カテゴリ:宮城
きのう伊達氏先祖の真岡市中村について記した。
■土生慶子『伊達氏の源流の地』宝文堂、1994年 ■関連する過去の記事 伊達氏先祖の地は栃木県真岡市(2013年4月6日) 土生慶子さんの著作に拠りながら記したのだが、真岡市中村の中村城跡、中村八幡宮、下館市(現在は筑西市)中館の観音寺など、伊達家が伊達に移って伊達を名乗る以前の世代にゆかりの地が紹介されていた。また、伊達綱村が現地を訪問するなど相互の交流もあったが、明治以降は仙台側にはあまり認知されていないながらも、当地の寺社は伊達家の安泰を祈願し続けてきたことが改めて知られることとなり、時を越えて平成の今になって再び交流が深まったというのだ。大変おもしろく拝読したが、この本の中に、伊達家重臣(御一家)で岩ヶ崎に住した中村日向のことが記されていた。とても興味深いので、以下にまとめてみた。 1 真岡市遍照寺の掲示板の説明 伊達氏ゆかりの真岡市中村の遍照寺の掲示板にはこう説明されている。 中村城、朝宗以来、380年間代々中村氏の居城であったが、約450年前の天文13年10月7日、下館城主水谷(みずのや)出羽守正村に攻められて落城、14代城主父入道玄角は居城に於て討死、城主中村小太郎時長は居城を焼き奥州米沢に逃れ、宗藩伊達家に属し、名を中村日向と号し、奥州岩ヶ渕の館を賜り、代々岩沼に住す。 文中の岩ヶ渕、岩沼はいずれも誤りで、正しくは岩ヶ崎であろう。住職の話では口伝だが、中村八幡宮は中村城や遍照寺のすぐ近くにあり、伊達氏との関係は最後の藩主慶邦の子息宗基の明治5年の奉賽まで続いたがその後はほとんど交流がない(1981年以降の土生氏の訪問が初めてか)。ただし中村城のことは地元に脈々と伝えられていたのである。 2 中村城主中村氏の歴史と伊達領行き 建武の新政にはじまる内乱の結果、中村氏がやむを得ず宇都宮公綱(きんつな)の臣になっている。これは、伊達家7世行朝が義良親王と北畠顕家に従い南朝の柱石として転戦し、顕家死後は中村城主中村太郎経長らと伊佐城を根拠に善戦したが、高師冬軍により包囲され、行朝は泉村(中館西部)で戦史、中村経長は中村城に逃れ、ついに宇都宮公綱に降って被官となったものである。被官の際に、経長は持久の策なく、中村の庄をもって芳賀禅可を頼み、宇都宮公綱に降る由、中村の庄の3分の1を賜り累代居住す、と伝える(遍照寺由緒書)。伊佐城は結城直光に略奪され、その他の中村領は宇都宮領となった(興国4年(1343))。 戦国時代の天文13年(1544)には、結城氏重臣で下館城主水谷(みずのや)正村(政村)が北方への進出を図り、10月17日宇都宮氏の臣、中村城を攻めた。中村経長10代の裔中村日向入道玄角は防戦し切れず館の内で戦死、子息の小太郎時長は城を焼いて宇都宮に走った。翌14年(15年説もあり)4月23日、宇都宮城主下野守尚綱(俊綱)は中村城を回復しようと激戦を演じて敗れ、中村小太郎時長の領地は水谷に略奪されて、正村の養子(弟)勝俊、その子勝隆の支配地となっていった。 (水谷と宇都宮の競り合いは永禄年間、天正年間にもあり、中村庄のうち中村城跡が常州の下館城主の領地となったことが、後に中村城と伊達氏始祖のことが歴史に埋もれる一因となった。) 時長が中村城回復の頼みとした宇都宮尚綱は天文18年戦死、嗣子が幼いため一族の芳賀氏ら老臣が権を争い国政が安定しないことから、中村氏は伊達氏に寄るべく奥州米沢に走り、宗藩伊達に属し、同根の好みをもって名を中村日向と号し、伊達氏青運の後奥州岩ヶ崎の館を賜り子孫今に連綿であると郷土史に伝えられる。 伊達領行きについては宇都宮氏改易の慶長2年とする説もあるが、主流は天文14年の後まもない時期と推定している。なぜなら、中村日向の先祖義綱は伊達家の稙宗、晴宗、輝宗に仕えたことが家譜からわかり、また、天文22年には晴宗から采地をもらっているからである。 3 中村日向について 伊達御一家の中村家は5代目まで新田の姓を名乗っていた。中村家の家譜には6代目の中村日向成義が、時の藩主4代綱村に元禄3年9月招かれ、中村氏と雲次の佩刀を拝賜したこと、中村氏は公室先祖の氏であることが記されている。「性山公(輝宗)治家記録」には、後のこととして、「今新田ヲ称スル事ヲ憚リ玉イテ元ノ御氏中村を賜フ」と出ている。 後子孫は岩ヶ崎の鶴松城の館跡の家におられ、(著者の土生さんが)家譜を見せていただいた。一つは清和天皇にはじまる新田氏の系図。一つは伊達世臣家譜(藩撰家譜)と同様に新田三河守を祖とする家譜であった。 (土生さんが訪ねた中村あや子さんは平成4年亡くなられた。ご主人の中村小四郎氏は東京大卒業後海軍造船大佐でドイツ留学、日本で初めて潜水艦を作った方。弟の中村貞夫氏は栗駒町の公民館長をしておられた。なお、13代目の中村小治郎氏は明治に初代の岩ヶ崎町長。) 元禄3年に中村姓をもらった6代目日向成義は、綱村公の妹(3代綱宗の娘)の三姫を奥方に迎える。更に9代目中村日向義景は、6代藩主宗村の娘認姫を迎えている。 中村氏の伊達家に対する忠誠は目を見張るものがある。9代目中村日向義景は27歳で奉行に上がり、明敏で度量があった。8代藩主斎村が寛政8年に没し、生まれたばかりの長子周宗が襲封。堀田正敦が藩政の補佐を託され、奉行の中村日向義景と大内縫殿が藩務を支えた。しかし9代周宗は14歳で病没。ここから中村日向義景の真価が発揮される。当時の幕府の規則で諸侯は17歳に満たないと嗣子を立てることが出来ない。仙台藩存亡の危機に直面し、中村日向は周宗の喪を秘めること3年、はじめて幕府に報告し異母弟の徳三郎を10代斎宗として藩主に立てることに成功した。この3年間は、周宗の飲食起居のこと皆生者の如く他に知らしめず、その苦労は大変なものだったと伝えられる。斎宗はこの功労に千石を加増し、義景は5千石(4千5百石とも)になった。 中村氏は元禄7年から明治を迎えるまで最も長い采地として栗駒の岩ヶ崎におり、城は鶴丸城といった。それ以前は、元和5年に采地の宇多郡駒ヶ峯の火災で文書が消失しているので不詳という。 鶴丸城は明治以後、小学校ができ、残りは整備された美しい公園となって、一部中村家になっている。館の正面に向かう道は下小路(昭和30年頃までは四軒丁)で太宰式部はじめ四軒の家老が住んでいた。 中村家の家譜では、祖である三河守は采地伊達郡新田郷及び羽州置賜郡長井荘、古来伊達一家を称す、とある。この時新田郷をもらったので伊達の先祖が伊達氏を名乗ったように、新田姓を名乗ったのかも知れない。新田氏一代とされる景綱〔おだずまジャーナル注:上記2最終段落でまとめた対象部分の記載では義綱とある〕は、稙宗、晴宗、輝宗に仕え、また天文22年には晴宗公より采地を賜っている。この経緯から、中村氏先祖は天文10年代には米沢入りをしたと思われる。天文24年8月、初代景綱は4人の家士(太宰、赤間、佐藤、泉沢)と紀州熊野本宮を参拝したと特記される。 元亀元年には伊達家の存亡に関わる事件がある。宿老家の中野常陸宗時がおごりたかぶり輝宗に疎んじられる。宗時は女婿であった景綱の長子義直を巻き込んで謀叛を計画、息子の義直から聞いた父の景綱は、諌めたが聞き入れられず、義直を捕らえて輝宗に死を賜うよう望み、義直は自決、自家などに放火した中野らは相馬に逃れたという事件である。景綱は嫡子を犠牲にして伊達家の存在を守り抜いたのであり、輝宗公を守った忠誠は高く評価されている。 なお、この事件の新田の忠節は遠藤基信の考えにもとづく。中野の謀叛を遠藤は予見し、新田義直を前もって中野の縁者にすれば、父の景綱は忠貞の志深いことから中野を滅ぼす人物になるとして、中野の婿に世話をしたという。 また、景綱の武将としての活躍も大きかった。天正13年芦名進攻で新田景綱(新田常陸)は戦死。人取橋や摺上原の戦いでは、2代新田義綱は後藤信康とともに桧原在番として政宗の仙道での活躍に寄与した。 天正19年政宗は秀吉の名で岩手沢(岩出山)に移り、これに伴って2代義綱は加美郡柳沢村を賜って移住し(千2百石)、慶長4年宇多郡駒ヶ峯に移り、正保元年に采地千4百4十石を岩手県東磐井郡藤沢邑に賜って移る。6代目中村日向成義のときに元禄7年いまの岩ヶ崎を賜って移る。当初3千5百石、9代義景のとき功績で4千5百石となった。 岩ヶ崎は秋田への羽後岐街道が通る要所で、歴代館主をみると、政宗5男宗綱、6男宗信、石母田大膳宗頼、定頼、永頼、2代藩主忠宗の2男田村宗良、古内主膳正重定、重興、茂庭大蔵重実、そして中村日向家と、歴々の人たちが拝領している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.04.07 21:26:06
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