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2009.11.03
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カテゴリ:仙台
1 江戸期の教育をめぐる背景

江戸時代に武士が文武を兼備する教育を施すため、藩校が設立された。背景には、
(1)17世紀後半に泰平の世を迎え、武断政治から文治の政治に転換したこと、
(2)17世紀末ころから、商品貨幣経済が発展してさまざまな社会経済問題が発生し、幕府諸藩はこれが対処を迫られたこと、
(3)18世紀半ばから、幕藩体制が揺らぎ始め、体制立て直しのための人材が求められたこと、
が理由としてあげられる。

幕府では儒官林家の塾があったが、儒学を好んだ5代将軍綱吉が元禄3年(1690年)に移して湯島聖堂とし、諸藩士や浪人庶民を相手に公開講釈を行った。寛政改革で文教振興を図ろうとした老中松平定信が、寛政2年(1790年)に、学派争いをやめて教育の効率化をねらい、聖堂の教育研究を朱子学に一本化した(寛政異学の禁)。寛政9年には、林家の施設であった聖堂を幕府直轄とし、昌平坂学問所とする。

昌平坂学問所は正規には幕臣と子弟を対象としたが、書生寮で諸藩の留学生も受け入れたので、郷里に戻って藩の儒官として藩校教育に当たることとなる。

藩校は、大部分が18世紀になってから設けられた。従来から藩の役職は家格で決まっていたが、藩士と子弟に組織的な教育が行われるようになった江戸時代後期には、能力による人材抜擢が行われ、藩政改革や維新を推進することとなる。

2 仙台の藩校開設前史

5代藩主吉村の時代、商品貨幣経済の進展により出費が増大し、諸藩と同様仙台藩も財政難に陥っていた。特に、先代の綱村は豪壮な社寺の造営を行い、仙台城の改築、幕府から命じられた日光東照宮の普請などが重なり、凶作も頻発して財政難は深刻となった。その負担は家臣や領民に転化されて人心も離反した。

吉村の時代は、藩財政の立て直しと人心刷新が課題となり、人材の育成が自覚されて藩校設立の建言が相次ぐこととなった。まず、奉行の遠藤文七郎守信が享保6年(1721年)に意見書の中で、文武の教育と人材抜擢が急務と訴えたが、吉村は出費を省いて家臣領民の負担軽減が先決で、無理に学ばせても実効は期し得ない、とこれを却下した。遠藤は享保13年にも意見書を出し、父兄が無学であるから子弟の教導もできず、大身小身とも学文をさせるべきと力説するが、容れられない。

芦(蘆)東山は、享保6年(1721年)に26歳で藩の儒官に採用されると、早速吉村に7ヶ条の意見書を提出し、その中で、学校の設置と賢才の挙用を進言したが、取り入れられなかった。享保20年には具体的な学問所設立案を作成して再度進言。他方で、豪商の鈴木八郎右衛門は、息子が東山門下生であったことから、学問所建設費として1500両の献金を東山に申し出、東山はこれをもとに学問所を設立し、微禄の藩士嫡子には奨学金を支給して身分の別なく勉学できるよう具体案をつくって上申した。しかし、これも採用されなかった。

享保20年には、同じく儒官の高橋玉斎(与右衛門以敬)も学問所開設を建言。これは、藩士旧宅を転用し、小規模で簡便な方法で、学問と礼法弓術を学ばせるという案で、財政窮迫の折からこの案が吉村に採用された。

3 藩校の開設

元文元年(1736年)11月、北三番丁細横丁西南角の藩士旧宅を修復して、藩校である学問所(学文所)が開設された。主立(学問所長)には高橋玉斎、講釈及び読書指南には、高橋玉斎、芦東山、遊佐毅斎(運蔵好篤)、佐藤吉之丞成信が任命される。午前7時から10時までは素読、その後が講釈で、儒教の教典を教材とした。また、学式により席次や礼儀作法も厳しく定められた。

開設に際して、藩主吉村は次のように申し渡した。

当世の学文の風として、自分の知識を鼻にかけて人の非才をあざけり、その身の行いはかえって不学の者よりよろしからざる者もいる。あるいは詩章文字を事として実学の意なき者が多い。このような学風であっては学問所設立の趣旨に反する。一章一段をもって、身を修め、心を正し、正意に向かい、専ら人倫を明らかにし、忠孝を励まし、士風をおこすことを勧めるよう教育すべし。

4 芦東山の幽閉

高橋玉斎の案に沿って設立された学問所だが、玉斎らと芦東山の対立という問題を当初から抱えていた。

東山は元禄9年(1696年)に磐井郡渋民村の肝煎の家に生まれ、仙台城下に留学、やがて学才が見込まれて藩の代表的な儒学者田辺整斎(希賢)の門弟になる。整斎は、京都の生まれで、伊藤仁斎、山崎闇斎など江戸時代前期の代表的な儒学者に学び、綱村に招かれて仙台藩儒官となった人物である。東山は藩の費用で京都に遊学し、山崎闇斎門下の浅井義斎と三宅尚斎に学び、帰国後吉村から儒官に抜擢される。吉村の参勤交代に随行して江戸に登った際に、幕府儒官の朱子学者室鳩巣に高く評価される。

一方の高橋玉斎は、仙台藩儒官遊佐木斎(好生)の門人。木斎は、田辺整斎と同様、山崎闇斎に師事した人物で、整斎とともに門人を多く育て、仙台藩の学問の基礎を築いた。このため、仙台藩の学問は、儒学と神道を合一した闇斎の学風の影響を強く受けていた。

東山も闇斎の門人に学んだわけだが、鳩巣との交流を通じて朱子学に傾倒するようになり、学風の面で東山は玉斎ら他の儒官とは立場を異にすることとなった。一関市大東町の芦東山記念館所蔵文書によると、東山は、学問所の空き地に小屋を自身で建てて移り住み、読書指南も1人で行いたいと申し入れ、これに対して玉斎らは、御上の命による学問所であり指南も命によるものであるとして、東山の申し入れを拒否している。

学問所設立前の構想の面でも前述のように対照的だった玉斎と東山だったが、玉斎の案が採用されたことに納得しない東山は、開設直前の元文元年10月、朱子学の祖を祀る朱子祀堂と義塾の建立を願い出、さらに翌元文2年にも佐藤成信と連名で願い出るが、いずれも却下。このため、東山と成信は、学式に定められた座列の問題を取り上げて藩首脳に意見書を出した。

すなわち、学式には家の身分格式の序列、次いで長幼の順に従う、とされていたが、東山は身分格式にかかわらず長幼の順のみで着席すべしと主張。また、藩の重役が視察に来たときには役人が講師席の最上位に座っていたのを、当日の講釈を担当する講師が最上位で、役人はその背後に座ればよい、と主張した。

東山は庶民の出身であり、上下の秩序にはこだわらない平等主義的な思想の持ち主であった。しかし、首脳部の怒りを買い、その思想が広まるのを恐れた藩によって、元文3年(1738年)に重臣石母田氏に預けられ、その知行の加美郡宮崎、後に栗原郡高清水に24年の長きにわたって幽閉される。この間、東山は室鳩巣から勧められていた刑法書の執筆に専念し、当時の主流である応報刑論に対して教育刑を唱えた大著「無刑録」を書き上げた。無刑録は、我が国の近代的な刑法論書の先駆として後に評価され、明治10年に元老院から官版として刊行されている。

■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年

■関連する過去の記事(芦東山)
 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日)
 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)

仙台藩の人材育成にかけた藩の姿勢、またその内容はどうだったのか。勉強しようと思いました。大藤先生の一般向けの著書を読んでおります。3回か4回に分けて記す予定です。





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最終更新日  2009.11.03 12:49:47
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