カテゴリ:仙台
仙台駅は明治20年12月の東北線開通の際に現在地に開業した。日本鉄道会社は明治19年春に仙台駅を宮城野原の北、榴ヶ岡下に設置すると発表したが、松平知事が大反対し、東六番丁(現在地)を強硬に主張。「市街を通さなければ貨物輸送に不便。客は岩切や長町、増田に降りて泊まる。人口7万、1万2千戸の東北一の繁華街も寒村古駅となる」と。
会社側は駅舎変更に伴う工事費増額の半分に相当する3万円を、地元負担として要求。松平知事は仙台区議会に議決させ、第一銀行から借りて会社に支払った。 東京在住の旧仙台藩士の会「仙台議会」は宮城野原駅に賛同していたため、反対の活動。また、宮城野原駅論者の代言人(弁護士)草刈親明は区議会を相手取り、3万円寄附決議の取消の訴えを提起したという。これに会社が驚いて3万円を松平に返還。やむなく松平は第一銀行に利子を工面して返済したが、後に市民有志で寄附が集まり、結局現在地に建設された。第一銀行は利子分を県警察庁舎建設に寄附したという。 開業後も仙台駅が宮城野原が良いか現地が良いか、論議は続いたという。 ところでこれに先立ち明治15年、宮城県内最初の軌道(馬車鉄道)である「木道社」が蒲生から仙台まで(12キロ)に開通し、現在の仙台駅南側あたりから、平成に地下化される前の仙石線の線路沿い、宮城野原北辺、蒲生街道を経由して、野蒜からの海運を期待した蒲生までつないだ。 時は過ぎて大正14年、宮城電気鉄道の仙台-塩釜(現在の西塩釜)間が開業、後の仙石線である。起点仙台駅は鉄道省線仙台駅の地下に置かれ、平成の地下化までは仙石線地下改札所とされた場所である。当時の地下駅は日本では最初、ニューヨークの七十七番街の駅を模したという。電車も当時の最新鋭で速度を誇った。約130メートル通って地上に出ると、次の東七番丁駅(平成の地下化前の仙石線仙台駅ホーム)。 (以上の参考:逸見英夫『仙台はじめて物語』創童舎、1995年) 仙台駅を中心部に持ってくるのに反対が強かったのはなぜだろうか。今の感覚ではわからないが、鉄道の意義の無理解、蒸気に対する嫌悪感、それとも3万円の負担は過大か。あるいは松平知事への地元旧藩士の反対の気風でもあったのか。この辺あまり読み聞きしていないので、何かで調べてみたい。 たしかに東北本線は仙台駅に停車するために西に大きく弧を描いているが、現在ではこの選択を非難する人はいないだろう。仙台が一地方都市にとどまらずここまで成長した1つの理由とも言える。 東北新幹線の整備の際も、直線性を重視して貨物支線ルート上の宮城野貨物駅あたりに新仙台駅を設置する構想もあったはずです。ただ、仙台市街地東部の地域整備の核にという待望論はあったのかも知れないが、市民の大勢は在来線の駅と一致を望んだでしょう。もちろんその選択で良かった。 ■関連する過去の日記 ○宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.07.10 02:50:52
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