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中野ウォーカ~中野坂上「淀橋」の伝説~

■「全てのものには名前がついている」~中野坂上「淀橋」の伝説~



青梅街道を中野から新宿へ向かって、ナオキは歩いている。
他のゲイの大多数の例にもれず、ナオキは男運が悪かった。
過去の恋人たちから「ナオキ」と下の名前で呼ばれたことが未だに一度もない。「ねえ」「ほらほら」などと声がし、振り返ると大抵相手がナオキを呼んでいる。下の名前を呼んでくれるような親密な仲になる前に、相手から連絡が途絶える。
たまに勝手なあだ名をつけられて、居心地の悪い思いを何度かしていると、そのうち相手からまたもや連絡が途絶える。
そのくり返しのたびに、ナオキは名前で呼ばれることを、いっそもうあきらめようと思うのだ。
ほんの十二時間前、ナオキは土曜の夜の二丁目に繰り出した。いつものように何となく、ほんの一杯だけ飲んで帰るつもりだった。しかしカウンターで隣り合わせた客のおかげで、飲み過ごしてしまった。
ナオキの席の右隣には、坊主頭にピアス。眉毛を細くし、大きめのダボッとしたシャツを着た二つ年下のヤツが座っていた。店のカラオケで耳慣れない曲を歌う。曲のグループ名すら聞いたことがない。生意気な歌詞が気に障った。
だが、ヤツはナオキのタイプだった。
話してみると不思議と話が弾み、帰り際、ヤツから日曜のランチを誘われた。
そして今、約束の新宿御苑脇のカレー専門店に向かって、新中野から青梅街道沿いに、新宿へ歩いている。ファーストデイトだ。知り合ってその晩にすぐにHをしないことが、きちんとまっすぐに恋が進む近道なのだと、ナオキは知っている。




淀橋の伝説を話したのは、その同じ夜バーでナオキの左隣に座っていた、スーツ姿の老人だった。
細い顔をしていて、白髪頭はきれいに手入れがされている。灰色のスーツに地味なネクタイ。どんなに酒が進んでも、ネクタイは乱れることはなかったし、イヤらしい話をすることもなかった。いい大人だった。
しかしこの奇妙な老人のせいで、淀橋を避けて新宿へ向かうか、そのまま渡り進むか大いに迷うことになったのだ。
この客が言っていたことを心から信じたわけではない。
だが淀橋が近づくにつれ、だんだんと歩く速度が落ち始めていることに、自分でも気が付く。
淀橋を避けて新宿へ向かうか、いつものようにそのまま渡るか。
大したことではない。どちらでも構わない気もする。
だがあのことがもし、本当だったなら・・。
橋はどんどん近づいてくる。
日曜の午前十一時、待ち合わせの時刻には、まだ少し早い。




「淀橋って知ってるか?神田川にかかってる。」
突然老人が話に割り込んできたのは、夕べのことだ。
「昔の話だ。江戸時代のその前の時代のころ、神田川は今じゃ想像ができないくらい深く淀んでいた。その頃の青梅街道は新宿から青梅へ旅するものが絶えなかった。今と違って交通の主流は徒歩しかない。早飛脚や旅の物売り、方々の寺や城を普請する人足たちの往来などで、青梅街道はいつも土けぶりが立っていた。だがそんなにぎやかな青梅街道と神田川がぶつかる淀橋を、決して渡らないヤツらがいたんだ。」
老人は楽しそうにゆっくりと水割りのグラスを口に運ぶ。
「花嫁だ。中野から新宿へ向かう花嫁行列だけは決して淀橋を通らなかった。どんなに遠回りだって、栄橋や末広橋のほうにグルッと回って嫁入りしたんだ。戦後ちょっとまで花嫁を乗せた車は淀橋を決して通りゃしなかった。」
「何、怪談?」
マスターが老人の顔色をうかがう。
「似たようなもんだ、執念だな。江戸幕府開府のころ、好きだった相手と一緒になれなかった花嫁が、式の前日に淀橋から神田川へドボンした。遺骸は上がらなかったらしい。それ以来、淀橋を渡って嫁にいった女はみんな離縁や死別なんかで、嫁入り先から一人で淀橋を渡り戻ってくるようになった。それから花嫁行列は決して淀橋を渡らなくなった。」
「あらやだ。私毎日、丸の内線で神田川通ってる。だからこれまで嫁に行けなかったんだわ。」
「いや、マスター。地下鉄はくぐってるんだ、川を。歩く時だよ。中野から新宿へ歩いていくときだ。迷信とはいえ、結果的に死んでから何百年、何人もの花嫁を通らせなかったんだから、身投げした花嫁の執念たあ、すごいもんだ。」
老人はグラスをまたあおる。
「だから男と会う時は、俺は淀橋を通らねえんだ。」




中野坂上の交差点を過ぎてすぐ、下りの坂道を歩く。ゆるい傾斜のせいで、足が自然に先へ先へと、出る。
淀橋が見えてくる。なんてことはない。これまで何人もこの淀橋を渡って、それでも幸せになったヒトはいるはずだ。ナオキ自身、これまで何回もこの橋を渡ってきた。こんなことで迷うことのほうがどうかしている。夕べの老人の話は酔った上でのただの作り話だ。そうに決まっている。回り道など面倒だ、有り得ない。
ナオキはこのまま青梅街道を直進して、淀橋を渡り新宿へ向かうことを、心に決めた。




待ち合わせ場所に二分前に着いた。
新宿御苑の新宿門前にナオキは立っている。似たような日曜の待ち合わせはこれまでに何度もあった。大抵遅れてやってくるヤツが多い。そして遅れてきて謝らないヤツほど、その後会えなくなることが多い。そんなことにもナオキはもういちいち傷つかなくなっている。
 腕時計を見る。一分前。
待ち合わせの定時前に来るクセを、そろそろやめたいとナオキは思う。遅れてくるほうがカッコいいからだ。同じ年のゲイの友達に何度も言われているが、ナオキはつい少し前に、待ち合わせ場所に着いてしまう。
ピアスのヤツは来ないかもしれない。例えば夕べ、あれから別の男と出会って、ナオキとの約束をとうに忘れているかもしれない。それとも、急に気が変わって、部屋で一人コーヒーを飲んでいるかもしれない。
ナオキは突然、ヤツはここには来ない、と何の根拠もなく思い始める。
もし来なかったら、これから今日は何をしようか。映画でも見ようか。十五分くらい待って、それでも来なかったら、何事も無かったかのように、ゆっくりと新宿駅へ歩き出そう。この「何事も無かったかのように」が重要だ。こんな事はよくあることだし、ほんとはそんなにショックじゃないってところを見せて、自分で自分をだますように振舞わないといけない。少なくとも淀橋の伝説のせいではない。そう、決してあの橋のせいでは。
なぜならナオキは淀橋を渡らなかったのだ。




あの時、橋の手前の小さな路地から、金木犀の香りが突然ナオキの頬をなでた。
足が止まる。香りに気持ちが落ち着いて、時計を見ると、遠回りをする時間が充分にあった。
深呼吸をし、金木犀の香りを胸に吸い込んでから、末広橋へと向かったのだ。
 淀橋を渡らなかったのに、ヤツは現れない。今日は決して嫁入りではないが、せめて会いたいヤツと会いたかった。
時計を見る。待ち合わせ時刻ちょうど。
たまにはこちらからすっぽかしてやろう。ヤツはまだ来ないし、もともとこっちが待ち合わせには現れなかったことにするのだ。今なら間に合う。さあ駅へと向かうのだ。
悪くはない思いつきだ、と思った。と同時に、少しさみしい金木犀の残り香が、鼻先をかすめた気がした。
その瞬間だった。
左目の端に走りこんでくるヤツの姿が映った。
気がつくと、ナオキは右腕を彼に向かって力一杯振っていた。
ナオキの様子に、あたりの人がみな振り返る。
ナオキは構わず大きく手を振り続ける。ヤツはこっちに向かって笑顔で走ってくる。彼は立ち止まる。まっすぐに私を見つめて、唇のすぐ横に手のひらをそえる。
そして大きな声で「ナオキ」と。
とても大きな声で名前を、呼んだ。

これからは決して淀橋を通らずに、新宿へ行こう、とナオキは思った。


                終わり




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