420.海軍駐在武官(20)対米戦争論が高まっていたが、山口大佐は非戦論者だった
(カモメ)二年間の駐在武官勤務で山口大佐は、スパイを使って、日本侵攻の大演習の基本計画書を手に入れるなど、情報収集に積極的に動いたが、山口大佐が最も関心を抱いたのは、日米の国力の比較だったのですね。(ウツボ)そうだね。当時、石油の年間生産量は日本が二〇万キロリットル、米国が三一〇〇万キロリットルだった。日本の石油消費量は年間四〇〇万キロリットルで、その九〇パーセントを輸入に依存し、なんと米国から約七〇パーセントを輸入していた。(カモメ)また、日本の石油備蓄量は九四〇万キロリットルで、連合艦隊の二年分しかなく、アメリカが輸出禁止をすれば、日本はたちまちエネルギー危機に陥るのが実情だったのです。(ウツボ)石炭は、日本が五七〇〇万トン、米国は四億八〇〇〇万トン。鉄鋼の日本の年間生産量は五〇〇万トン、米国は六五〇〇万トンもあり、まるで話にならなかった。(カモメ)山口大佐は日米の国力の差をいやというほど感じました。日夜、駐在武官たちと討論をおこなったのですが、誰一人、積極的開戦論者はいなかったといわれています。(ウツボ)日本の軍部には対米戦争論が高まっていたが、山口大佐は非戦論者だった。だが、国家が開戦に踏み切れば、軍人として拒否することはできない。(カモメ)この強大なアメリカに勝つ方法はあるのか、そこに人には言えぬ山口大佐の葛藤があったのです。もう一つの心配は日本海軍のドイツ接近でした。(ウツボ)これまで日本海軍はイギリス海軍から多くの技術導入をはかってきたが、国際連盟を脱退したために造艦技術のパイプを失った。(カモメ)それを補う道がドイツとの提携でした。Uボートなどから、ディーゼル・エンジンの技術、電動機とバッテリー、潜望鏡などについて新技術を導入しました。(ウツボ)だが、山口大佐は、ドイツの指導者に危惧の念を抱いていた。「ヒットラーは気が狂っている。あんな手合いと手を組んでは困ることになる」と部下たちに漏らしていた。(カモメ)昭和十年十月、イギリスから駐在武官を終えて帰国途中の岡新(おか・あらた)大佐(東京都港区・海兵四〇首席・海大二二首席・在英国大使館附海軍武官・大佐・軽巡「木曾」艦長・内閣調査官・第四艦隊参謀長・少将・海軍省総力研究所所長心得・上海在勤駐在武官・中将・第三南遣艦隊司令長官・勲一等瑞宝章・大阪警備府長官)がワシントンへ立ち寄りました。(ウツボ)岡大佐と山口大佐は海軍兵学校同期だった。海軍兵学校の卒業成績は岡大佐が首席、山口大佐が次席だった。海軍大学校は岡大佐が二二期首席、山口大佐が二四期首席だった。(カモメ)十月十日早朝、山口大佐と岡大佐は、慌しく自動車に乗り込みました。山口大佐は最初の米国滞在時に自動車の運転を習い運転ができたのです。(ウツボ)今回は、日本大使館お抱えの運転手が運転したかもしれないが、山口大佐自らハンドルを握ったのではないかとも言われている。(カモメ)二人はドライブを楽しみながら北上しました。整備された広い直線道路を突っ走り、その日の夕方、カナダ国境のナイアガラにたどり着いたのです。自動車の平均時速は一〇〇キロをゆうに越えていました。二人は橋を渡ってカナダ側にある展望台から大瀑布の雄大な光景に目を見張ったのです。(ウツボ)山口大佐は改めて、アメリカの広さ、急速に発展しているモータリゼーション社会を実感した。その基礎整備、工業力、高速交通網、どれ一つとっても日本がかなうものはなかった。(カモメ)ウォール街で始まった大恐慌も、ルーズベルト大統領が導入したニュー・ディール政策で持ち直していたのですね。(ウツボ)そうだね。ともかく、山口大佐はこのときばかり、青春時代を共に過ごしたクラスメート、岡大佐と一緒にカナダや東海岸北部の港湾都市を巡った。二年間の駐米生活で最も楽しい旅だった。(カモメ)昭和十一年八月十八日、山口多聞大佐は帰朝命令を受けました。十二月一日、山口大佐は軽巡洋艦「五十鈴」艦長に就いた。四十四歳でした。(ウツボ)このように海軍の駐在武官を列挙してみると、後日、日本にとって、重要な役割を果たした人が多いいね。(カモメ)優秀な人材を、海外に出して、勉強させ、また経験を積ませたのでしょうね。それは海軍の方針でしたね。(ウツボ)だから、海軍は、世界的視野にたって、判断できる人が多かった。彼らは、駐在武官として、欧米の合理的精神を身に着けていた。(今回で「海軍駐在武官」は終わりです。次回からは「陸大首席列伝」が始まります)