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11話 【横恋慕】


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11話 (潮) 【横恋慕】―ヨコレンボ―



終業後、帰路につき夕食のメニューを考えるも、さほど空腹を感じていないことに気付いた。
不破犬君との対峙に続き、八女チーフに牙を剥いた私は、体力と精神力こそ削られたものの、食欲を減らすまでには至らなかったようだ。
(結局午後は八女チーフと会話を交わさなかったな……)
黙々と作業をこなすチーフと、赤い目を腫らしたまま作業する私の間には、終始に渡りずっと気まずい空気が流れていた。
とはいえ、チーフは仕事に託けて何度か声を掛けてくれたのだ。その機会を『無言』という最悪な態度で応じたのは――私だ。
(子供か、私は……)
自己嫌悪に陥るぐらいなら始めから素直になっておけばいいものを、天邪鬼な性格が災いしてこの体たらく……。
このままだと仕事に支障を来たすため、明日にはきちんと謝罪をしようと思う。
それに、チーフのお陰で気付いたこともあった。私には伊神さんしか見えていなかったということだ。
伊神さんとの恋を失った頃から、自暴自棄になった私の口癖は『誰も助けてなんて言ってない!』、だった。
それなのに、あまたのひとたちが私に与えようとしてくれた、無償の愛や思いやり。
それらを一体、何十遍、何百遍と無碍にしてきてしまったのだろう?
(そしてとうとう今日は、八女チーフからの愛も無碍にしてしまった……)
なんというひどい仕打ちを、平気で行ってきたのだろう。
己の身勝手さを思い知る。その重たくて冷たい事実に、事件以来不安定だった足元が、さらにぐらつきそうだ。
(謝罪対象は八女チーフだけじゃないわ。岐阜店のひと、全員に必要だ……)
でも、謝ったところで許してもらえるのだろうか。いまさら誠意を見せたところで――。
(違う……違う! 相手に許してもらえるかどうかじゃない。ひたすら詫びる、謝る、それしかない)
心の奥から沸々と湧きあがり始めた、私が『したいこと』。
まさかこんな前向きな感情を再び味わう日がくるなんて、夢にも思わなかった。ここ数年は、何をするにも煩わしかったというのに。
雨降って地固まる。今日の出来事がきっかけになってくれて、本当によかったと思う。後は這い上がるしかない。
土台が崩れてしまったのなら、踏み固めて、今度はしっかり根を張るのだ。いつか私という花を咲かせるために――。
目の前を覆っていた霧がわずかに晴れて、視界がクリアになった気がした。何年か振りに、気持ちも少しだけ軽くなった気さえする。
高揚と体が連動しているのか、意外にも空腹を感じ始めてきた。おかしなことに、生きてる実感までしてきて、私ではないようだ。
(どうしちゃったの、私?)
一皮むけたとまでは言わない。でも、明らかに自分の中で思考回路が変容したことだけは確かだった。
この『ちょっとだけポジティブ脳』を、まずは料理で活用することにする。
棚を開け閉めしながらうんうん唸り、捻りだした答えはパスタだった。下ごしらえをしていると、インターホンが鳴った。
ネット通販で購入したコスメが届いたのだろうか。玄関へと向かったが、訪問者は宅配会社のドライバーではなく不破犬君だった。
黒のカッターシャツに細身のパンツという出で立ちは帰宅してから着替えたのだろう。店では白のカッターシャツだったはずだ。
考えるよりも先に手が動いた。ドアを開け放ち、尋ねる。
「不破犬君! 杣庄に殴られなかったでしょうね?」
私の剣幕に驚いたようで、彼は半歩ほど後ずさった。
「離れたら分かんないじゃん!」
逆に私が近付いて、不破犬君の頬を両手で挟みこむしかなかった。
玄関の明かりが漏れているとはいえ、それでも通路は暗く、傷の有無がよく分からない。
殴られた痕がないだろうかとマジマジ見つめていると、「あの……」と躊躇いがちに言いながら私の両手首を掴み、頬から引き剥がす彼だった。
「殴られてません。暴力は振るわれてませんから安心してください」
「ほんとに?」
「ソマさんは拳を振るうようなひとなんですか?」
問われてハタと気付く。これでは不破犬君がそう思っても仕方ないではないか。
杣庄は、むやみやたらに力に訴えかけるようなことはしない。
でも、たった一度だけ、感情が昂った過去があるから。それを知っているから、もしかしたらと思っていたのだ。
「……ううん。あれでも杣庄は優しいから……しないよね、そんなこと」
不破犬君にというより、自分に言い聞かせるように呟くと、今度は不破犬君が苦渋めいた顔つきになる。
「……僕の心配をしてくれてるーって喜んだ途端、ソマさんを褒めるなんて」
どうやら拗ねたようで、不服そうに愚痴を零した。
「ごめんってば。これでも心配してたんだから」
「……」
信じていないのか、まだ真顔だ。その不破犬君が、きゅっと眉根を寄せた。
「な、なによ? まだ言いたいことがあ」
「潮さん、何か調理中でした?」
「え……? あっ……」
指摘を受けて五感を働かせる。たちまち鼻が焦げた臭いを捉えた。
答えるより先に、不破犬君は玄関で靴を脱ぐと敷居を跨いだ。
慌てて私もキッチンに向かう。先に辿り着いていた不破犬君がガスコンロの火を止めた。
深い鍋はぼこぼこと大き泡を発生させながら沸騰を告げ、フライパンで炒めていたほうれん草は縮れて焦げていた。
発見が遅ければ火事になっていた可能性もあり、手足ががくがくと震えてきた。
「ご、ごめん……。助かった……!」
謝罪のことばも震えていた。
「いえ、よくよく考えてみると食事を作る時間ですよね……。そんな時間帯に、アポも無しにのこのこ訪ねた僕も僕でした。すみません」
「一番悪いのは、火を止めなかった私だから」
炭化したほうれん草をゴミ箱に捨てながら、気落ちしている不破犬君をフォローし、その一方で新たなメニューを組み立て直す。
お湯嵩が減ってしまったとはいえ、パスタは茹でる前だったので無事だ。ソースの具材を変えるだけで済むだろう。
冷蔵庫には何があっただろうか。確か、しめじとベーコンがあったはず。同じクリーム系ソース。軌道修正は簡単だ。
「今夜はスパゲッティですか」
そう言えば、忘れていた。彼の存在を。
「あのー、もうお引き取りしてもらってもいいんだけど?」
私のことばを聞いた命の恩人は、はて、聞き間違えたのだろうかと言わんばかりに笑顔で「はい?」と尋ね返してきた。
「あなたのお陰で大惨事を免れたことには深く感謝してる。ありがとう。でも、それはそれ、これはこれよ」
「そんな馬鹿な。潮さんの手料理を食べる絶好のチャンスなのに」
「やめてよ、そうやってハードル上げるの。見れば分かるでしょ? そんな大それたもの作ってないんだって」
パスタが茹であがるまであと4分。そろそろソース作りに取りかからなければ。
「他のおかず作ります」
勝手に冷蔵庫を開けようとする不破犬君に「駄目!」と声を張り上げ、立ちはだかる。
「パスタだけじゃ栄養偏りますよ」
「いや、確かにそうだけどさぁ……!」
「作るのはポトフです」
「ぐっ……悔しいけど、大好物!」
「決まりですね」
煙に巻き込まれてしまった。仕方がない、食べるだけ食べて貰って、さっさとお引き取り願おう。
テーブルの上に並んだ皿からは湯気とスパイシーな香りが立ち上り、俄然食欲をそそった。


*

先に食べ終わった不破犬君は食器を洗い始めた。
「いいよ、そこに置いておいて。私がやるからさ」
「いえ、これぐらいは。――あ」
ふいに何かを発見したようで、会話が途切れた。
何だろうと思っていると、ワークトップの隅に置いやっていた紅茶缶に目を止めたようで、手を伸ばしていた。
リーフのため、作るのが面倒で、つい放置してしまっていたものだ。
「潮さん、これ淹れても?」
「……いいよ」
制止はとっくの昔に諦めていた。
必要な紅茶道具を出してあげると、彼は淀みなく、丁寧に作ってのけた。
ひょっとして料理は得意だったりするのだろうか。そんな情報さえ知らなかった自分に気付く。
「料理するのね」
「しないですよ。嫌いですもん、家事」
「え? でも手際もいいし。私のズボラな点を指摘するからには、及第点ぐらいのレベルには達してるんでしょう?」
「1人暮らしが長いから一通りできるっていうだけです。別に、突き詰めてスキルアップを図っているわけじゃないので」
謙遜してるとも思えないし、その通りなのだろう。ただ、この兆候は長男長女に見受けられるような気がする。不破犬君は長男だろうか。
疑問を抱く半面、なぜ私が彼に興味を抱かねばならないのかと我に返る。どうでもいいではないか。不破犬君のことなんて。
ぐいっと紅茶を煽ると、ふわりと優しい香りが口内に広がった。しかも自分が淹れるより幾倍も美味しく、驚いた。
「この紅茶、こんなに美味しかったっけ?」
不破犬君は「そうですか?」と紅茶缶を手に取り、ラベルを眺めた。
「英国王室御用達の老舗ブランドです。美味しいに決まってますよ」
「え? でも私が作るのと、味が全然違うような……」
「だとしたら、茶葉を生かしきれてないのでは? ちゃんと蒸らし時間設けてます? 色が出たからOKってわけじゃないんですよ」
図星だった。
痛いところを突かれて閉口する一方、蒸らす時間を確保するだけで劇的に美味しくなるものだったのかと感心する。
「……覚えとく。教えてくれてありがとう。一応お礼言っておく」
頭を小さく下げると、不破犬君は無言のまま紅茶缶を元の位置に戻した。
そのままシンクに身体を預けた彼は、両腕を組みながら、ローテーブルのため直座りしている私を見下ろしながら言った。
「僕も教えて欲しいことがあるんですけど」
「ん?」
「潮さんから話してくれるのをずっと待っていました。でももう待てません。教えて下さい。伊神さんと何があったんですか?」
唐突に話題を振られ、飲みかけていた紅茶でむせそうになった。
咄嗟に目を逸らしたけれど、彼がじっとこちらを見ているのが雰囲気で分かってしまい、妙な居心地の悪さを感じてしまう。
「……言わないよ」
カップを握り締める手が震える。
(だめ、踏み込んで来ないで……。私に語らせないで……)
確かに、いつかはって思ってた。でもそれは今じゃない。だからまだ言えない。
「ソマさんも関係してるんですか?」
的外れの質問に不意をつかれ、つい彼を見てしまう。私は首を傾げるしかなかった。
「? どうして杣庄が出て来るの?」
「ソマさんには頼るのに、どうして僕には何も話してさえくれないんですか? 
僕が年下で頼りにならないから? それとも他の理由……やっぱりソマさんが好きだからとか?」
「何を言い出すの? やめてよ、杣庄は関係ないじゃない」
「関係ない? じゃあソマさんと潮さんはどういう関係なんです? いっつも潮さんのナイト気取りで、僕の前に立ちはだかる。
今日だって、上から目線で『出直して来い』って言われた。潮さんと関係がないなら、なぜ彼はあなたを守るような態度を取るんです?」
「それは……」
「今日、ソマさんは潮さんと付き合ってないって言いました。『俺は嘘だけはつかない主義だ』とも。その言葉を心から信じたい。
でもそうなると矛盾が生じるんです。覚えてますか? 僕が新入社員として岐阜店に配属されたばかりの頃のことです。
「恋人? ですよね? だから怒ってるんでしょう?」と尋ねたとき、『~~~あぁ、そうだ。だから、透子には手を出すな!』って言われました。
あれは嘘を嫌うソマさんがついた『嘘』だったんですか?」
「……そうよ。あれは私が、嘘が嫌いな杣庄に吐かせた『嘘』。……杣庄には悪いことをしたと思ってる」
「じゃあ……! 付き合ってないんですね?」
「……」
念を押されてもイエスと答えられないのは、杣庄と私の関係を正確に語る上で、伊神さんとの過去を話さなければならなくなるからだ。
私が逡巡したのを勘違いしたのか、不破犬君は「話せないほど親しい仲なんですね」と吐き捨てるように言った。
「変な勘繰りはやめて。杣庄に失礼だわ」
杣庄をかばったことで、不破犬君はどん底に突き落とされたような表情になる。杣庄は関係ないと言ってるのに、なぜこうも過敏に反応するのか。
「どうせ僕は子供ですよ……。潮さんが話してくれないのも、ソマさんが馬鹿にするのも、八女さんがわんちゃん呼ばわりするのもね」
「被害妄想もいい加減にして。私が話せないのは、まだ時期じゃないからって言ってるじゃない。
八女チーフのわんちゃん呼ばわりなんて、気にする方が間違ってる。私なんて伊神マニアって呼ばれてたのよ。それが八女チーフの性格なんだから諦めるべきね。
杣庄が馬鹿にしてるっていうのも誤解だわ。杣庄は、単に私に近寄る男性を排除しようとしてるだけ。別にあなただけ邪険にしてるわけじゃない」
「彼になんの権利があって、潮さんから男性を排除しようとしてるんですか? どうして潮さんは黙ってそれを受け入れてるんです!?」
「それは――だから……」
「くそっ……! なんだよ……ソマさんも八女さんも潮さんも! いつまでも子供扱いしやがって……っ!」
シンクから離れた不破犬君の足は、心なしか玄関の方へ向かっているような気がする。
私はその後を追った。背中のカッターシャツを掴む。
「どうしたのよ? 落ち着いてってば!」
「潮さんが好きなんだ! どうしても……この想いが……っ! ねぇ、何なんだコレ……? どうしちまったんだ僕は……っ」
その場で膝から崩れ落ちる不破犬君を、私は見下ろすことしか出来なかった。どうしよう……どうすればいい? 泣いてる。不破犬君が泣いてる。
こんなのおかしい。だって、不破犬君は誰よりもふてぶてしかったじゃない。
痴漢から私を助けてくれた時も、私に想いをぶつけてくれた時も、あんなに強かったじゃない。
「僕は潮さんが好きだ。……確かに理由は伏せたままですけど……本当に大好きなんです。
伊神さんの名前を言う時の潮さんがあまりにも綺麗だから悔しかった。でも、可愛いからずっと見ていたくて……。
伊神さんを思い出してる時の潮さんも綺麗だった。うっとりした顔は、恋する女の子独特の雰囲気に包まれていて……。
……だけど結局、それら全て伊神さんの為に在るものだって……。
分かってるんだ……分かってるから余計にツラい……。何で僕じゃないんだろうって……!」
「……」
「伊神さんには太刀打ち出来そうにない。僕なんか拒まれるって最初から分かってた。でも……抑えられない。
そんな伊神さんの穴を埋めるのはソマさんだろうって思った。あの人しかいないって……。だって、本人が言うんだ。自信満々に。
だから僕も暗示にかかって、あぁそうだ、潮さんを誰より理解しているのはソマさんなんだ、って……」
「……っ」
「どうしてこんなに好きになっちまったんだろう……。いっそ嫌いになれたら、どれだけ楽か……」
私は耳を塞ごうとした。その先を聞くまいと。その手を、今まで床に視線を落としていた不破犬君が顔を上げ、と同時に素早く掴む。
「嫌いだ。潮さんなんて……大ッ嫌いだ……っ!」
憎しみに満ちた目だった。私は彼に絶望を与えてしまったのだろうか。
だとしたら、この唇に感じる熱い熱は一体何なのか。手首を掴まれ、冷たい床の上に押さえ込まれ、重なるその唇は。
ついさっき飲んだ紅茶の味と。不破犬君が流す、少しだけ塩辛い涙の味がした。


*

まさか貴方とこんなことになるなんて、思いもよらなかった。
貴方はいつも私をからかい、見下し、軽蔑していたはずよ。
こんな私を、どうして好きになったの?
理由が知りたい。ねぇ、何故私なの?
理由を教えて欲しい。ねぇ、いつからなの?
なぜ私、いま、貴方と唇を重ねてる――?


*

不破犬君の唇が、身体が、手が……あらゆる熱が私から離れても、私は動くことが出来なかった。
放心。金縛り。そんな呪縛から抜け出すことは不可能だった。視線だけをなんとか彼に合わせる。
彼は小さな声で「ごめんなさい」と言う。「帰ります」と。私が何か言う前に、既に背を向けている。
人の唇を奪っておいて。人を泣かせておいて。挙句の果てに、手を差し伸べもしなければ、起こしたりもしない。
それほどまでに絶望したのだろうか。私に。私の過去に。私と杣庄の意味深な関係に。更には、私と伊神さんの絆に。
「待って」
私が縋ったわけではない。『引き留めて欲しい』と語っているのは不破犬君の背中であって、決して私ではない。
(潮時かもしれない……)
恋に狂った男性に会うのはこれで2度目だ。でも1度目は伊神さんじゃない。私に恐怖を植え付けた男だ。私に絶望を与えた男。
――都築基。その男の話をしよう。
「聞いてくれる? 私の……悪夢」
不破犬君は驚いたものの、瞬時に顔を引き締めた。それは何らかの覚悟を決めた……戻れない道を覚悟した、決意表明に似ていた。
頑なだった私の殻は、空の景色が見たくて、破れたがっていた。その望みが叶おうとしている。
するすると、私の口は過去を語り始めた。


(→続く)

2008.09.26-2008.10.01
2019.05.02
2023.02.17


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