160、陸軍大学校の光と陰(10) 陸大を出たエリートでも、軍に不満を抱き自ら人生を狂わした人もいる
(ウツボ)ある日、検閲射撃訓練の休憩の時、大蔵見習士官は部下の小隊に休憩を命じ、自分は砂浜の上にあぐらをかいて休んだ。すると後方の大家連隊長が「見習い士官、めがねッ」と叫んだ。(カモメ)大蔵はその意味が分からなかったのですね。すると再び「めがね」と大声が飛んできた。(ウツボ)大蔵は、「自分は眼鏡をかけているが、その眼鏡がどうかしたのかな」などと思った。(カモメ)やがて、双眼鏡をサックから出して首にかけろということだと思い、大蔵がサックから取り出そうとしたとき、再び「めがね」という狂気じみた怒声とともに大家連隊長の鞭が大蔵の右肩にピシッと振り下ろされたのですね。(ウツボ)そう。カッときた大蔵は双眼鏡を出すのをやめ、天の一角をにらんで反抗の姿勢をとった。後の講評のとき、大蔵は大家連隊長から長時間に渡り悪罵を受けた。(カモメ)その後もことごとく大家連隊長は大蔵に眼を付け、大蔵も反抗し衝突を繰り返しました。(ウツボ)後に大蔵元大尉は「この連隊長の無慈悲な態度に陸軍に抱いていた夢がいっぺんに吹き飛んだ。俺が青年将校運動に入ったのは、あの連隊長という、とんでもない人間がいたからだ。陸大出の連隊長に代表される軍上層部に、悉く楯突くことを決めた」と述べている。(カモメ)この大家連隊長の陸大同期、二三期の首席は梅津美治郎大将(陸士一五)、次席は永田鉄山少将(陸士一六)、優等に小畑敏四郎中将(陸士一六)がいますね。(ウツボ)大蔵が後にこの大家連隊長から受けた仕打ちを、陸大出の上官に話したら、その上官は「ああ、大家か、あいつなら」と言ったそうだ。陸大出の中でも大家大佐は札付きではあったのだ。(カモメ)大家連隊長はその後、第十九師団参謀長に転任し、少将進級と同時に、予備役となりました。(ウツボ)「人物陸大物語」(光人社)には、陸軍大学校を四十五人中、最下位の四十五番で卒業した川喜多大治郎(陸士七・.陸大一七)の話が載っている。(カモメ)川喜多は明治九年に三重県で生まれました。子供の頃は神童といわれるほど勉強ができた。中央幼年学校も優等で卒業しました。(ウツボ)陸軍士官学校を卒業し、やがて陸軍大学校に入学した。だが陸大での成績は振るわず、ビリに近かった。(カモメ)陸大では二年から三年に進級するときに、成績の悪いものは、容赦なく退校にします。ところが川喜多は退校にならなかったのですね。彼がぎりぎりのところでも進級できたのは中国語のせいだった。(ウツボ)そうだね。川喜多は幼年学校の頃から中国語に特異の才能があり、さしたる勉強をしなくても、ことごとく青点(満点)だった。だから退校させなかったと言われている。(カモメ)川喜多大尉は陸大を卒業すると日露戦争に野砲連隊の中隊長で出征しました。日露戦争で彼は功五級の金鵄勲章をもらう働きをしました。(ウツボ)日露戦争が終わり、川喜多大尉は次の配置に胸をときめかせた。だが、ふたを開けてみると、「補広島要塞参謀」だった。(カモメ)陸大の成績から見て、やむを得ないところだが、彼はそうは思わなかったのです。「確かに俺より成績のいい奴は多い。だが、成績と才能は別のものだ」と。「それに気づかない人事はどうなっているのだ」と。(ウツボ)ところが五十日後に新しい任務が発令された。それは「清国直隷省保定・軍官学堂教官」というものだった。中国語を生かすしごとなので、彼にとっては適任と思えたが、彼は不服で、蒼白な顔で赴任して行った。(カモメ)後日、陸軍省に中国側から意外な情報がもたらされたのです。新米の教官の言動にただならぬものがあるというものでした。結局三ヶ月の教官勤務で帰国命令が出されました。(ウツボ)だが、川喜多大尉は帰国せず、行方不明になった。三ヵ月後、北京駐屯の憲兵隊から報告が陸軍省に来た。「ある日本軍人が清国政府とロシア公館の両方に、軍の機密文書を売り込もうとしている」というものだった。(カモメ)そうですね。それが川喜多大尉だったのです。急遽、明治四十一年八月一日付で、免官と位階勲等功級剥奪の処置がとられました。川喜多は陸軍砲兵大尉ではなくなったのです。(ウツボ)八月四日、潜伏先を突き止めた憲兵隊により、同行を求められると、川喜多は軍刀を抜いて抵抗した。それで憲兵隊は銃を発射し、射殺した。三十三歳だった。(カモメ)陸大を出たエリートでも、軍に不満を抱き自ら人生を狂わした人もいるのですね。他にも、多数、天保銭の意外な人生がこの本には多数紹介されています。(ウツボ)それは今の時代でも、同じだね。高級官僚の自殺、東大出の詐欺など、現代の「天保銭」も、踏み外した人は例を挙げれば、切りがない。(カモメ)陸軍大学校について、「総括的に言えば、その硬直化していた教育が日本の運命を決め、敗戦に繋がったとも言える」と述べられています。(ウツボ)事実、陸軍大学校に秀才を集めて育てた日本帝国陸軍は、偉大な平凡さを売り物とするアメリカ軍に敗れた訳だからね。(カモメ)戦術はともかく、物量を含めた戦略に勝つことができなかったのですね。当時の日本帝国陸軍の天下の秀才たちは。 (ウツボ)そういう結論になるようですね。(「陸軍大学校の光と陰」は今回で終わりです。次回からは「潜水空母・伊401」が始まります)