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27話 【幕引きへ】


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27話 (―) 【幕引きへ】―マクビキヘ―


【1:5月25日―ユナイソン本部】

「では、きみの抱負を聞かせて貰おうか」
「青二才がと思われるでしょうが、遥かな高みを目指しております」
「もう少し噛み砕いてもらえるか?」
「はっきり申し上げると肩書きです。上役であればあるほどいい」
「私は『抱負』を尋ねたはずだがね。それは寧ろ、『野心』と言わないか?」
「どう受け取って頂いても構いません。私には越えねばならない壁があり、凌がねばならない波濤があります。ですので肩書きと答えました」
「臆さないな、きみは。なるほど、やつの血を引くだけのことはある。壁に波濤、か……。ふん、為葉(いちよう)をそう呼ぶか」
「……」
「きみを業界第1位のhorizonから引き抜いたのは、きみと私の利害関係が一致しているからだ。それは話したな?」
「えぇ、大丈夫です。私は、己の敵が祖父だからと言って、手を緩めたりはしません」
「3度目の説明にはうんざりか? くどいと思われても仕方ない。ことはそれだけリスキーなんだ。足場を慎重に確保し、確実に歩を進めたい」
「会社のナンバーワンたる貴方が、ナンバーツーであるユナイソン代表取締役社長兼COOの失脚を望んでいるわけですから当然でしょう。
下手をすれば貴方はワンどころかゼロになってしまう。ゼロという、無の存在に」
「あいつにはほとほと呆れるよ。なんてやつだ。いまどき正統派を貫くんだからな。とんだ処世術もあったもんだ。 
正しいことを本気で正しいと信じ込み、コツコツと積み上げてきた馬鹿正直者。
清く正しく美しくを地でゆく千早。よくここまでまぁ、振り落とされることなく登り詰めたもんだと、ほとほと感心するよ。
一方、私は手を汚すことも厭わずここまで来た。私と為葉はまるで正反対だ」
「だからこそ、彼が眩しく、疎ましい、と?」
「眩しい……? なるほどな。そんな表現の仕方もあるか。今や、やつは私の地位を脅かし、取って替わろうとする、目の上の瘤だ。
害は取り除く。そのためにきみを呼んだんだ。破格の待遇を用意してな。教えて貰おうか、為葉の弱点を」


***

弱点。それはこれしかない。媚びだ。
有り体に言えば、彼には根回しが出来ない。
実直、誠実、その塊りともいえる祖父は、昔から政治的駆け引きが苦手だった。
分かり易く言えば、おべっか、よいしょ、歯の浮くセリフ、そういった類のもの。
だから祖父は、上司や同僚からことごとく「お前は気が利かない」と眉根をひそめられてきた。
中には「まぁ仕方ないか。お前みたいな男が1人ぐらいいてもいいのかもな」と脱力した者もいるという。
そんな祖父を幼い頃から見てきた俺だから知っている。千早為葉に挑むなら、彼が絶対に取らない行動を取れば効果的だ。
根回し。つまり、接待。
人の心を巧みにくすぐり、相手の心証を良くする。加えて、金で信頼を買う。
そのパイプを繋げていく。より強く、より太く。
我らがCEO様の地位を盤石なものにするため。時には自分のために。或いは、祖父を取り巻く忠実な部下をこちら側に取り込むために。
そうして始まったのが、接待の強化だった。
ひとたび高級の宴席を設ければ、誰もが有り難がった。回を重ねる。美味い汁を啜る者は着実に増えてゆく。見渡せばほら、たちまちCEOの信者だらけ。
簡単だった。


【2:8月30日―ユナイソン本部】

「高級コールガールを呼んだ?」
「しっ! 声が大きいですよ、凪さん」
咎め口調で窘める都築に構ってなどいられなかった。ソファーに深々と座り、悠長にアラミドコーヒーに舌鼓を打つ加納を見下ろす。
おい、それは俺の豆だぞ? ブルーマウンテンより希少価値の高い珈琲を、こいつ、いけしゃあしゃあと――いや、そんなことより。
「どういうことだ? 昨日はブランドン氏を接待したんだろう?」
逸る鼓動に静まれと言い聞かせながら加納に尋ねる。キザったらしいイタリア仕立てのスーツに身を包んだ加納は足を組み替えた。
「したさ。ブランドン氏に、気持ちのいい接待をな」
カッと、頭が沸騰しかけた。それは怒りだった。
「性の接待はしない。そう取り交わしただろう!」
「そういう約束だったかな。だが、氏のリクエストに応えないと、契約がね。それでは君が困るだろう?」
「リクエストだと……? あんたがそそのかしたんじゃないのか? ブランドン氏が何と言ったのか、一語一句違わず言って貰おうか」
「あぁ、そういえば……。今にして思えば、私の勘違いだったかもしれないな」
「? 突然何を……」
「私のリスニング能力が低かったから、解釈を間違えて、氏が望んだものだとばかり思ってしまったようだ。――悪いね、凪」
なんというわざとらしい言い訳だ。TOEIC700点越え、レベルBが御自慢だったんじゃないのかよ……! 
思わず出掛かったその言葉を飲み込む。
「枕営業は禁止。そういう取り決めだった。こうなったらCEOに頼んで……」
「私に処分を下す、か? 馬鹿を言うな。どちらもそう変わらん。同じ穴の狢だと思うがな」
「違うだろう! 全く違う」
「何をそんなにムキになる? 君だけだぞ、そんなオメデタイ思考回路の持ち主は。いつかは性の接待が横行する。これは時間の問題だった」
「その一線を越えるべきではない」
加納はうっすらと笑う。俺を説き伏せられないと知っていて、だったらせめて煽るだけ煽って楽しんでやろう。そんな魂胆が見え透いていた。
「性抜きの接待の何が楽しいんだ。酒、肴、女。それを抜きに接待などあり得ない。君のそれはまるでチェリーボーイの発想だな。そうなのか?」
「私のプライベートは関係ない。……話を戻すぞ。不味いことになったと言ってるんだ」
「そうは思わない。美味しい蜜を吸ってるんだ。誰も口外したりしないさ」
「いつかは露見する。それでは遅いんだ」
「止められるかな? 既にあちこちで横行しているみたいだぞ」
悪夢まがいの報告に、全身から汗が噴き出す。
「馬鹿な……」
「君の耳に届いていなかっただけのようだな。指揮を取っていたようで、実際には除け者にされていたとは、とんだお笑い草だ」
「……っ!」
「知ってるよ。知ってる。君が性接待に反対している本当の理由をね。君の可愛い妹君が、ユナイソンに入社しているそうじゃないか。
その毒牙にいつかかるか、気が気でないんだろう? 大切な妹を巻き込みたくない。だから枕営業は阻止したい、撲滅させたい。違うか?」
「妹? 何のことだか」
「しらばっくれなくてもいいだろう。ネタは上がってる」
くそ、首根っこを押さえられたか。こうなったら異例の人事異動をしてでも、どこか安全な場所まで引き離してしまおうか。
人事部に所属する自分が出来ることと言ったら、この手の方法が一番手っ取り早く、堅実だ。
誰だ、妹の入社を許可したのは? 顔も知らぬ人事部相手に舌を打つ。
「傷心の君に教えてあげよう。素晴らしい逸材を見付けたんだ。名古屋店の柾という人物でね。これがとんだ色男らしい。
成績優秀に加え、その容姿で女性社員を次々と陥落しているんだとか。CEOの計画に相応しい人材だと思わないか? 是非欲しいね」
女性問題(スキャンダル)を抱えている? それはつまり、その柾とやらに魅力が備わっていることの裏打ちに他ならないではないか。
「彼なら」、と都築が言った。
「何度か話したことがある。最近だと、入社式の祝辞を依頼したときだったかな。素晴らしいスピーチを披露していたから労ったよ」
都築が手放しで褒めるのも珍しい。よほど優秀なのだろう。
加納は乗り気のようだった。
「男だけが性接待を望んでいると思ったら大間違いだ。女だって男を欲している。
とはいえ、都築が用意した男は何の役にも立たなかった。そんな奴より、女性の相手ならば、その柾という男の方が打って付けだろう」
「別にぼくは加納さんのために『あの男』を用意したわけじゃありませんよ。ぼくの恋路を邪魔する厄介者だったから左遷しただけで」
心外だとばかりに口を挟む都築。加納は「勝手にのたまっていろ」とでも言いたげに鼻を鳴らしている。相変わらず癪に障る男だ。
それよりも――くそ……くそ! 俺に出来ることを探すしかない。見付けるしか。まず手始めに、柾だ。
「その柾という人物の、詳しい情報が欲しいな……」
「いいよ凪さん。ぼくが調べる。他に調べたいこともあるし」
「なんだ、都築。また恋路の邪魔を企んでいるのか。今度は誰を飛ばすんだ?」
背中を向けた都築に、加納はせせら笑い。都築は振り返り、発言者の加納を一睨みしてから部屋を出て行った。
「さて、私も行くとするか。ご馳走様。楽しい結果を待ってるよ、凪」
人の金で珈琲を啜っておきながら、ソーサーもカップも洗わずそのまま席を立ち、退室するさまに、もはや出る言葉などあろうはずもない。


【3:8月31日―ユナイソン名古屋店】

ユナイソン名古屋店店長・後藤田は、ユナイソン本部≪人事統括部≫人事部所属・都築の姿を見るなり最上級の笑みでもてなした。
後藤田は都築の肩書きを恐れている。
ゆえに、干支にして二周りほど離れている都築に対し、自然と上目遣いになってしまうのは仕方のないことだった。
「これはこれは! 都築さん。ご無沙汰しております」
「後藤田店長、突然申し訳ありません。アポもなしに」
「とんでもない。しかし、貴方が来られたということは、何か問題でも?」
「いえ、少しばかり伺いたいことがありまして」 
都築の言葉に、後藤田の顔が強張る。
この店に、都築の機嫌を損ねる危険因子が存在しているとでも言うのだろうか。となれば、誠意を見せるに限る。
うまくいけば後藤田の出世だって夢ではない。都築にはその力がある。正確には『都築の人脈が』、だが。
「なんなりとお尋ね下さい」
「ご助力に感謝します。実は、柾について、なのですよ」
「は――。柾、ですか?」
「えぇ。優秀な社員ということは知っています。売り上げだって伸ばしているし、比較的早いペースでチーフ職に就きましたよね。
そういった能力面でなく、人物像を知りたいのです。聞けば、女性問題を抱えているとか?」
「……否定はしません」
「それは、彼が女性から慕われるタイプだから、でしょうか?」
質問の意図を測れずにいる後藤田は、とくに捻ることなく、素直に答えた。
「確かに魅力的な男かも知れませんね。事実、彼に振られた女性がその場の勢いで退職願を届け出たこともあったぐらいです」
「そうでしたね、そういう報告は上がってきてます。ではこれも一応訊いておくとしましょう。いま彼が親しくしている女性はいますか?」
「いや、最近は、とんと聞きませんね。どうも自分からガールフレンドを切ったようですよ」
「おや……。そうなのですか? それはまた、どうして」
初耳なのか、都築は僅かに目を丸くした。
「離婚をスムーズに行うためだと本人は言ってましたがね。なるほどそういうものかと、特に疑問は持ちませんでしたが」
「つまり、身辺整理をしたがっているんですね。ふむ。でもそれって……」
都築には、どうしても繋がってしまう推理がある。
「本命を見付けたから、早々に離婚したがってるのでは?」
「あの柾が……本命を? はは……っ、はははは……あ、いや、申し訳ない」
「いえ、店長のその反応で、私の推理が間違っていたことが分かりました。必要以上に穿ってはいけませんね。お恥ずかしい限りです」
「今年の元日に、彼の同期が着任しましてね。彼とは馬が合うようで、なんだかんだ言いつつも楽しそうですよ。以前に比べれば大人しいもんです」
「同期とですか。それは色々と刺激がありそうですね。職場の同期と言えば、仲間や友人という位置付けの他、ライバルでもありますからね」
「そうですな! ……あぁ、でもそう言えば、その麻生と一緒に、『彼女』といることも多いなぁ……?」
ぽつりと呟いた、後藤田の何気ないことばに、都築は引っ掛かるものを感じた。
「彼女? どなたです?」
「いやいや、そういうのじゃないです。まだ入社したての新入社員ですよ。ミスが多かったので、柾が指導している場面も多々ありました。
その延長で、いまも仲がいいのだと思うんですがね」
「柾は面倒見もいいんですね。ちなみに、誰なのですか、その女性は?」
「POSオペレータですよ。千早と言います」
「――千早? 千早ですって?」
あまりに耳に馴染み過ぎた苗字に、都築は反射的に鸚鵡返す。
「後藤田店長。……ちょっと失礼しても?」
「えぇ」
断りを入れてから、自身の鞄から薄いPCを取り出す。
人事課だけが入れるネットワークにアクセスし、検索をかける。調べる対象はもちろん『千早』だ。
検索対象者の性別を“女”に絞ると1件だけヒットした。その項目をクリックする。
『千早歴』のページが現れた。そこには履歴書、入社試験の結果など、彼女が提出したものや、あらゆる関連書類が紐付けられていた。
その中から履歴書を選び、顔を確認する。
艶めいた黒髪が特徴的な女性だった。だがそれ以前に、その表情に引き込まれた。
履歴書のため、微笑んではならない写真だというのに、それを差っ引いても慈愛に満ちた、柔らかい表情をしている。
恐らくこれが彼女の自然体なのだろう。
(これが千早歴……)
自分が知る人物と同じ苗字。だが、その人物の、こんな表情は一度として見たことがない。
(似ている……。凪さんに。彼が笑えば、こんな風かもしれないな。……もう少し調べてみるか)
履歴書を閉じると、次に住所や近親者の情報を見るため、検索画面に戻った。
検索内容:“千早”“男”。2件ヒット。
調べていくと、そこには都築が予想していた通りの結果が横たわっていた。
(まさかこんな繋がりがあったとは……。加納が言っていたのは本当だったのか。千早歴は凪さんの実妹。しかも、名古屋店のPOSオペレータ……)
『千早為葉』『千早凪』『千早歴』。
(彼女もまた、千早一族の者――)
キーマンとなる『千早為葉』をクリックし、今度は秘書の項目を見る。第一秘書、『鬼無里火香』。
(……そうだったな。鬼無里三姉妹のひとりが、千早為葉の秘書だった)
どこまでも繋がる符合に、背筋を冷たいものが伝う。
(これも運命なのか?)
PCを片付けながら、都築は最終確認として後藤田に念を押した。
「柾は……千早歴さんと懇意なわけですね?」
「男女の仲ではないと思いますが。それこそ穿ち過ぎというものかと」
「……なるほど、よく分かりました」
都築はその答えに納得したようだった。満足気に微笑み、席を立つ。
「後藤田店長、今日はとても有意義な訪問になりました。感謝します」
一方の後藤田は拍子抜けだ。てっきり名古屋店の抜き打ち視察に来たとばかり思っていたのに、蓋を開けてみれば柾の件。
それでも、本部の人間の機嫌を損ねるような失態をせずに済んだことに安堵した。
都築を丁重に見送ったあと、後藤田は呟いていた。
「彼の目に留まったか。柾の異動も近いな」


【4:8月31日―ユナイソン名古屋店】

「柾君、今期の売り上げ推移表を見せて貰ったよ。コスメ部門、前年度の147%とはね。うん、上々の出来だ」
「恐れ入ります」
「あれ? あまり嬉しそうじゃないね」
「まさか。会社に貢献できて嬉しいですよ。金一封が出るとの話でしたし」
笑みを浮かべた僕に、人事部の申し子、都築始の目が光った。
金一封など建前で、業績を残そうが会社に貢献しようが、僕の心が晴れていないことなどお見通しの様子だ。
なるほど、本部にも侮れない人間がいる。
「何か浮かないことでもあるのかい?」
「会社に不満はありませんよ」
嘘八百。会社には不満だらけだ。
代わり映えしない社員食堂の献立、因縁をつけるモンスターカスタマー、やっかみを隠そうともしない社員。
だがそんな悩みは多かれ少なかれ誰しも抱えている。どの業種、いつの時代だろうが、改善されることはないのだろう。
ただひとつ、ここ最近の風潮を受けてか、労働時間に関する項目だけは劇的に改善されてきている。
休日返上業務はなくなり、残業時間が減ったのは、本部が見直しをしたからだろう。その点はありがたかった。
「あまり自分を追い込むなよ」
その言葉こそパワハラに似た重圧だと思うのだが。
とはいえ彼なりに気を遣ってくれているのだろう。素直に頭を下げておいた。
「この調子だと、君が本部に来るのも時間の問題かな」
「光栄です」
「……大嘘つきだな」
苦笑する彼には、何もかもお見通しのようだ。
「そうですね、確かに」
首を竦め、僕は本音を吐露した。
「どうせ本部で僕を扱き使う気でしょう? これ以上の激務なんて想像もつきませんよ、都築さん。出来ればまだ現場にいたい」
「本部は君に期待しているんだよ。特に、女性の心を掴むコスメ部門でこれだけ成績を伸ばし続けていればね」
「単に僕好みのアイテムを棚に並べただけです」
「はは。謙遜がうまいな。君にこの部門を任せたのは大正解だった」
「女性スタッフを充実させて下さった都築さんには感謝してます。彼女たちの力があったからこその数字ですから」
「女性スタッフと言えば――名古屋店では急に退社した者がいたとか? 色々あるだろうが、身体を壊さない程度に頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
「これ以上、イレギュラーな人事異動を増やさないためにもね」
意味ありげな視線を寄越すからには、全てを把握しているのだろう。
三木奈和子と間宮七朝が立て続けに会社を辞め、その穴を埋める形でイレギュラーな異動があった。
都築がそのことを言っていることは、火を見るより明らかだった。
恐らく今日の接触は、僕にひとこと物申すためだったのだろう。やはりこの人は侮れない。いや、本部がか。
「気を付けた方がいい。君は有能だからね、君の昇進を妬む人間がいるんだよ。足元をすくわれないように」
「覚えておきます」
「君が異動するか、千早歴が異動するか。それは君次第だ」
「千早歴? 誰ですか、それ?」
「そうそう、その調子。その『答え』で合ってるよ」
都築はにこりと笑うが、なぜここで彼女の名前が挙がるのかが理解できず、僅かながら動揺してしまう。
ポーカーフェイスを装えたかどうかは分からないが、知らぬ存ぜぬで押し通した方がいいと直感が告げていた。
が、否定し過ぎれば余計怪しく思われるだろうと思い、ひとことだけ添えておくことにした。
「まぁさすがに『誰ですか?』というのは冗談ですが。千早はうちの店のPOSオペレータ。当然知ってますよ」
「じゃあこれは知ってるかな。彼女が誰かってこと」
「誰か、とは? どういう意味です?」
「彼女はね、物凄いお金持ちの御令嬢なんだ。もし彼女と結婚すれば、逆玉間違いなしだね」
何を言い出すかと思えば、随分と俗物的なことを。
身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
「わざわざそんなことを伝えるために、遠路遥々お越しに? お疲れ様です」
「怒ってるのかい? それとも呆れてる? 私は君の敵じゃないんだけどな。むしろ本部に来てくれればいいと願っている側だからね」
「本気でそう思っているなら、僕を上に引き上げてくださいよ」
「ははは、そんな気など、これっぽっちもないくせに。でも可能性は高い。覚えておいて」
「……はい」
「あぁ、そうそう。明日からしばらく、僕や本部の人間が引っ切りなしに出入りすると思う。よろしくね」
「それはまた、どういった理由で?」
「さぁ? 俺は下っ端だからね。言われた指示に従うだけさ」
煙に巻くように笑うが、その微笑みの下に、一体どんな本性が隠れているんだか――。
それはそうと、上層部による監視が付いたのだろうか? 
(予想もしていなかったな。これで雁字搦めというわけだ)
彼女と離れてしまっていいのか? 答えはノーだ。千早の近くにいたい。
僕が何かを恐れているとしたら、それは千早を失うことに違いない。
そのためにも、これ以上勘ぐられない方がいいな。
(様子を見るか。本部の影が見えるうちは、彼女との接触を控えよう)


【5:8月31日―ユナイソン名古屋店~ユナイソン本部】

― では、まだ柾の離婚は成立していないのか?
― 戸籍上では、まだのようですよ。
― 彼には2人の子供がいたな。親権はどうなる?
― 柾と子供の間に、血は繋がっていないようです。奥方の連れ子だそうで。
― なんだって? 前夫との子だったのか。
― 凪さん、柾を味方につけるのは、やめた方が得策かもしれません。
― 何故だ?
― さきほど接触してみて分かりました。柾は、あなたの妹を好いている。
― 何だって?
― こうなると、柾の扱い方を考え直さなければいけませんね。あなたからすれば、妹君から引き離した方が良いのでは?
― 俺個人としては引き離したいが、既に計画は動き出している。柾が使えないとなると……。
― では、この名前は御存知ですか? 麻生環。同じく名古屋勤務の社員ですが、彼は柾と仲が良い。アキレス腱かも知れません。
― 麻生? 何者だ?
― ストーカー被害を受けてからは出世から遠のいてましたが、元は優秀な社員。彼を確保しておきましょう。役に立つかもしれない。
― そうだな、念のために。こういう言い方は何だが、駒は多い方がいい。
― この計画……本当に遂行するつもりですか? 道を間違えた場合、ぼくやあなたは勿論、妹君の経歴にも傷がつきかねませんよ。
― それを言われると耳が痛いな。だが私だって上には逆らえない。性急な軌道修正も仕方あるまい。都築、上手くやってくれ。
― えぇ、岐阜店の件はお任せ下さい。お互い上手くやりましょう。
― あぁ、互いにな。


【6:8月31日―ユナイソン本部】

調べた結果、柾という男の女性関係は真っ黒だった。
本当に考えて結婚したのか? と思える相手と初婚を果たしておきながら、離婚間近だと言う。
泣かした女性は数え切れず。その上、あろうことか歴の同僚、しかも歴に懸想?
名古屋店から異動させるのは歴ではなく、柾の方が適任だ。
しかしヤツを本部へ持ってこれば加納は当初の予定通り、柾に枕営業をさせるだろうし、ここは俺の一存で手早く引導を渡すしかない。
加納には異動宣告する権限がない。そこを突いての、微かな反撃。小さな反抗だが、多少の打撃ぐらいは与えられるだろう。
さてその柾だが、異動先にどこを選べば良いのか。
そこで目を付けたのは五条川店だった。
柾の担当であるコスメ部門が東海地区最下位。
成績を上げられず苦悩するか、奇跡を起こし(手腕を発揮し)売り上げを伸ばすか。
どちらに転んでもらっても構わない。俺自身には痛くも痒くもない。
前者ならば柾個人の査定に響くだけであり、後者ならば「よくぞ五条川に柾を!」と、俺の人を見る目が称えられるだけのことだ。
何より歴から柾を引き離せるのだ。これに尽きる。
候補はいわば、切り札だ。まだ使わない。必要になった時のために取っておく。
自分の進むべき道、方針が定まったところで、描いたフローチャートに落とし穴がないか何度もトレースする。
俺は……もしかしたら、こののち、ユナイソンにスカウトしてくれた現CEOの足を引っ張る『特異点』になるかもしれない。
展開次第では、飼い主に牙を立てる猛犬へと変貌するとも限らない。
情報を得れば得るほど、守るべきものが出来てくるのは当然だし、計画に変更が生じるのも仕方がない。
どこに比重を置くかで、人は意見を変えるものだ。それは俺にも言えることだが。
ピッと腕時計が鳴った。19時を告げる音。
明日になれば月が変わる。9月1日。妹の誕生日。
……しまった。まだプレゼントしか用意していない。
花束も欲しい。花屋で、今年は年の数だけの薔薇を包んで貰おうか。
動く。とにかく今は、動かなければならないことだらけだ。
車に乗り込む。駅周辺に向かいながら、俺は、遂行させるべき最終考察を頭の中でなぞり、車体を暗闇の中へ――。


2006.11.09(THU)
2018.09.09(SUN)



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