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07話 【棚牡丹】


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07話 (―) 【棚牡丹】―タナボタ―



___不破犬君side

空の暗さと湿った空気、独特な匂いから雨が近いと予測できた。気象庁によれば東海三県は昼頃から明日にかけてまとまった雨が降るという。
従業員入り口の傘立てに長傘を立て掛け、鞄から取り出した社員証を警備員に見せた。そのまま2階まで上がり、男子更衣室で着替えを済ませる。
出社証明のため事務所へ向かう。「おはようございます」と言って入室すれば、事務所にいる者が口々に「おはよう」と返してくれる。
壁面に掲げられた出欠ボードの個人札を裏返す。黒字に白背景が出勤を、赤背景に黒字が不在を表している。実にシンプルで分かりやすい仕組みだ。
事務所に入ってすぐの位置にタイムレコーダーが置いてあるのでパスケースごと社員証をかざすと、ICチップに反応して機械が感知音を発した。
その一連の作業がここ、ユナイソン岐阜店における出勤時の流れ図だった。
「不破君、証明写真は持ってきてくれた?」
僕を見るなり事務課庶務担当である黛さんがカウンター越しに尋ねてきた。
社員証に顔写真を載せることが決まり、証明写真が必要になったため、全従業員が各々撮りに行ったはずだ。
かくいう僕も撮り下ろさねばならず、昨日撮りに行った。店舗内に証明写真機があるため、その点は楽だった。そのワンシートを鞄から取り出す。
昨日は気付かなかったが、よく見るとネクタイがほんの少し曲がってしまっていた。
「……撮り直すべきかなぁ」
ぽつりと呟いた瞬間、
「隙あり」
背後からにょきっと手が伸びてきた。振り向けばそこには八女さんが立っていた。
「馬渕」
八女さんは、やにわに事務所の奥でコピーを取っていた馬渕さんを呼んだ。呼ばれた馬渕さんが顔を上げる。綺麗な栗色の髪が揺れた。
「なぁに? 芙蓉」
馬渕さんは『ふんわり』という表現がぴったりの、一見優しげな女性に見える。
対してクールな佇まいの八女さんは、第一印象では『常識人』だと思われていることが多いようだが、
「わんちゃんの証明写真をゲットしたわ」
「わ~、うそ? 欲しいな~」
「もちろんよ」
このように、会話が始まると同時に第三者を不幸にしてしまう確率をぐんと跳ね上げてしまうのが玉に瑕だった。
「笑えない冗談はよして下さい。今日提出しなきゃマズいんですから」
「撮り直すんでしょ? ちゃーんと聴こえたわよ。捨てるぐらいなら拾ってあげる」
「そんな殺生で横暴な話がありますか。そもそも、そんなもの持っていたってしょうがないでしょう。どうするつもりですか」
「他店のひとと飲み会に行ったときの酒の肴かなぁ」
「なおさら駄目に決まってるでしょう。たかが証明写真だとお思いでしょうが、これだって立派な個人情報。プライバシーの侵害ですよ」
「ねぇ芙蓉。残りの2枚は黛と香椎に渡しましょ?」
「いやいや、待って下さい。おかしいでしょ。2人して好き放題言ってくれてますけどね、4枚綴りの内の1枚は提出しなきゃいけないんですから」
「こんなネクタイ曲がったものを?」
「何言ってんです? そのネクタイが曲がった変な証明写真を他店の人間に見せびらかそうとしているあなたこそ、どうかしてる」
ひとが大人しく聞いていれば、随分おっかない4人の名前が挙がったものだ。
馬渕、黛、香椎、八女。彼女らは同期で、入社当時から問題視されていた仲良し4人組だという。
全国200店舗を誇る大手スーパーマーケット、ユナイソン。この店舗数にしてなぜ八女さんクラスの問題児が集結してしまうのか不思議でならない。
問題児は一つの店に固まっていた方が何かと都合がいいという本部人事部の思惑だろうか。だとしても巻き込まれる側の身にもなって欲しい。
その問題児たちはいつの間にか人の写真にハサミを入れている。早い。展開が早過ぎて付いていけない。駄目元で、もう1人の女傑を振り仰いだ。
「黛さん。証明写真が目の前で損壊されました」
「今度撮るときは、ネクタイをまっすぐにね」
無慈悲。この世に救いなんてどこにもない無情な宣告。女傑の恐怖政治を痛感した朝だった。女傑と背後には御用心。
「あ、わんちゃん。ちょっと待って」
「……まだ何か?」
胡乱な目で八女さんを見ると、彼女は不敵に笑っていた。しなやかな指が、僕のネクタイに触れ、位置を直す。
「いいものがあるの。代わりにあげるわ」と甘言を弄し、さらに一歩僕に近付いた。本能で半歩下げる僕。
「いいもの?」
「これよ」
僕の手に渡されたのは、なんと潮さんの証明写真だった。
「最高です」
「喜んで貰えて何よりだわ」
「なぜ八女さんがこれを?」
「私が『今から提出してくる』って言ったら、『じゃあ私の分もお願いします』って」
「なるほど」
「だから余った写真は私が頂戴することにしたの。つまり、お駄賃ね」
大方、上司である八女さんをパシらせることによって普段の鬱憤を晴らしたつもりだろうが、それを実行するには如何せん相手が悪い。
一度でも八女さんの手に渡った以上、潮さんの元に写真の残りが戻ってくる確率など、宝くじで1等を当てるより難しいだろう。
ジャイアニズムが発生してしまうから。現に、僕がいま、身をもって痛感したばかりである。
女傑によって完膚なきまでに丸め込まれてしまった。こんな日は心の女神に逢いたい。
幸いにもPOSルームに仕事の依頼があった。八女さんはまだ事務所に留まる様子だし、今なら会えるはずだ。


___潮透子side


開錠音がして入室してきたのは不破犬君だった。
「おはようございます。入力依頼、大丈夫ですか?」
「おはよう。いいわよ」
ファイルを預かり、中を確認する。明日からの特売依頼のようだ。
「ありがとうございます。入力が終わったら、そのファイルは青柳チーフに渡して下さい。POPを作るそうなので」
「分かったわ。午前中には渡せると思う」
「でしたら昼休憩に入る前に、僕が取りに来ます。ここを通過しますし」
「ここを?」
社員食堂とは反対の方向だ。
「昼休憩中に証明写真を撮りに行かないといけないので。この通路を経由するのが一番早いでしょう?」
社員証変更に伴い、全職員対象で証明写真を提出しなければならないお達しが下っていた。
「写真の提出期限は今日でしょう? まだ撮ってなかったの?」
「弁解させて貰うなら、僕はちゃんと撮りましたよ。八女さんに写真を盗まれなければ、こんなことにはならなかった」
「……それは運が悪かったわね」
「『人を見たら泥棒と思え』って本当ですね。「隙あり」って言いながら取り上げるんですから、ほんとひどいです」
八女チーフが原因ならば仕方がない。チーフの尻拭いは後輩の役目。
「代わりに私が謝るわ」
それには及びません、と無邪気に笑う。え、何その笑顔。この微笑みには用心しなければ。絶対裏があるに違いないのだ。
「これを頂きますから」
彼の手には、私が提出した証明写真があった。
「……なんで持ってるの!?」
「八女さんからいただきました」
「なに勝手にやり取りしてるのよ。あげないわよ。仏頂面だし鉄面皮だし、そんな可愛げのない写真、ひとさまにあげるなんて絶対イヤよ」
「じゃあプリクラ下さい。あ、自撮り写真ってないんですか? スマホの待受にします」
「プリクラなんて学生以来撮ってないし、例え自撮りしてたとしても不破犬君にあげるわけないでしょ」
「学生時代の潮さんにめちゃくちゃ興味があるのでそのプリクラ下さい。写真の方は、潮さんに気取られないよう、いつかこっそり撮りますから」
「隠し撮りの野望は秘密にしておこうよ!」
思わず突っ込みを入れてしまう。
「じゃあプリクラと交換しましょう。それまでこの写真は人質です」
何よ、その笑えない冗談は!? 
「ざ、残念ねー。もう残ってないわー」
「そう言うと思いました。じゃあ一緒に撮りましょう」
「一緒にってプリクラを!? いやよ」
「写真。貰います」
「う……ぐ……。それだけは……」
「じゃあ一緒に撮ってくれます?」
「それもイヤだってば!」
「了解。ではこの写真はいただいておきますね」
何でこうなるのよー!
だって証明写真だなんて、真顔で愛嬌もなくて表情も硬くて、かなり不細工なんだもの。
背筋を冷たいものが走る。やっぱり駄目だ、そんなものは渡せない。 
「分かったわよ……! 3階のゲームコーナーにプリクラあったよね……」
「どんな風の吹き回しです? 嬉しいから構いませんけど。じゃあ18時に」
「今日!?」
ひとを四面楚歌にしておいてから断われない状態に追い込むなんて、とんだ食わせ者だ。



___不破犬君side


約束の18時。私服に着替えてからゲームコーナーに向かうも、潮さんの姿はない。
さてはすっぽかされたかな? 確かに強引だったし無理もないか。10分待ったところで踵を返すと、
「10分しか待てないの?」
声のした方を見ると、私服である紺色と黄色のバイカラーワンピースに着替えた潮さんがいた。
緩やかな髪を左肩の位置で結び、胸部分まで垂らしている。小さな蝶のクリップは仕事中にはなかったものだ。
仕事のときと違う髪形、そして丈の短いワンピース姿に、
「反則的な可愛さですね」
自分でも迂闊だったと思う。率直な感想が口をついて出ていた。
潮さんは顔を真っ赤にさせ、口をパクパクさせていたものの、
「……早く撮るわよ」
歩幅の大きな潮さんの後に続き、プリクラ台へと急ぐ。
それにしても、この膨大なプリクラの種類、そして女子高生の多さと言ったら。
普通ならどれにするか迷っても良さそうなものを、潮さんは躊躇いもせず『美姫』という台に入って行った。
「何してるの? 早く入って」
促され、お金を投入すると、慣れた手付きで操作していく。
「学生以来撮ってないっていうのは本当ですか?」
「トップシークレット」
「前回誰と来たんですか? 彼氏ですか?」
「マル秘扱い」
「素直じゃないですね。彼氏なんていないくせに」
「うるさいわね。……ほら、撮るわよ」
ハイ、ポーズ。マシンボイスの合図でポーズを決める。
「潮さん、何だかんだ言って笑顔ですね」
「プリクラ撮るのに仏頂面なんてありえないでしょ。手元に残るものは、嘘でも笑わないと。……誰が見るか分かんないんだし」
「……そうですか、じゃあ」
ツギイクヨー、ハイ、ポーズ。
「なんで手を握るのよ!?」
ツギイクヨー、ハイ、ポーズ。
「きゃぁっ」
「潮さん、前見てなくちゃ駄目じゃないですか」
「なんで抱き付くの!? なんで後ろから!?」
「だって自慢したいじゃないですか」
「誰にだ! しなくていい!」
「本当なら全身プリクラにしたいぐらいですよ。この機種、全身は選べないんですか? パンプスも可愛いし」
「セクハラ禁止!」
言いながらワンピースの裾を押さえる潮さん。年上女子の可愛い姿を見ている内に、あわよくばと魔が差した。潮さんの顎を持ち上げる。
「……やだ!」
どん、と胸板を押され、抵抗される。
「やめてよ、調子乗りすぎ」
「……す、すみません……でした」
気まずい沈黙。それを生み出したのが自分なだけに居た堪れなかった。
俯いているので、潮さんの表情は分からない。きっと怒らせたし、呆れられたし、嫌われたことだろう。
いつの間にか撮影は終わっていて、シールが排出されている。
潮さんはそれを掴むと、僕に差し出した。僕はそれを無言で受け取る。
その瞬間、潮さんが乱暴に僕の手首を握った。大股で歩く彼女に引っ張られた僕は、すわ警備に突き出されるのだろうかと内心ヒヤヒヤだ。
思い返せば潮さんと話せるようになったのは痴漢を撃退したからだ。
それまでは、話し掛けるのも躊躇われるほど遠くからしか見ることのできない存在だった。
一度は彼女のヒーローになれたのに、調子に乗った僕は彼女に迫ったせいで今やあの時の痴漢同様、卑劣な男になり下がった愚か者だ。
でも衝動を抑えることなんて出来なかった。それほど愛しくて、可愛かったのだ。
「あのぉ潮さんごめんなさいさっきのは謝りますだから二度と僕と話さないとか半径3M以内接近禁止とかそういうのは勘弁してくれませんか」
「……」
「本当にごめんなさい潮さんが可愛かったから魔が差しました悪意はないんですただ欲望が突っ走ってしまっただけで」
しまった、欲望の暴走云々は言わない方がよかったかもしれない。これではただのスケベな男じゃないか。いや、否定はできないけども――。
潮さんの足が止まった。連れて来られたのは別のプリクラ台だった。
「?」
プリクラ台と潮さんを交互に見つめ、どうしたんだろうと思っていると、ドン! と中に押し込まれた。「潮さん?」
無言でカメラの位置を調整し、小銭を投入する潮さん。ワケが分からない。なぜこんなことをしているのだろう?
“お好きなフレームを選んでね。これでいい? じゃあ行くよ、はいチーズ!”
機械から流れるお決まりのフレーズ。一方で、無言の潮さん。
でも画面に映る潮さんの顔は、さっきの出来事の延長線上とは到底思えないくらい綺麗で、可愛くて。
不可解な行動に戸惑っていたのに、腕を組まれた瞬間、嬉しくなってしまった。
“もう1回行くよ。はい、チーズ!”
潮さんは絡めていた腕をほどくと、今度は僕の前に立ち、背中を向けた。
「あの……潮さん?」
「肩に軽く手を添えるだけのポーズなら……、許す」
「え、でも」
「早く」
“これが最後の撮影だよ。はい、チーズ!”
「……あの……これは何の冗談ですか? いや、嬉しいんですけど」
「……『諦めません』って言ったの、そっちじゃん。そんなこと言われたら、検討しないわけにはいかないでしょ……」
「検討って?」
「早々に諦めてもらう方法を考えたり」
「うわ、ネガキャン含んでた」
「1%でも『YES』って答えてあげられる可能性はあるのかなとかさ……。……はぁ、調子狂う……やんなるなぁほんと」
「は? え……? 待ってください。少しは僕のこと、意識してくれてるってことですか?」
僕のことなんて歯牙にもかけていないのだとばかり思っていた。
それが悔しくて小学生男児かと思われても仕方のない意地悪もしてきたのに。嘘だろう? まるで青天の霹靂だ。
僕が尋ねると、潮さんは訥々と、困りながら教えてくれた。
「あなたが私を好きなのは……分かった気がする。誰とも付き合う気になれないけど、でも、一方で前に進まなきゃって思ったりもするの。
あなたはいつもまっすぐ素直な気持ちぶつけてきて……。実は内心嬉しかったりもするの。
でもまだ怖い。戸惑ってる部分もある。嬉しいけど、あなたを好きなのか分かんないし。伊神さんのことを考えるとキュンってするし。
好きな人に触れたいって気持ちはね、すごく分かる。私もそうだった。自惚れかもしんないけど、不破犬君は私に触りたいのかな? って。
でもどこかで線引きしとかないと。強引に出られても困るし。私、いつも拒絶しちゃってるよね。応えてあげられたら良いんだけど……」
しどろもどろ、つっかえつっかえ言う潮さんの顔は、これ以上ないほどに真っ赤で。
「やば……」
それが愛しくて、こんなに可愛いのに手に入れられないのが、心を掻き毟られるほど、もどかしくて。その姿勢のまま、ぎゅっと抱き締めた。
「潮さん。その服と体勢でそんなこと言っちゃ駄目ですよ。犯罪的に可愛すぎ」
「はぁ?? ちょっ、待って! 許してない! それは許してない!!」
「これは隙を見せた潮さんの所為ですから」
潮さんの頭上にキスを落とす。案の定、潮さんは僕を突き放し、目に涙を湛えた。
あぁ――。分かりかけた気がする。潮さんの心情が。
本気で抵抗しているわけではないかもしれない。
一縷の望みはまだあるのかも。現に、残してくれていた。
恐らく心の中で葛藤を起こしていて、潮さん自身、処理出来ずにいるのだ。
感情を持て余している。理性でどうにかしようとしている。じゃあ、本能で僕を求めてもらおうか。
「そう遠くない未来、きっと潮さんは、僕が欲しくなるはずです」
「そんな日、絶対来ないわよ」
潮さんは挑むような目で僕を見ると、再び半分に分けたプリクラを僕に押し付けた。
「じゃあね! ふんっ」
「あ……一緒に」
「帰らない!」
二言はないとばかりに踵を返し、さっさと歩き出す。――やれやれ。
外は……まだ雨が降っているだろうか?
それでも構わない。僕の心には、虹が架かっている。
我ながら陳腐な言い回しだと苦笑しつつも、どうしたってニヤけてしまう顔を、すぐには引っ込められないのだった。


→続く

2019.03.27
2023.02.17


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