449.陸軍大学校首席列伝(29)この残留は、閻錫山と澄田司令官との密約に基づくものであった
(カモメ)澄田睞四郎は広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校卒を経て、明治四十五年五月二十八日陸軍士官学校卒(二四期)。大正元年十二月砲兵少尉、重砲兵第四連隊附。(ウツボ)陸軍砲工学校高等科卒。澎湖島重砲兵大隊附(台湾)。陸軍重砲兵射撃学校教官。大正十年十一月陸軍大学校(三三期)を首席で卒業。由良重砲兵連隊中隊長。(カモメ)その後、陸軍省軍務局(砲兵科)を経て、フランス駐在。大正十四年フランス陸軍大学校に入学して三年間フランス軍の戦略・戦術を学んでいますね。(ウツボ)そうだね。語学にも優れた優秀な軍人だね。帰国後陸軍大学校教官、参謀本部部員、フランス大使館附武官、参謀本部課長、野砲兵第三連隊長、砲兵監部員、独立重砲兵第一五連隊長を歴任。昭和十三年七月少将。(カモメ)野戦重砲兵第六旅団長、陸軍重砲兵学校長、大本営参謀(仏印派遣団長)を歴任。昭和十六年八月中将、九月第三九師団長。昭和十九年十一月第一軍司令官。中国で終戦。昭和二十四年二月復員。昭和五十四年十一月二日死去。享年八十九歳。澄田睞四郎中将の著書として、自伝「私のあしあと」(澄田睞四郎・私家版)があります。(ウツボ)なお、終戦時、第一軍のうち、二六〇〇名の将兵は大陸に残留し、中国国民党系の閻錫山(えん・しゃくざん・台湾の軍人・政治家)の軍隊に編入され、その後三年半以上にわたり、中国山西省で中国共産党と戦うことになった。(カモメ)この残留は、閻錫山と澄田司令官との密約に基づくものであったと言われていますね。澄田中将は残留日本兵を売って日本に帰国したという見方をする人も少なくないのですね。(ウツボ)そうだね。当時、支那派遣軍作戦主任参謀だった宮崎舜市(みやざき・しゅんいち)中佐(岐阜・陸士四〇・陸大五一・参謀本部部員・中佐・支那派遣軍作戦主任参謀・終戦・戦後陸上自衛隊入隊・伊丹駐屯地部隊長・陸将補・第八混成団長・富士学校長・陸将・陸上幕僚監部第五部長・第一師団長・北部方面総監)は、澄田による、その残留命令書を見たと後に証言している。(カモメ)これは平成十八年にこの中国山西省残留問題を追及した映画「蟻の兵隊」(池谷薫監督)が公開されたことにより、事件の存在が広く知られることになったのですね。(ウツボ)そうだね。この映画に宮崎舜市中佐による証言映像がある。【三四期首席・石本寅三中将(陸士二三)】(カモメ)次は、三四期首席の石本寅三(いしもと・とらぞう)中将ですね。陸軍大学校三四期は大正八年十二月一日入学、大正十一年十一月二十九日卒業。入学者数七十名。卒業者数六十八名。安達二十三中将、遠藤三郎中将、四手井綱正中将、中村明人中将、西原一策中将、柳田元三中将、岡田資中将、原守中将、花谷正中将、柴山兼四郎中将、田中隆吉少将、川口清健少将らがいます。(ウツボ)石本寅三中将は明治二十三年十一月五日生まれ。兵庫県出身(本籍・愛媛県)。石本新六中将の三男。兄は、実業家で男爵・石本恵吉と、満鉄理事・石本賢治の二人。(カモメ)弟は、東京帝国大学教授・石本巳四雄(理学博士)と、石本五雄(いしもと・いつお)陸軍少将(兵庫・陸士三〇・陸大三八・陸士教官・第八師団参謀・東京警備参謀・資源局企画部第二課長・同第一課長・欧州出張・歩兵中佐・北支那方面軍特務部部員・陸軍省整備局資源課長・蘭印出張(小林使節団随行)・バンドンで死去・少将)の二人ですね。(ウツボ)石本寅三は陸軍中央幼年学校予科、本科を経て、明治四十二年陸軍士官学校入校。明治四十四年五月二十七日陸軍士官学校卒業(二三期)、十二月騎兵少尉、騎兵第一四連隊附。(カモメ)陸軍騎兵学校附などを経て、大正十一年十一月陸軍大学校(三四期)を首席で卒業。騎兵第一四連隊中隊長、陸軍省軍務局、ドイツ大使館附武官補佐官などを歴任。(ウツボ)帰国後、参謀本部附、陸軍兵器本廠附、参謀本部部員兼陸大教官、軍令部参謀等を歴任。昭和七年四月十一日参謀本部作戦課作戦班長。昭和八年四月十九日騎兵集団参謀。昭和九年八月一日騎兵大佐、関東軍情報課長。昭和十年八月一日陸軍省調査部調査班長。二・二六事件の軍法会議判事を務めた。(カモメ)昭和十一年八月一日陸軍省軍務局軍務課長。昭和十二年三月一日騎兵第二五連隊長、十二月二十八日駐蒙兵団参謀長。昭和十三年一月四日駐蒙軍参謀長、三月一日少将。その後、陸軍兵器本廠附を経て、昭和十四年一月一三日農林省馬政局次長。(ウツボ)昭和十五年三月九日陸軍省兵務局長、十二月二日中将、第五五師団長。昭和十六年三月十三日現職のまま死去。享年五十歳。功三級。