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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2015.11.27
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カテゴリ:陸軍大将異聞
(カモメ)黒木為もと大将は、明治三十七年二月第一軍司令官、三月日露戦争出征。日露戦争開戦前、黒木大将は同郷の山本権兵衛海軍大臣を訪ねたのですね。

(ウツボ)そうだね。会談後、黒木大将が退室しようとすると、山本大臣が「黒木、しっかりやってくれ」と声をかけた。すると、黒木大将は「どうにかなろうぜ」とだけ言って立ち去ったという。

(カモメ)強敵を前に戦うとき、「心配するな、敵を存分にやっつけてやる!」と気負って言うよりも、ちょっと出かけるように、「どうにかなるだろう」と言った黒木大将の冷静な態度であったからこそ、勝利したのですね。

(ウツボ)そうだね。事実、日露戦争では、第一軍を率いて、鴨緑江から奉天会戦まで連勝し、日本軍を勝利に導き、」ロシア軍からは「クロンスキー」と恐れられた。

(カモメ)日露戦争では長年の経験と勘を活かした優れた采配を見せ、快進撃を行ないました。だが、総司令部の意志に反した猪突猛進ぶりで奉天会戦では満州総司令部より再三「進撃中止」命令が出されたのです。

(ウツボ)戦後、日露戦争の他の軍司令官は大半が元帥になったが、黒木だけは大将で軍歴を終えている。

(カモメ)黒木大将は、元帥府に列せられる二度目の選考にも漏れたことの報告を受けた時、ただ一言「そうか」と言ったきりだったと言われています。

(ウツボ)黒木大将ほどの戦功もない大将が次々に元帥になっていったが、明らかに不公平な人事だった。当然元帥に任命されるはずだったが、黒木大将本人がお飾りだけの名誉職としての元帥を嫌ったということもあるが、その強直で荒々しい性格が軍中央で好まれなかったとも言われている。

(カモメ)だが、黒木大将は荒々しい性格の反面、高潔な精神を有する軍人でもあったのです。日露戦争でのロシア満州軍総司令官・クロパキトン大将は日本軍に奉天会戦で敗れ、敗北しました。

(ウツボ)奉天会戦の前、明治三十七年五月一日に鴨緑江会戦があり、五月六日鳳凰城が日本軍により占領された。

(カモメ)その鳳凰城には、クロパキトン大将への贈答品である、素晴らしい花瓶が置き忘れられていたのです。黒木大将は、この花瓶を、クロパキトン大将の司令部へ書面と共に送り届けさせました。

(ウツボ)その書面には「願わくは友情の花、この花瓶の中に咲いて爛漫たらんことを」という一文が書き送られていた。

(カモメ)数日後、この花瓶を受け取ったクロパキトン大将から、黒木大将あてに礼状が届きました。そこには次のように書かれていたのです。

(ウツボ)読んでみよう。「日本人は平時、余が漫遊せし時も、友誼の至らぬことなきを示せしが、今、戦時となるも、敵として頗る美しき精神を有せる者なることを示す。余は、かかる敵と戦い、たとえ敗北しても、決して恥辱に非ずと信ず」。

(カモメ)明治四十年四月から六月まで、黒木為もと大将は軍事参議官としてアメリカに出張、九月軍功により伯爵。日露戦争で、鴨緑江会戦でロシア軍を破った黒木大将の人気は、海外では乃木希典大将以上だったのですね。

(ウツボ)そうだね。アメリカに出張した黒木大将が、タフト陸軍大臣主催の大宴会に出席した時も、諸外国の皇族、公使がキラ星の如く参列している中、「日本の英雄、即ち鴨緑江の英雄をここに迎えることは未だかつてない。将軍を迎え、我々は大いに歓迎する」とタフト陸軍大臣は挨拶し、黒木大将は主賓扱いだった。

(カモメ)黒木為もと大将は明治四十二年三月後備役。大正三年四月退役。大正六年から大正十二年二月まで枢密院顧問。大正十二年二月三日午後十時、肺炎のため東京市青山の自宅で死去。享年八十歳。功一級、伯爵。

【山口素臣(やまぐち・もとおみ)大将】

(ウツボ)山口素臣は弘化三年五月十五日(一八四六年六月八日)生まれ。山口県萩市出身。長州藩士・山本芳の息子として生まれるが、後に長州藩士・山口義惟の養子となる。

(カモメ)奇兵隊に入り戊辰戦争に出征。明治維新後の明治三年九月大阪陸軍教導団に入り、明治四年四月陸軍軍曹、八月少尉、九月中尉、十月大尉(二十五歳)と一年間に三階級も昇進するというスピード出世をしたのです。

(ウツボ)明治六年十月少佐(二十七歳)。明治七年一月近衛歩兵第一連隊第一大隊長、佐賀の乱に参戦。明治十年西南戦争に出征。明治十年十一月歩兵第九連隊長。明治十一年十一月中佐(三十二歳)。明治十三年四月歩兵第七連隊長。

(カモメ)明治十五年二月大佐(三十六歳)、三月熊本鎮台参謀長。明治十八年五月東京鎮台参謀長。明治十九年五月近衛参謀長。明治二十年九月から明治二十一年六月まで欧米視察。








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最終更新日  2015.11.27 17:24:48


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