はい。本当は女性向けの紅茶洋菓子セットだったんですけど、柾さんからハンカチを追加するように言われまして。 幸い、筒状の小箱だったから隙間から入れられましたけどね。ちょうどその作業が終わったところです。 ……あ、柾さんっていうのはコスメ売り場のチーフで、」 「知ってるよ。同期だ」 「そうなんですか!?」 目をきらきらさせた平塚の反応が気になったが、それよりも先に、どうしても知りたいことがある。 「なぁ、柾が本命にゾッコンって話、本当なのか?」 賄賂としてミンティア1粒を添えることも忘れない。 平塚は麻生からミンティアを受け取ると、口に含んでからニヤリと笑った。 「麻生さんはどうなんですか? 信じる派ですか? それとも信じない派?」 「信じられない派だ」 「わー、麻生さん、かなり面白いひとだ! 俺大好き!」 一番最初に出会えたのが平塚でよかったと麻生は思った。いろいろと知っていそうだ。 「柾の本命、誰だか知ってるか?」 「いや、知らないです」 これは麻生が欲しい答えではなかった。 しかし、平塚はすぐあとに「でも」、と続ける。 「うすうす『この子かな?』ってね。思ってる候補者ならいますよ」 「よし、いい子だ平塚。何が望みだ?」 「おっとー……。これは『何も』と答えた方が、あとあと有利な気がするなぁ……?」 へらりと笑っていた平塚の目が、獰猛な獣のソレへと急変するさまを見てとった麻生は口角を上げる。 「へぇ、世渡りがうまいんだな。……おっけ、貸し1つな」 思わずミンティアを2粒進呈する麻生である。 「ありがとうございます。彼女の名前はチハヤさんですよ。それじゃあ俺、もう行きますね」 口早に言ってからぺこりと頭を下げ、台車を引いた平塚は事務所から出て行った。 麻生は壁にかかっている全従業員の名札に視線を走らせた。探す相手はもちろん『チハヤ』だ。 すると、意外にも早く見付けることが出来た。チハヤは名前ではなく、苗字だった。 「千早――歴」 所属は事務所になっているが、どうやらPOSオペレータらしい。 「ってことは、当然POSルームだな」 恋多き柾が本気になったかもしれない相手。それはもう、何が何でも見てみたい。 麻生は事務所から出ると、POSルームへと歩を進めた。 *** 10畳ほどの広さのPOSルームは無人だった。ここを訪ねた理由は興味からだが、POSオペレータは比較的世話になる相手でもある。 挨拶も兼ねておこうと、麻生は適当な椅子に座り、部屋主が来るのを待った。やがてドアが開く音がし、麻生は素早く振り向いた。 「おはよう」 「お、おはようございます……?」 麻生の視線はただ一点、その艶やかな黒髪に釘付けだ。光沢を放った髪は、触れたくなるほどさらさらで美しい。 視線を下へとおろしていく。制服の着こなし、身だしなみ、すべてが彼女の性格を素直に表しているかのようだった。 (あれま。随分とおとなしそうな子だな。生真面目というか、気が弱そう……?) 果たして、彼女は柾のタイプになり得るんだろうか? 風の噂で聞いた歴代の彼女を頭の中でずらりと並べてみたが、その誰とも重ならなかった。 (いわゆる新境地開拓ってやつか? 今までいなかったタイプに、ころっとやられちまったのかねぇ) もし千早歴が柾の片想いの相手だったとして、彼女の方は、柾をどう思っているのだろう? 無難に自己紹介をしている最中だというのにそんなことまで気になりだし、麻生は尋ねずにいられなかった。 「なぁ、柾には会ったか? 今日のあいつ、すこぶる機嫌が悪くなかったか?」 「あっ……」 「お、その様子だと会ったみたいだな。かなり無愛想だったろ」 「無愛想というか……素っ気なかったです」 「あー、千早さんには申し訳ないことをしちまったな。実はさ、あいつの機嫌が悪いのは、俺のせいなんだ」 「麻生さんの?」 「あぁ。挨拶代わりに柾のロッカーに花束を置いて来た。今日が誕生日だからな、あいつ。お祝いも兼ねてさ」 「誕生日? 今日が……柾さんの?」 (ん? 柾の誕生日、知らなかったのか?) いまいち柾と歴の関係が量れない。どこまで踏み込んでいいものだろう。 (俺が出張るのはまだ早いか。まだ柾本人から本心を引き出してすらいないしな) だがファーストコンタクトはこうして無事に済ませたことだし。これからは毎日会えるのだから、気長に行こう。 (千早さんは俺の妹と同い年ぐらいだから、まぁまぁ話し易いしな) なにせまだ名古屋店に異動してきたばかりだ。『次の異動』まで、若干の猶予はあるだろう。それまでに把握できればいい。 噂の真偽はともかく、何もないところから突如湧き上がった千早歴には、きっと何かがある。彼女をマークすれば分かるはずだ。 (柾が溺れているのか、彼女も溺れているのかを) 加えて麻生自身も、千早歴を中心とした渦中に放り込まれる運命にあるのだが――。 それはまた、年を跨いだ未来の出来事である。 2009.10.15 2018.04.02 ジャンル別一覧
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