テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:宮城事件
(カモメ)近衛師団参謀の質問に対して、武官達は誰も返事をしなかった。それで二人の参謀はさらに追及したのです。「それとも、もう終わったのですか?」。
(ウツボ)「いや」と清家武官が答えた。「武官長もわれわれも、録音があるとだけは聞いておるが、詳細については全然知らされていない」と嘘をついたわけではないが、そのように答えた。 (カモメ)「しかし」と古賀参謀が食い下がろうとするのを、石原参謀が止めました。「もうよせ、本当にご承知ないのであろう」。軍人らしい、いかにも忠実な敬礼をして二人は立ち去ったのです。 (ウツボ)八月十四日午後九時過ぎ、近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉(陸士五四)に引率された第九中隊の一隊が宮内省内に立ち入り捜索した。 (カモメ)当時、近衛の名は伏せられて、近衛第二連隊は「東部第三部隊」という戦時呼称に改められていました。さらに首都防衛、湾岸防備のため、近衛連隊が次々に新設されて、十個連隊になっていました。 (ウツボ)だが、宮城といわれた皇居の警護に任じたのは、建軍以来、第一連隊と第二連隊のみだった。当時、皇居警護のために、二個連隊から二日おきに交代で皇居に詰めた守衛隊の兵力は約二百人だった。 (カモメ)残りの兵力は、すべて皇居に隣接した北の丸の兵舎で待機と休養のほか、兵器、被服の管理補修、師団や連隊の事務補助として勤務していました。 (ウツボ)守衛隊は、通常、天皇の側近にあって身辺を守り、衛兵として皇居内の重要箇所に立哨して異常事態や不審者に備えて警戒した。また、両陛下や国賓の前で閲兵儀仗の役目も負っていた。 (カモメ)「さらば昭和の近衛兵」(絵内正久・光人社)によると、クーデターを計画した参謀達は、天皇の放送の後ではクーデターの時期を失って兵力を集めがたく、国民の動揺などで成功の見込みが薄いと思ったのですね。 (ウツボ)そうだね。そこでクーデター決行前に天皇の「玉音盤」を抑えるか、機材を壊して、放送不能に追い込んだ上で決行するのが上策と、宮内省の捜索を行った訳だ。 (カモメ)佐藤大尉に引率された第九中隊の兵士達が宮内省の二階の一室に入ったところ、放送関係の機材がいろいろ置かれた中に、風呂敷でおおわれた四角な機械が机の上に置いてあったのです。 (ウツボ)兵士がそこにいた放送協会の職員にたずねると、「天皇のお声をこれから録音するための機械だ」と答えた。佐藤大尉が兵隊に命じて、その機械を破壊させようとした。 (カモメ)すると、その職員は「お願いだ。この機械を壊さんでくれ。どうあっても壊すなら、先に私を殺してほしい。そうせんことには私の立場がないのだ」と言ったのです。 (ウツボ)命を捨てて責を全うしようとする真剣な姿に打たれた佐藤大尉は、黙って兵を引き上げた。 (カモメ)だが、佐藤大尉は皇居の出口全てを近衛兵で固めているので、絶対に玉音盤を皇居の外に持ち出せないので、放送される心配はないという判断をしていたのですね。 (ウツボ)もし、そのとき、その機械を破壊していたら、その後の日本はどうなっていたのか。玉音放送ができなくなって、クーデターは成功したかもしれない。 (カモメ)そうなれば、戦争は続行されたかもしれないですね。そして、日本本土が戦場となったでしょうね。その前に原爆がもう一つ落とされる。 (ウツボ)一概にその成り行きにはならないだろうが、その可能性はあった。ここらで陸軍省の状況を見てみよう。八月十四日午後九時過ぎ、陸軍省にいた軍事課長・荒尾興功大佐(陸士三五・陸大四二恩賜)は、当番兵から、阿南陸相が呼んでいるという知らせを受けた。 (カモメ)荒尾大佐は軍刀を吊ると自分の部屋を出ました。陸軍省は人気が無く、ひっそりとしていました。門にも、本館入り口にも衛兵や警備兵の姿が見られなかったのです。 (ウツボ)集団脱走という恥ずべき事実が、軍紀の総本山である陸軍省で起こった。脱走した警備兵達は、明朝にでもなれば、東京湾外に待機している連合軍が上陸して、戦闘が開始されるだろうという噂を信じて、それにおびえ、終戦の詔書が下ってからの犬死は真っ平であると逃亡したのだ。 (カモメ)荒尾大佐は陸相官邸に車を走らせましたが、阿南陸相は、陸軍省に戻っていました。それで荒尾大佐も陸軍省に引き返したのです。 (ウツボ)荒尾大佐を見ると、阿南陸相は「荒尾、若い立派な軍人をなんとか生き残るようにしてもらいたい。警察官とかに転身できるように便宜をとってもらうことだ」と言った。 (カモメ)荒尾大佐が「承知しました」と答え、「・・・それで・・・我々はこのあと、どうしたらいいでしょうか」と尋ねると、阿南陸相は、別のことを次の様に言ったのです。 (ウツボ)読んでみよう。「軍がなくなっても日本の国は大丈夫だ。亡びるものか。勤勉な国民なのだよ。必ず復興する。こんどは君達がそのお役に立たなくてはいかんな」。 (カモメ)二人は部屋を出て、階段のところまで無言で歩きました。荒尾課長が階段のところで、別れようとすると、阿南陸相は「そうそう、君にもこれを」と言って葉巻を二本差し出したのです。荒尾軍事課長が受け取ると、阿南陸相はニッコリ笑って、「また、あとで・・・」と言いました。 (ウツボ)荒尾軍事課長はその後、陸軍省において、未曾有の終戦処理を完遂し、混乱を未然に防止した。戦後は第一復員省総務課長、復員局総務部長、などを歴任したが、昭和二十三年七月戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘留された。昭和二十四年三月に不起訴釈放された。 (カモメ)その後、昭和二十五年八月から二十七年五月まで陸海軍連絡委員会連絡部長を勤め、戦後の軍人達の世話をしました。昭和四十九年八月二十二日に死去。七十二歳でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.09 22:33:29
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