557.海軍大将異聞(17)山下中将の三男が飯島海軍大尉にナイフで喉を切られて殺害された
(ウツボ)山下大佐は、明治三十九年二月装甲巡洋艦「磐手」艦長、四月功三級。十一月第一艦隊参謀長。明治四十一年八月少将(四十五歳)、十月連合艦隊参謀長、十二月佐世保鎮守府参謀長。明治四十二年三月艦政本部第一部長、七月待命、十二月休職。明治四十三年三月軍令部第一班長、十二月海軍兵学校校長。(カモメ)山下少将が海軍兵学校校長時代に、高木惣吉(たかぎ・そうきち)少将(熊本・海兵四三・二十八番・海大二五首席・海軍大学校教官・海軍省臨時調査課長・大佐・海軍省調査課長・海軍大学校教官・海軍省調査課長・舞鶴鎮守府参謀長・少将・海軍省教育局長・海軍大学校研究部員として終戦研究・東久邇宮内閣内閣副書記官長・戦後軍事評論家として著書多数)は当時生徒でした。(ウツボ)高木少将はその著書「自伝的日本海軍始末記」(光人社)で、「山下校長は、両手をいつも体から三〇度位斜めに離しておごそかに歩く、君子の結晶したような武人であった」などと述べている。(カモメ)山下少将は、大正元年十二月中将(四十九歳)。大正三年三月軍令部次長。大正四年八月佐世保鎮守府司令長官十一月勲一等旭日大綬章。(ウツボ)山下中将は子供運がなかった。次男と四男は産後病死した。そして、山下中将が佐世保鎮守府司令長官時代、小学校三年生の、山下中将の三男が飯島海軍大尉にナイフで喉を切られて殺害された。(カモメ)飯島大尉は片目が義眼でした。山下中将が飯島大尉の肩を鉛筆でつついて呼んだら、飯島大尉がひょいと振り返り、鉛筆が目に刺さって失明したのです。それを恨んで山下中将の三男を殺したという説がありますね。(ウツボ)そうだね。ところが、山下大将の伝記では、飯島大尉の失明は、少尉候補生時代の喧嘩が原因となっている。その後、喧嘩相手の耳に硫酸を入れて復讐したことになっている。ともかく、飯島大尉は佐世保鎮守府で、防備隊分隊長となって一か月後に待命になっている。(カモメ)「近世戦将謀将傳」(松下芳男・今日の問題社)では、この事件を次の様に記しています。(ウツボ)読んでみよう。「飯島某なる大尉が、神経衰弱に罹って、相当重態であったのを、佐世保防備隊附にしたが、彼は隊内で度々暴れるのみならず、何等の理由もなく山下長官を恨み、小学校に行って山下の子息四郎の帰途を要し、一刺しに刺殺したのであった」(カモメ)「狂者に依る全くの災害、父としての山下の悲哀は如何ばかりであったか、想像するだけでも悲惨である。然も彼は神色自若として、公私の別を少しも乱さず、長官としての處置をとり、且つ裁判の公平を期するために、事件の審判を横須賀鎮守府軍法会議に移送したのであった」。(ウツボ)なお、山下中将の長男は二十五歳で病死している。これで、山下中将には男子がいなくなった。そこで山下中将は長女千鶴子に婿養子を迎えて男爵を継がせた。(カモメ)この人が山下知彦大佐(旧制永野・高知・海兵四〇・三十番・海大二四・造兵監督官として英国出張・軽巡洋艦「那珂」副長・艦政本部員・呉海軍工廠総務部員・大佐・給油艦「剣崎」艤装委員長・横須賀海軍工廠総務部長・予備役・内務大臣秘書官)でした。(ウツボ)山下知彦中佐(当時)は艦隊派の暴れ者だった。ロンドン海軍軍縮会議では全権・財部彪大将に不満を抱き、海兵同期の山口多聞中佐と共に財部全権刺殺を計画している。(カモメ)また、山下大佐は陸軍の皇道派に近い人物で、二・二六事件後、予備役に編入されました。その後、第一次近衛内閣で艦隊派の末次信正(海兵二七・海大七首席・大将)内務大臣の秘書官になっています。(ウツボ)ちなみに、この山下知彦大佐の従妹、三橋礼子が山本五十六元帥の夫人だ。山本五十六は、山下大佐の予備役編入を阻止しようとしたが駄目だったという。(カモメ)山下中将は、大正六年十二月第一艦隊司令長官。大正七年七月大将(五十五歳)、九月連合艦隊司令長官。大正八年六月連合艦隊司令長官再任。大正九年十二月海軍軍令部長。(ウツボ)山下大将は、大正十年八月正三位。大正十二年三月議定官。大正十四年四月軍事参議官。昭和三年七月後備役、九月正二位、十一月男爵。昭和六年二月十八日死去。享年六十七歳。(カモメ)山下大将の軍歴は、まさに武将の道でしたね。軍政的な舞台にはほとんど立たなかったのですが、その経歴と、軍功の大きさ、人格、徳望、識見は誰もが認めるものでしたね。(ウツボ)そうなんだ。これにより、元帥奏薦(そうせん=天皇に推薦すること)も考えられたが、当時陸海軍とも元帥奏薦はやらない方針だったので、その議に上がらなかった。代わりに男爵が授けられたともいわれている。【財部彪(たからべ・たけし)大将】(カモメ)財部彪は、慶応三年四月七日(一八六七年五月十日)生まれ。宮崎県都城市出身。宮崎士族・財部実秋の次男。(ウツボ)財部彪の父、財部実秋は、薩摩藩士で、文久二年島津久光に従い江戸に行き、帰藩後、尊王攘夷派となる。鳥羽伏見の戦いでは旗手として戦い、東北各地を転戦した。明治維新後は新政府のもとで、神職(神主)や戸長(町村役場の行政事務の責任者)などを勤めた。和歌を八田知紀に学び、歌集「梅廼舎集」「稲の垂穂」などがある。梅廼舎は「うめのや」と読む。(カモメ)財部彪の母、トミは、宮崎士族・肥田休右衛門の次女。財部彪の妻、いねは、山本権兵衛の長女。山本権兵衛は、海軍大将で、海軍大臣、総理大臣、外務大臣などを歴任した。伯爵、従一位、大勲位、功一級。(ウツボ)財部彪の長男、武雄は慶応大学高等部卒、三菱本社勤務。次男、実は、慶応大学高等部卒、三井物産勤務。三男、真幸は、慶応大学政治科卒、日本海洋漁業勤務。四男、四郎は、慶応大学法律科卒、飯野海運勤務。五男、五郎は、早稲田大学卒、昭和通商勤務。六男、辰彦は、慶応大学政治科卒、東山農事勤務。