522.陸軍大将異聞(22)自分が昭和天皇に進言したことは間違っていなかった
(カモメ)昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きました。この時、本庄大将は昭和天皇の軍事面の相談役である侍従武官長でしたね。(ウツボ)そうだね。昭和天皇は蹶起した青年将校を反乱軍とみなした。従って侍従武官長である本庄大将としては、反乱軍を鎮圧する立場であった。だが、娘婿の山口太一郎大尉が反乱軍の顧問的な位置にいた。(カモメ)山口大尉は義父の本庄大将を通じて昭和天皇に蹶起した青年将校たちの思いを伝えようとしていたのですね。だから本庄大将の心は昭和天皇と蹶起将校らの間で揺らいでいたのですね。(ウツボ)青年将校らに同情的であった本庄大将は、その旨を「天皇の軍隊を勝手に動かしたのは許せないが、その精神は君国を思ってのことであって、咎めるべきではない」などと昭和天皇に進言した。(カモメ)だが、昭和天皇は、「朕が最も信頼する老臣をことごとく倒すとは、真綿で朕の首を絞めるに等しき。直ちに鎮定すべく厳達せよ」と本庄大将を叱責したのです。(ウツボ)二・二六事件後、身内である、娘婿の山口大尉が無期禁錮の刑を受けたので、三月二十三日、本庄大将は侍従武官長を辞職した。そして四月に予備役に編入された。(カモメ)本庄大将は、昭和十三年四月傷兵保護院総裁。昭和十四年七月軍事保護院総裁。昭和十九年七月従二位。昭和二十年五月枢密顧問官、九月補導会理事長。(ウツボ)昭和二十年十一月十九日本庄大将は戦犯指名(第二次指名)を受けた。容疑は「関東軍司令官の時、満州事変を計画し、実行した」というものだった。(カモメ)だが、本庄大将は、八月十五日の終戦後、軍事保護院を訪ね、医務課長らに「人間は切腹して間違いなく死ねるか」「どこを切ったら一番死ねるか」などと詳しく切腹の仕方を聞いていました。すでに覚悟はしていたのですね。(ウツボ)そうだね。十一月二十日、本庄大将は、陸軍大学校内にある補導会理事長室で割腹自決をした。短刀で腹を三回切り、心臓を三回刺し、最後に頸動脈を切って、絶命した。(カモメ)テーブルには数通の遺書と、梅子夫人や長男に宛てたメモが残されていました。享年六十九歳。遺書の中には「満州事変は関東軍司令官たる自分の責任」とありました。(ウツボ)本庄大将は、著書に「本庄日記」(本庄繁・原書房)がある。「本庄日記」はある意味、不忠の記録ともいえる。本庄大将が天皇の言う事を無視したり、逆らったり、口答えしたことなどを全て記している。(カモメ)本庄大将がこの日記を処分せずに残したという事は、自分が昭和天皇に進言したことは間違っていなかったという主張が感じ取れるのですね。(ウツボ)そういうことだろうね。【阿部信行(あべ・のぶゆき大将】(カモメ)阿部信行は、明治八年十一月二十四日生まれ。石川県金沢市出身。金沢藩士・安倍信満の子。両親は信行を、「目上の者には逆らってはいけない、従順であるように」と服従の精神を厳しくしつけました。信行は親孝行の子共だったと言われています。(ウツボ)東京府尋常中学校(後の東京府立中学)を経て第四高等学校(現・金沢大学)在学時に日清戦争があり、四高を中退し陸軍士官学校入校。明治三十年十一月陸軍士官学校(九期)卒業。(カモメ)明治三十一年六月砲兵少尉(二十三歳)、佐世保要塞砲兵連隊第一大隊附。明治三十三年一月陸軍砲工学校入校、十一月砲兵中尉(二十五歳)。明治三十四年十二月陸軍砲工学校(九期)卒業。(ウツボ)明治三十五年八月陸軍大学校入校。明治三十六年十一月砲兵大尉(二十八歳)、佐世保要塞砲兵連隊中隊長。(カモメ)阿部大尉は、明治三十七年二月日露戦争のため陸軍大学校中退、長崎要塞副官。明治三十九年三月佐世保要塞司令部・砲兵大隊附、陸軍大学校復校。明治四十年十月佐世保重砲兵大隊附、十一月陸軍大学校(一九期恩賜)卒業、陸軍重砲兵射撃学校教官。(ウツボ)明治四十一年十二月砲兵少佐(三十三歳)、参謀本部員。明治四十二年九月兼陸軍大学校兵学教官。明治四十三年十一月ドイツ駐在(軍事研究)。大正二年二月オーストリア大使館附武官補佐官。大正三年一月重砲兵第一連隊附、陸軍大学校兵学教官。(カモメ)阿部少佐は、大正四年一月兼元帥副官(元帥陸軍大将伏見宮貞愛親王附属)、二月砲兵中佐(四十歳)、八月免兼元帥副官、兼陸軍大学校教官。大正五年三月兼参謀本部員。(ウツボ)大正七年七月砲兵大佐(四十三歳)、野砲兵第三連隊長。大正九年八月参謀本部編制動員課長、九月兼陸軍大学校兵学教官、十一月勲三等旭日中綬章。(カモメ)大正十年六月陸軍大学校兵学教官兼幹事。大正十一年八月少将(四十五歳)。大正十二年八月参謀本部総務部長、九月兼関東戒厳参謀長。大正十五年七月宇垣陸相に認められ陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長。昭和二年一月勲二等瑞宝章、三月中将(四十九歳)。