444.陸軍大学校首席列伝(24)そのクセが止められないようなら、大臣を引き受けるべきではない
(ウツボ)そこで、師団長代理だった今村少将は、二・二六事件の報に接すると、師団長名で、「決起に参加したいと思う者は止めないから、まず予備役の手続きをとってからにせよ」と訓告を出した。(カモメ)また、「ソウルで東京行きの切符を買った将校は、私服であれ軍服であれ、通報すること。無断上京者は釜山で憲兵隊長により拘束する」と命令したのです。(ウツボ)事件後、昭和十一年三月、今村少将は関東軍参謀副長に栄転、駐満州国大使館附武官も兼務した。昭和十二年八月二日陸軍歩兵学校幹事。昭和十三年一月今村少将は陸軍省兵務局長に補され、三月陸軍中将に昇進した。(カモメ)昭和十三年六月、第五師団長・板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将(岩手・陸士一六・陸大二八・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・少将・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官・関東軍参謀長・中将・第五師団長・第四十六代陸軍大臣・支那派遣軍参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・戦後戦犯で絞首刑)が陸軍大臣に就任するため、中国から帰国しました。(ウツボ)青年士官時代から板垣と親交のあった、兵務局長・今村少将は板垣中将に「公私清濁合わせて飲むクセがおありですが、そのクセが止められないようなら、大臣を引き受けるべきではない」と忠告した。(カモメ)昭和十三年十一月今村中将は第五師団長(山東省)に補されました。昭和十四年秋、第五師団は急遽満州に移動しました。ノモンハン事件の後始末のためですね。(ウツボ)そうだね。当時の関東軍司令官は梅津美治郎(うめづ・よしじろう)中将(大分・陸士一五・陸大二三首席・歩兵第三連隊長・参謀本部編制動員課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・スイス公使館附武官・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官兼特命全権大使・大将・関東軍総司令官・参謀総長・大本営全権として降伏文書調印式に出席・戦後戦犯として終身刑・獄中死)だった。(カモメ)第五師団長・今村均中将は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に「関東軍の参謀がこれまでどおり、私の師団に来て勝手に攻撃命令などを出すような越権行為があった場合には、直ぐに軍に送り返しますので承知してもらいたい」と言ったのです。(ウツボ)梅津中将自身、粛軍の任を帯びていたので、今村中将の強い直言を承知したといわれている。(カモメ)昭和十五年一月勲一等瑞宝章、三月今村中将は教育総監部本部長に就任、四月勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章。太平洋戦争の直前の、昭和十六年六月第二十三軍司令官、十一月第十六軍司令官。昭和十七年十一月第八方面軍司令官。昭和十八年五月陸軍大将。(ウツボ)終戦後、昭和二十一年四月ラバウル戦犯者収容所に入所。昭和二十二年五月オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮十年)。昭和二十三年五月インドネシアのジャワ島移送。(カモメ)昭和二十四年十二月オランダ・インド軍による軍事裁判判決(無罪)。昭和二十五年一月インドネシアより帰国。二月ニューギニアのマヌス島で服役することを自ら申し出て、三月マヌス島で服役開始したのです。(ウツボ)昭和二十八年八月マヌス島刑務所閉鎖により、日本の巣鴨拘置所に移送。昭和二十九年十一月刑期を終え、巣鴨拘置所を出所した。(カモメ)その後、昭和三十二年偕行社(旧陸軍正規将校同窓会に相当)理事長に就任しました。昭和四十三年十月四日、心筋梗塞で死去。享年八十二歳。従三位、勲一等、功二級。(ウツボ)今村均大将の著書として、「今村均回顧録・正・続」(今村均・芙蓉書房出版】がある。関連書籍として、「陸軍大将・今村均」(土門周平・PHP研究所)、「責任 ラバウルの将軍 今村均」(角田房子・新版ちくま文庫)、「陸軍大将今村均」(秋永芳郎・光人社)、「組織に負けぬ人生。不敗の名将・今村均大将に学ぶ」(日下公人・PHP研究所)、「今村均 信義を貫いた不敗の名将」(葉治英哉・PHP研究所)などがある。【二八期首席・下村定大将(陸士二〇)】(カモメ)次は、二八期首席の下村定(しもむら・さだむ)大将ですね。陸軍大学校二八期は大正二年十二月十三日入学、大正五年十一月二十五日卒業。入学者数六十名。卒業者数五十六名。板垣征四郎大将、牛島満大将、木村兵太郎大将、田中静壱大将、山下奉文大将、吉本貞一大将、酒井隆中将、橋本群中将、村上啓作中将、黒田重徳中将、原田熊吉中将、井上三郎少将らがいます。(ウツボ)下村定大将は明治二十年九月二十三日生まれ。高知県出身。本籍は高知県だが、石川県金沢生まれ。金沢一中から名古屋陸軍地方幼年学校に入校。病弱で一年延期して中央幼年学校入校。(カモメ)中央幼年学校で同期になるのが北島驥子雄(きたじま・きねお・栃木・陸士二〇・陸軍重砲兵学校教官・陸軍省軍務局砲兵課員・欧米出張・重砲兵学校教官・砲兵監部員・野戦重砲兵第七連隊長・第一砲兵司令官・陸軍野戦砲兵学校幹事・少将・野戦重砲兵第五旅団長・舞鶴要塞司令官・中将・高雄要塞司令官・重砲兵学校長)でした。(ウツボ)北島は一つ年上の下村と親友になり、生涯親交があった。北島は下村の死後、「聖将の面影」と題した下村についての七十ページほどの冊子を昭和四十四年に刊行している。