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2007.09.03
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カテゴリ:仙台
仙台藩の刑場は最初は城下の琵琶首(花壇)に置かれ、その片平丁寄りの根本東側に裁許所、後改めて評定所が設けられた。江戸、鹿児島と共に、日本三評定所である。次いで、この地が罪人を刑罰する場所ともなった。

その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移る。なお牢舎も米ヶ袋鍛冶屋前丁(東北大農学研究所の地)に置かれた。更に24,5年経った元禄2、3年頃に処刑場は七北田に移り、七北田刑場と呼ばれる。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上である。

当時、士分の処刑は牢舎前で斬罪または切腹を執行し、士分以下の凡下扶持人や百姓町人は七北田刑場、乞食非人は小泉で処刑されたようだ。士分でも重罪囚は凡下に身を落として七北田刑場で執行したという。

凡下でも親や主人を殺害した重罪人は芭蕉の辻で3日間晒した。更に重罪のものは竹鋸と称して、主人を箱に入れて通行人に箱から出ている首を挽かせた。

引廻しは、処刑日が決まると牢前に呼び出し、町同心が科書を読み聞かせ、非人が罪状を書いた紙旗と捨札とを持って七北田刑場に送るもの。行列順は、先頭に非人2人が六尺棒を持ち、2番目に非人1人が白衣で捨札を持ち、3番目の者が白衣帯刀で抜身朱鑓2本を持ち、4番目に馬乗の囚人。7番目に南北組与力検使正副2人が騎乗。

引廻しの順路は、片平丁、弾正横丁、北目町、染師町、猿牽丁、土樋、姉歯横丁、荒町、南鍛冶町、茶畑、連坊、六道の辻(ガード)、東四番丁、新伝馬町、大町、肴町、立町、本材木町、北材木町、国分町、二日町、北鍛冶町、通町、北八番丁、新坂通、北山町、堤町を経て、刑場に向かう。この町筋は寺院所在の町を主にし、侍丁や商人町を加えたもので、「寺廻り」と称し仙台藩特有のものだったという。

堤町から数丁行くと左側に「新助壇」という所があり、囚人は馬から下ろされて望む物を食わせる習慣があった。さらに奥州街道を下ると左側に青笹不動が祀られており、囚人に柄杓で末期の水を飲ませた。七北田刑場の2、3丁手前の「くらすみ橋」で家族のものと最後の対面を許されたという。

刑死者の葬儀と墓碑は旧藩時代には許可されなかったが、七北田刑場前に常念仏堂があって供養することは許されていた。5代藩主吉村夫人長松院の遺言によって延享2年(1745年)頃建てられたもので、七北田街道に沿い刑場を中心に南北に建てられた。南に河南堂、北に河北堂、共に単層三間四面の萱葺きの堂。

刑の執行の最も多かった日は天保11年10月29日で、獄門17人、打ち首2人。刑死者の塚碑を秘かに刑場付近に建てる者もあり、見逃されたようである。

出典 菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル
(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)





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最終更新日  2007.09.03 06:01:01
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