383.陸軍駐在武官(3)「吾は愛す英雄千古の月 凱旋門下兵書を読む」
(カモメ)引き続き明石元二郎陸軍大将の経歴を見ていきます。明治三十八年十月十一日帰国命令、十二月二十八日帰国。明治三十九年二月ドイツ大使館附武官。功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章。十二月歩兵第七連隊長(金沢)。明治四十年十月少将、第一四憲兵隊長。明治四十一年十二月韓国駐箚軍参謀長兼憲兵隊長。明治四十三年六月韓国駐箚憲兵隊司令官。(ウツボ)大正二年十二月中将。大正三年四月参謀次長。大正四年十月第六師団長(熊本)。大正七年六月第七代台湾総督、七月陸軍大将、八月兼台湾軍司令官。大正八年十月二十四日福岡で死去、享年五十五歳。男爵。勲一等。(カモメ)「情報将校 明石元二郎」(豊田穣・光人社)によると、明治三十二年一月、参謀本部員となった明石元二郎少佐は、十月満州に出兵したロシア軍撤兵の交渉団に参加、北京に入りました。十月三十一日明石少佐は中佐に進級し、十二月十九日帰国したのですね。(ウツボ)そうだね。その後、明治三十四年一月十五日、明石中佐はフランス公使館附武官兼フランス国駐在員取締を仰せ付けられた。三十六歳だった。(カモメ)明石中佐は花のパリに来ましたが、美女をたずさえてシャンゼリーゼーを、しゃなりしゃなりと歩くような趣味はなかったのですね。(ウツボ)硬派そのものの性格だった。豚汁を何杯もお代わりする明石中佐は、美味で高価なフランス料理は上等すぎるので、店でソーセージを沢山買ってきてパンにはさんでモリモリ食い、牛乳で流し込むというような毎日だった。(カモメ)パリに来て明石中佐が少し愉快に思ったのは、ドイツ人よりはフランス人の方が、やや小さいことでしたね。(ウツボ)そうだね。特に女性がそうなので、ベルリンで大きな北欧の女に見下ろされて屈辱を感じていた明石中佐は、いくらか解放的なものを感じた。(カモメ)明石中佐の下宿はパリの中心、凱旋門の近くのビルの五階にあったので、街路を行くフランス人を見下ろしながら、ざれ歌をつくりました。「高き屋に登りて見れば下をゆくフランス人の足の短さ」。(ウツボ)また、得意の漢詩もつくった。「都人景を追うて閑を弄するの余り 満街の紅火翠輿に映ず 吾は愛す英雄千古の月 凱旋門下兵書を読む」。(カモメ)この漢詩は、「パリの人々はとかく街の灯を追うので、夜は街に赤い灯が満ちて遊興の情景だが、自分は英雄と太古から変わらぬ月を愛し、凱旋門の下で兵書を読んでいる」というような意味でしょうか。(ウツボ)そうだね…、景(かげ)は、抽象的な「幻影」、「はかない幻の人」の意味もある。古賀政男の曲にも「まぼろしの影を慕いて 雨の日に……」というのがある。また、「英雄」はナポレオンともとれる。とにかく、「自分はネオンの灯に惑わされず、兵学に励んでいる」と言っている。(カモメ)明石中佐は同郷の森部静雄大尉(陸士一一・のち少将)に、駐在武官着任当時の近況を次のように知らせていますね。(ウツボ)読んでみよう。「やっと家を借りることができたので、大金を払って大きな鏡を買って、頭は明鏡のごとく、服装も清潔にと考えている」(カモメ)「小生の昨今は公務のほか、仏語の研究に打ち込んでおり、朝起きるとすぐに読書にかかり、顔を洗わないことも多い。もちろん、外出や、人を訪問するときは、顔も洗い口もすすぎ、立派な紳士として出かける。先日も厳寒の大鏡の前に立ったところ、シルクハットをかぶった立派な紳士が立っていたので、我ながらびっくりした」(ウツボ)「パリは欧州文化の中心というが、いわゆる文明文化と言うものが、果たして国家を隆盛に導き得るかどうか疑問に感じている。今夏は格別の暑熱で、列国の公使館員はみな避暑地に逃げ出したが、小生は一人残って、仏語の勉強にいそしんでいる」。(カモメ)そして、この近況の最後の部分に、次のように述べています。「最近、当地第一の高塔(エッフル塔)に登って涼風を浴びつつ下を見下ろすと、有象無象がアブアブしながら、右往左往しているさまが手に取るごとく、人間なる動物の浅ましき状態に憫情を催しました」。(ウツボ)前述の明石中佐の漢詩は、この手紙と同様な心境を現しており、明石中佐の駐在武官着任当時の思想を象徴している。後に明石中佐は美人スパイと交際するようになるが、根底は色恋に惑わされずに、着実な情報活動を行うという主義を貫いている。(カモメ)明石元二郎中佐は公使館附武官のほか、フランス駐在員や留学生の監督もやっていたので、忙しかったのですね。