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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2010.06.25
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カテゴリ:宮城事件
(ウツボ)事件の中心人物、畑中健二少佐は当時三十三歳だった。京都府船井郡高原村の旧家、畑中悦二郎の次男として生まれた。京都府立園部中学校四年終了で陸軍予科士官学校に入校した。

(カモメ)「自決」(飯尾憲士・光人社NF文庫)によると、畑中健二は中学生の頃、陸軍士官学校を志望していなかったのですね。目標は京都の三高でした。

(ウツボ)そうだね。試しに中学四年生の時、陸士を受験したら、合格の通知が来た。そのとき、畑中健二は嬉しそうでもなく、「陸士にはいかない、三高を受験する」と言っていたんだ。

(カモメ)ところが、地元の新聞が「四修で陸士合格」と大きく報道したのですね。また、町では祝賀の行事もおこなわれ、ちょっとした騒ぎになったのです。

(ウツボ)また、中学の先生や父親も陸士に入校することをすすめたので、それまで渋っていた畑中健二は、やっと陸士にいく決心をした。

(カモメ)畑中健二の兄、畑中小一郎氏は「健二はやさしい性格の弟でしたので、軍人向きではないと私は思っていました。三高に進んで文学をやりたかったようでした」と話しています。

(ウツボ)そうだね。もともと畑中健二は、飛びぬけた秀才だったが、文学に憧れ、文学志望だった。

(カモメ)けれど、陸軍に入っても優秀で、例えば士官学校は、井田中佐は陸士四五期、畑中少佐は陸士四六期で、畑中少佐の方が一期後輩ですが、陸大は、井田中佐は五五期恩賜、畑中少佐は五三期で、恩賜ではないが、畑中少佐のほうが二期も早く卒業している。

(ウツボ)そうだね。「東部軍終戦史」には、畑中少佐について「平常温厚の士であり、言語態度極めてものやわらかであった。しかし、内蔵するところ鉄石をも熔かす強烈なものがあった。畑中少佐と親交のあった者は、最後の場で彼から離れることは出来まい」と特異な文章で記してある。事件での経過を見ればその通りだ。

(カモメ)「自決」の著者、飯尾憲士氏が、兄の畑中小一郎氏を訪ねたとき、健二の写真を見せてもらいました。野砲第一連隊付きだった中尉時代の写真、大尉の時の結婚写真、参謀懸章を吊った少佐時代のもの。いずれの写真も、どちらかというと、温厚というよりは、おとなしすぎる顔立ちでした。

(ウツボ)そうだね。小一郎氏は、弟、畑中少佐の自決について次の様に述べている。

(カモメ)読んでみます。「弟が自決したという報せが届きましたとき、やはり死んだか、と思いました。いえ、自決の理由を知ったのは、一年ほどたってからです。弟は、常々、戦死された将兵の遺族の方々に申し訳ないと、口癖のように申しておりましたので、終戦のラジオ放送を聴きました時、弟は生きていないだろうと、直感的に思いました」

(ウツボ)続けて読みます。「私は京都府の土木部に当時勤めていましたが、軍人でない私でさえも、一切の望みを断ち切られた思いで、死ぬよりほかは無いと考えたくらいでした」

(カモメ)畑中少佐の自決について、「日本のいちばん長い日」(大宅壮一編・角川文庫)には、「畑中少佐は森師団長を射ぬいたのと同じ拳銃で額の真中をぶちぬき、椎崎中佐は軍刀を腹部に突きさし、さらに拳銃で頭を射って倒れていた」とあります。

(ウツボ)だが、小一郎氏は、つてを得て弟、畑中少佐の死体検案書を見た。すると畑中少佐の腹部にも切創があった。やはり軍刀を使用していた。その死体検案書は次の通り。

(カモメ)読んでみます。「一氏名・畑中健二、 二男女ノ別・男、 三出生年月日・明治四十五年三月二十八日、 四職業・軍人、 五死別・変死(自決)、 六病名・右下腹部切創兼頭部貫通銃創、 七死亡年月日・昭和二十年八月十五日午前十一時二十分頃、 八死亡ノ場所・東京都麹町区丸ノ内宮城前広場芝生上、 右検案候也 昭和二十年八月十五日 陸軍大臣官房附陸軍軍医少佐 指田隆之助」

(ウツボ)畑中少佐は昭和二十年のはじめ、夫人と二女を鳥取に疎開させていた。その後、畑中少佐の家は戦災に遭ったので、畑中少佐は陸軍省の地下室で起居していた。

(カモメ)「雄誥(をたけび)~大東亜戦争の精神と宮城事件」(西内雅・岩田正孝・日本工業新聞社)によると、終戦直前の、昭和二十年六月に、米国で世論調査が行われましたね。

(ウツボ)米国のギャラップ社が米国民に行った「天皇の処遇についてどうするか」という世論調査の、その結果は次の通りだった。

(カモメ)「死刑にせよ」三六パーセント、「流刑にせよ」二四パーセント、「戦争犯罪人として扱え」一七パーセント、「何もするな」四パーセント、「利用すべきである」三パーセント、「その他」四パーセント、「わからない」一二パーセント。

(ウツボ)この結果から、天皇の立場は危ういものだった。だが、当時のグルー国務次官など知日派の活躍により、米国の世論は覆されたのだが。

(カモメ)昭和二十年七月、陸軍省軍事課課員兼大本営参謀・畑中健二少佐は、善通寺の第五十五軍司令部を訪れましたね。

(ウツボ)そうだね。軍司令部では、軍司令官以下の全将校に対して、畑中少佐は講演を行った。そのとき、「本土決戦」について、次の様に述べている(要旨)。

(カモメ)読んでみます。「天の時、人の和を得ているので、本土決戦で米軍に壊滅的な打撃を与え、爾後アメリカは戦意を喪失して和平を乞うか、若し再度日本への本土決戦を計画する場合には少なくとも爾後一ヵ年の作戦準備がかかる。なお、若し万一、来寇軍が一部本土に上陸しても、戦争の勝敗は意志の問題に懸かっているので、聖戦を確信している日本軍、日本国民は決して戦意を喪失することはないだろう」

(ウツボ)畑中少佐の戦争観は聖戦と、戦争は意思の争奪戦であるという点だ。聖戦とは、戦争の大義名分が正しく、且つ天皇陛下が観率し給う神軍であるという信念に基づくものであり、日本国民の戦争意思の強固なのは、ここに淵源するという思想だった。

(カモメ)この戦争観が畑中少佐の人間としての本質を現していますね。

(ウツボ)そうだね。本質、つまり思想でもあるよね。この強固な思想で、畑中少佐は二十四時間を全力疾走した。彼にとっては、まさに国運を賭けた二十四時間マラソンだった。

(カモメ)ですが、ゴールには自分の生命の最期が待っていましたね。

(カモメ)そうだね。死のゴールだね。さて、ここらで、戦争の終わりの始まりの話に移ろう。「大日本帝国最後の四か月」(迫水久常・オリエント書房)によると、昭和二十年八月九日午後十一時五十分から、御前会議が皇居の地下防空壕で始まった。

(カモメ)天皇陛下の出席のもとで開かれた、ポツダム宣言受諾の可否についての最高戦争指導会議ですね。









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最終更新日  2015.08.09 22:39:00


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