79.シンガポール陥落(9) 師団司令部は、想像もつかないような恐慌に襲われた
(ウツボ)この「シンガポール総攻撃」(光人社NF文庫)の本によると、マレー作戦終了後第二十五軍の山下軍司令官から隷下師団に感状が授与された。だが、五師団と十八師団には授与されたが、近衛師団には授与されなかった。(カモメ)その理由の一つとして考えられるのが、近衛師団がマレー作戦の最終段階、昭和17年2月10日夜、シンガポール島攻撃のためジョホール水道渡河作戦を実施していた時発生した事件ですね。(ウツボ)師団司令部は、想像もつかないような恐慌に襲われた。さらに完全に指揮能力を失ってしまったと記されている。(カモメ)師団の先頭大隊が舟艇により渡河しシンガポール島に上陸しました。ところが輸送の舟艇部隊を指揮していた独立工兵隊の某小隊長が「(イギリス軍の)砲撃猛烈にして渡河きわめて困難、上陸部隊の大部分が死傷した」と報告したのですね。(ウツボ)そうだね。そしてそれは、上陸点付近の怪火に悩まされて泳ぎかえった下士官からもたらされた「友軍全滅」という報告によって決定的なものになった。(カモメ)この二つの報告は師団長、参謀長以下の司令部職員を悲観のどん底に突き落としたということですね。(ウツボ)そうだね。その結果、西村師団長は参謀長をつれて第二十五軍司令部に出頭し、師団の先頭上陸部隊は全滅した旨を述べ、上陸点を変更すべきであるという意見を提出した。(カモメ)ところが、2月11日の朝になって、前線の状況は順調であり、上陸した戦闘部隊の損害は第二大隊副官杉浦中尉以下数名だった事が判明したのです。(ウツボ)そもそも軍司令官山下奉文中将と近衛師団長西村琢磨中将との間柄はうまくいっていなかった。(カモメ)昭和11年2月26日に勃発した2.26事件当時、陸軍省調査部長・山下少将は反乱軍の青年将校に同情的でした。その時、陸軍省兵務課長の職にあったのは西村大佐でした。(ウツボ)西村兵務課長は軍紀を取り締まり、憲兵を指導していたが、憲兵を使い、山下少将の身辺を監視させていたんだね。(カモメ)そうですね。この時以来、山下中将と、西村中将のしこりは残っていたと言われています。(ウツボ)マレー作戦開始とともに第二十五軍に所属する西村中将率いる近衛師団は、まず、タイ国に進駐し、約四週間、バンコックに滞在している。(カモメ)昭和16年12月中旬、ビルマ作戦を行う第十五軍司令部がバンコックに進出してきました。第十五軍司令官・飯田祥二郎中将と西村中将は親交のある間柄でした。(ウツボ)この時、なんと、西村中将は山下中将の第二十五軍の隷下に入る事をやめて、第十五軍隷下に転属させてもらうよう飯田中将に意見具申したというんだね。その話が近衛師団参謀長・今井亀次郎大佐の口から漏れたんだ。(カモメ)当時「シンガポール総攻撃」(光人社NF文庫)の著者の岩畔近衛歩兵第五連隊長ら師団幹部は、ビルマ作戦より、マレー作戦に参加するほうを希望していたので、この話を聞いたとき、反感を持ったと記されています。(ウツボ)さらに、二十五軍参謀と、近衛師団参謀長・今井大佐との関係も極めて嫌悪な状況にあったんだね。今井大佐は積極有為の人物だったが、極端な負けず嫌いで自身が強く、激情家だった。(カモメ)一方、二十五軍参謀も、より抜きの秀才揃いで、辻政信中佐、朝枝少佐、林少佐など部内に名の聞こえた荒武者が集まっていた。(ウツボ)このような優れた軍参謀たちに対しても、今井大佐の態度はまるで子供扱いであったと述べられている。「経験の浅い若造に何が分かるか」それが今井大佐の本音であったと。