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2006.03.07
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カテゴリ:宮城


最近の日記(仙台藩の行政上の特異性(06年3月5日))で、血縁や家臣を一門、一家、一族に分けた伊達独特の家格制度...と書いたのですが、自分でその具体的な内容がわからなかったので、各種資料で基礎知識を少し勉強しました。

○ 一般に各大名は家臣団を統率するために、何らかの「家格」制度を持っていた。仙台藩は旧大名級の家臣を数多く抱えるため、独特の新家格制を設けている。大別して門閥、平士、組士、卒の四等級に区分。

○ 門閥は伊達氏との親戚関係や由緒、功労によって格付けされ、8階級に分かれる。一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出である。一家や一族の制は中世大名にも一般的にみられるが、江戸時代になってからも維持できた大名は他にないという。

○ 一門(11家)
 伊達家臣団の最上級家格。直接藩政には関与しないものが多い。以下序列の順に。各一門の紹介を付して。
(1)石川氏(一門筆頭)  石川郡所領を奥州仕置で秀吉に没収され、後に政宗から志田郡松山領を拝す。石川昭光は政宗の叔父にあたることから一門筆頭に待遇。慶長年間に角田に移り角田要害主として続いた。角田城は、二の丸三の丸を持ち、さながら大名城郭のようだったという。
(2)亘理伊達氏(一門二席。以下序列表示は省略。)
 人取橋はじめ多くの合戦で功をなした勇将伊達成実が祖。亘理氏、片倉氏に次いで慶長年間に亘理に入り本格的に町割りを行う。二万三千石は当時の家臣随一。戊辰戦争後に北海道開拓に転じた各家の中で、分裂もなく当主と家臣主従が一致して移住したのは亘理伊達氏だけで(北海道伊達市)、成実公以来の誇りを守る強い意識があったからという。
(3)水沢伊達氏(留守氏)
 奥羽留守職として多賀国府に任じた伊沢左近将監家景の後裔。京都の名門である。戦国時代に伊達家臣団となり水沢に移る。文禄年間に留守18代政景が伊達姓を授かる。留守政景は政宗の叔父。政景の子宗利が一関、金ヶ崎を経て水沢初代。知行一万石に減封されたことで逆に漁網など殖産や新田開発に励んだ。早くから寺子屋をおこすなど学問にも力を入れた。水沢三偉人は全国に著名。
(4)涌谷伊達氏(亘理氏)
 建久元年亘理郡を領し亘理氏を称し、応永年間に伊達氏に属し、天正年間に大崎氏勢力下だった涌谷に移封。遠田郡の中心部をつくるため野谷地に町を形成。新田開発と江合川の舟運で栄えた。久惣(久道惣五郎。御用商人)やその分家久保(久道魯因。のちの久保旅館)、桜井屋など、涌谷商人は明治期まで栄華を誇ったと言うが、今はさびしい限りです。合併して遠田市とすべきだったのに。
(5)登米伊達氏(白石氏)
 後三年の役に勲功あった刈田氏が刈田郡白石城に住し白石氏と称す。室町時代に伊達氏へ属し、安達郡塩松から水沢に移る。慶長年間に南部利直に対する和賀一揆に援軍を挙兵したが撤退、家康から関与を疑われた政宗の判断により登米に移された。のち政宗は詫びる意味もあって白石宗直に伊達姓を与えた。初代宗直は川村孫兵衛以前から北上川改修に着手。11代宗充が他領の流民を保護・登用するなど、徳の深い家柄。戊辰戦争に敗れた際には、8千石の領地を家臣に分与して、領主の領地没収を防ぎ、領民をまもったという。
(6)岩谷堂伊達氏(岩城氏)
 もと磐城地方の豪族で戦国時代に伊達氏と度々戦う。天正年間に家は断絶するが慶長年間に伊達姓を賜る。江刺郡岩谷堂に封ぜられる。
(7)宮床伊達氏(田手氏)
 伊達朝宗の六男が祖で、3代藩主綱宗の代に一門に列せられ、伊達姓を賜る。箱モノ建設と放漫財政で隠居を強要された4代綱村に代わり、宮床伊達氏の吉村が藩主となり(5代仙台藩主)、倹約と収入確保尽力。私生活は質素で、仙台藩中興の英主とされる。
(8)岩出山伊達氏
 政宗の四男宗泰が祖。京都冷泉家から輿入れがあったため、竹細工、凍み豆腐、酒まんじゅうなど京文化が残る。有備館は現存する国内最古の学問所で、京の礼儀作法が厳しく教えられたという。御譜代町の町名(立町、荒町、柳町など)は米沢、岩出山、仙台と政宗の移転した3つのまちに共通して引き継がれている。
(9)川崎伊達氏  三代藩主綱宗の次男村和が祖。享保年間五代藩主吉村の代に一門に列せられた。
(10)白河氏
 白河の豪族であったが秀吉に取り潰される。慶長年間政宗に召され客分となり四代藩主綱村の代に一門に列せられた。
(11)三沢氏(一門十一席)
 もと山陰の大名尼子氏の遺臣。3代藩主綱宗の夫人や綱村の生母が三沢氏だった関係で三沢信濃が綱宗に召し出され、延宝年間に一門に列せられた。

○ 一家(17家)
 伊達晴宗の頃から上席を占めた鮎貝氏をはじめ、秋保、柴田、小梁川、塩森、大条、泉田、村田、黒木、石母田、瀬上、中村、石川、中目、亘理、梁川、片倉の17氏。主に戦国時代から藩政初期に大功労のあった者。片倉氏は二代忠宗のとき一門に昇格したようだ。
○ 準一家(10家)
 猪苗代氏を筆頭に天童、松前、葦名、本宮、高泉、葛西、上遠野、保土原、福原の10氏がある。葦名氏、葛西氏は戦国大名の後裔である。
○ 一族(22家)
 大立目、大町、大塚(胆沢郡金ヶ崎)、大内、西大条、小原、西大立目、中島(江刺郡上口内)、宮内、中島(伊具郡金山)、茂庭、遠藤(胆沢郡下衣川)、佐藤、畠中、片平、下郡山、沼部、大町(宮城郡中野)、高城、大松沢、石母田、坂。伊達家譜代の家臣。
○ 宿老(3家)
 政宗の初期から側近として仕えたものが多く、一門、一家、一族の取り締まりにもあった。
○ 着座(38家)
 低い身分から政宗に登用され、先祖から家老(仙台藩では奉行とよんだ)を出した家。
○ 太刀上  毎年正月の賀礼に太刀を献上し、藩主から盃を頂戴できる家柄。
○ 召出  毎年正月の宴会に召し出される資格のある家柄。

○ 平士(大番士)は軍事の主力をなす騎馬軍団で、仙台城の警備や治安維持に当たり、また藩政を執行する諸役人に任ぜられる。
○ 組士は平士の下の下級武士で、身分としては組士以上が士分。
○ 卒は家臣団の中で最下層を占める最下級武士であるが、一般には士分とみなされず「凡下」と呼ばれた。小人・足軽・同心・諸職人がこれに属していた。幕末において仙台藩は約3万3千8百余人の家臣を抱えており、諸藩の中でも隋一。領内全域に濃厚な軍事的な性格を有していたが、末端の家臣は農民同様の生活を営んでいたものと思われる。

○ 地方(じかた)知行制
 仙台藩は、家臣に知行を土地で与えていた。一万石以上の大名級家臣が10人を超えており、仙台城下にそれぞれの屋敷を与えられるとともに、領内各地に配置されていた。
○ 仙台藩四十八館
 家臣の重要性によって、城・要害・所(ところ)・在所に四区分。
(1)城は白石城1ヶ所で一家の片倉氏が配置されていた。一国一城令の例外で仙台藩の扱いの高さを示す。
(2)要害は重臣を配置。中世以来の城館に小城下町を形成。知行主は知行百姓、町民に対する支配権を有していた。
(3)所(ところ)は、要害に次ぐ要地でおもに交通商業の場である町場。上級家臣を配置。
(4)在所は、要地である農村。やはり上級家臣を配置。

○ 仙台藩四十八館なる家臣団配置システムも仙台藩独特のものだが、藩境(角田、亘理、水沢)、商業や水運の要衝(登米、涌谷)などの重要な要害には伊達一門の一万石以上の大身を配置している。統治上のシステムである四十八館と、家格の序列とうまくバランスさせたのでしょう。

○ なお一関は地位が異質で、支藩の扱い。旧一関市の磐井川以東部分(以西は仙台藩)と旧花泉町、旧金成町などを領地とする。
 田村氏は政宗の正室愛姫の実家だが、断絶後に仙台藩2代忠宗三男宗良が田村姓を回復。以前は一関は留守政景、次いで伊達兵部(政宗の十男)が領し町の体裁を整えた。ところで、田村宗良、伊達兵部はいずれも亀千代(のちの4代仙台藩主綱村)の後見役を命じられた伊達騒動の当事者である。宗良は岩沼に、兵部は一関にそれぞれ三万石を分与された。騒動後、宗良の子の田村建顕が岩沼から一関に移封し、支藩たる田村一関藩が成立。文武両道に長け将軍綱吉の信任を得たが、財政支援を求めた本藩仙台藩に何かと気を遣ったという。反面独立心と向学心も強く、大槻氏(葛西の遺臣)や建部清庵など多くの学者を輩出。





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最終更新日  2024.02.13 21:21:06
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