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2016.04.02
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カテゴリ:東北
■下記の記事に続くものです。
 東北の旧石器時代(2016年3月6日)
 東北の古代史(その2)縄文社会の成立へ(2016年3月28日)

■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年 を参考にいたしました。
(関根達人氏の執筆部分)

1 亀ヶ岡文化

亀ヶ岡文化について
 ○ 3100年から2400年前の縄文晩期に、渡島半島から東北一円に展開した文化
 ○ 名称はつがる市亀ヶ岡遺跡に由来
 ○ 遮光器土偶など祭祀に関わる遺物、土器や漆器の工芸的技術で注目。
 ○ すでに江戸時代から存在が知られる。
 ○ (手間をかけた工芸品が壊れる前に捨てられていることから)祭祀や工芸に労力を注ぐことで、富の集積や社会の肥大化を未然に防ぎ、小さな社会を充実維持させるという、縄文文化全体に共通する文化の特質をもつ。

文化の広がり
 ○ 亀ヶ岡式土器は文化圏外の九州北部でも出土している
 ○ 晩期前半の西日本には東北に出自をもつ人間が社会集団の一員をなすムラがあったと思われる
 ○ 晩期中葉には西日本から亀ヶ岡系土器が姿を消し、弥生文化が成立する板付1式期には、交換財とみられる装飾性に富んだ大洞A式古段階の土器が北部九州四国に確認される。
 ○ 北海道では、逆に、晩期中葉の大洞C2式期に亀ヶ岡文化の影響が強まる。東北では北からの影響力は強くなく、津軽海峡を挟んで北への一方的な影響に終始する。
 ○ 晩期中葉、亀ヶ岡文化の担い手は、従来の西日本の集団との関係を絶ち、進路を北に転じたとみられる。

文化圏の地域性
 ○ 精製土器が文化圏全域に斉一性を示すのに対して、煮沸用の粗製の鉢などは地域性があり、通婚圏に対応か。
 ○ 土偶は岩手県を中心に北東北で多い
 ○ 岩偶(凝灰岩などの石を加工)は、岩手・秋田の北部と青森県に集中

2 亀ヶ岡文化の集落

縄文中期から後期にかけては、関東や中部校地では寒冷化で集落が衰退、晩期には、東北地方と西日本(九州中心)に繁栄の中心が移ったとされる。縄文晩期の人口密度は、東北地方が0.6人/km2で、列島で最高とされる。

しかし、東北でも縄文晩期は後期に比べて遺跡数、竪穴住居跡の軒数ともに減少している。

例えば青森県では、遺跡数は後期が最も多く、晩期、弥生、古墳時代と減少の一途。住居跡の数は、中期をピークに、後期、晩期と減少。後期は中期に比べ遺跡数が増えるのに竪穴住居数が少ないのは、集落規模の縮小と分散のためとみられ、立地場所は低地から山間地まで拡大。晩期遺跡は、河岸段丘上や山麓に立地する傾向にあり、晩期中葉以降は沖積地に立地する遺跡が増える(弥生の小海退により、低地や谷地が乾陸域化し稲作に適した)。

晩期前葉から中葉にかけ、集落とは別の場所に大規模な集団墓地が営まれるケースがある。(拠点集落と小集落の結びついた社会モデルも想定されている。)

竪穴住居は一般に堀込みの浅いものが多いが、直径は10m以上の大型もある。一方、掘立柱建物は正方形配列の四本柱が多く、六本柱(亀甲型)もある。掘立柱建物を平地式の住居とみる意見と、祭祀施設や倉庫と考えて住居は引き続き竪穴式中心だったとみる意見が対立し、いまだ決着していない。

新発田市青田遺跡では、亀甲型の掘立柱建物で構成される晩期末葉の集落跡が発見され、柱根の年輪年代学的解析から、一時期の集落規模は8から9棟と推測されている。

福島市宮畑遺跡では、四本柱の掘立柱建物が環状に配され、その外側に埋甕群や土坑墓が配置される晩期前葉から中葉の集落群が発見されている。青森市上野尻遺跡でも、合計35棟の堀立柱建物が環状にめぐる後期後葉の集落。五所川原市千苅(1)遺跡では、晩期中葉に属する大型住居跡で、堀立柱建物群が環状に広場を囲んでいた可能性がある。これまで、亀ヶ岡文化の集落は1から3程度の竪穴住居の小規模集落とイメージされたが、堀立式建物を含めて考えると、環状集落の伝統も存続していたのではないか。

3 経済活動について

戦後のマルクス主義歴史学のもと、縄文から弥生の変化を、狩猟採集社会の行き詰まり(縄文社会食い詰め論)とそれを解決するための農耕の導入の図式でとらえる前提で、亀ヶ岡文化は、将来において発展する内在的な力を失っていると評され、西日本が原始農業に振り向け始めた労働力を土器や石器の製作に費やしたために工芸的な発達を遂げた、と説明された。たしかに、亀ヶ岡文化は生産、技術、物流のどれをみても後期に確立したものを革新するような発展はみられない。

晩期の石器や骨格器は基本的に後期と同じで、それらを用いる社会の経済的基盤に大きな変化はなかっただろう。ただし、晩期には石鏃、石錐、石匙などに対して石皿や磨石の割合が低くなることから、動物質食料の比率が高まった可能性がある。

漁労については、後期後半に大きな画期が想定される。すなわち、後期中葉には内陸河川や湖沼での網漁が活発化するとともに、太平洋沿岸で骨製の刺突具(ヤス)による刺突漁業が盛行。後期末葉には、離頭銛が発達し外洋性漁労が活発化。晩期には北海道で開窩式離頭銛や組み合わせ式釣り針が盛行し、三陸沿岸では閉窩式離頭銛が発達し、両者の分布は青森で重なる。

土器製塩は関東にやや遅れ、仙台湾や三陸沿岸で後期末頃から始まり、晩期中頃には陸奥湾沿岸にも波及。交易品として容器ごと広範囲に流通している。

縄文後期の寒冷化により、落葉広葉樹林の東日本では植物質食料の主体が、クリから低地で増加したトチノキに変化した。トチの実はタンニンやアロインの苦みに加えて有毒性のサポニンが含まれアク抜きを要する。灰と一緒に煮るか水にさらす。東日本の縄文の水場遺構の多くは後晩期に集中しており、トチ塚と呼ばれる種皮片集積遺構を伴うものも多い。亀ヶ岡文化では、是川中居遺跡、寒河江市高瀬山遺跡で発見されている。

クリやトチなど堅果類の貯蔵穴は、東日本では主として台地や丘陵上から、西日本では低湿地から多数発見される。東北では、晩期の貯蔵穴は後期以前と比較して小型が多く、居住域から離れた例が増える。

寒冷化に連動して後晩期の縄文人は、多角的な植物利用を促進させ、それが弥生初頭のイネなどの穀物栽培の基盤になったとする見解も登場してきた。是川中居遺跡では、居住域周辺のクリ林を、開析谷や河畔にはトチノキ林やオニグルミ林を配置するなど、縄文人が人為的な生態系(里山)を作ったとの仮説も提示されている。

亀ヶ岡文化に栽培植物があったかは議論が分かれる。籾圧痕土器が決め手とされてきたが、近年、圧痕を電子顕微鏡で精査する種子同定が可能となり、従来籾圧痕とされたものが否定されるケースが増加。青森県南部町剣吉荒町遺跡(晩期末葉)は再検討が迫られ、亀ヶ岡沢根地区は籾殻が11から13世紀とされた。今のところ、確実に亀ヶ岡文化に伴うと断言できるコメは存在しない。コメ以外では、是川中居遺跡の晩期前半層からヒエ属などの種子が出土との報告があるが、DNA分析などにより栽培種かどうか検討が必要。

4 食性

人骨のコラーゲンの炭素窒素同位対比分析で、縄文人の食生態の地域差が指摘されている。亀ヶ岡文化では、青森、岩手、宮城、福島の貝塚から出土した人骨では、晩期縄文人はドングリなど植物と海生魚類の双方のタンパク質を摂取していた。一方、文化圏北端の洞爺湖町高砂貝塚の晩期縄文人は主としてオットセイなど海生哺乳類からタンパク質を摂取。

5 交易

晩期には装身具として海産の貝類魚類(サメの歯、ベンケイガイなど)が内陸部にかなり流入。産出地の限られる天然アスファルトは遠隔地まで運ばれ、後期から晩期に著しく使用量が増えている。活発な交易が想定される。

下北半島の不備無遺跡では、食料資源と石器素材の大部分を遺跡周辺から調達し、生活圏外からは原産地が限られる天然資源が持ち込まれていることが明らかになった。すなわち、半島内で10km離れた場所からは石剣や独鈷石などに使われた石材を調達し、津軽半島からは赤色顔料として今別町赤根沢産の赤鉄鋼を、外ヶ浜町蟹田産の可能性がある天然アスファルトを、海峡を隔てた北海道からは十勝産や赤井川産の黒曜石と水銀朱(土器の赤彩に用いる)を調達した。

ここで、食料など日常品を遺跡周辺で調達するのに、陸奥湾を隔てた津軽半島にしか分布しない土で製作された土器がみられたのは意外である。土器の移動の常態化を示唆か。

6 社会と精神性

祭祀遺物では、縄文後期に北東北から北海道南部に展開した十腰内(とこしない)文化で多様性が開花し工芸的な発展を遂げている。十腰内文化は、環状列石、石棺墓、再葬土器棺墓など、施設が非常に発達した。この大規模配石記念物での共同祭祀が、亀ヶ岡文化に引き継がれた。すなわち、弘前市大森勝山遺跡では、晩期前半に大型環状列石と大型竪穴住居跡1棟が発見された。おなじく晩期前葉の北秋田市向様田遺跡群では、土坑墓や環状配石遺構などが検出されたが竪穴住居跡はほとんど検出されていないことから、小又川流域の小規模集落の人々による共同葬、祭祀が行われたと推測される。

副葬品の有無の差が明確な上、副葬品を伴う子どもの墓が多いことから、世襲制による固定化された階層化社会を想定する意見がある。しかし、古墳に納めた石製模造品のように副葬のために作られたもの(明器)や、古墳に副葬される威信財(玉、鏡、剣など)もなく、過大評価ではないか。

縄文文化の終焉は弥生文化の成立と合わせ論じられるが、亀ヶ岡文化の場合、弥生文化だけでなく、水田稲作を欠く続縄文文化との関係を視野に入れる必要がある。水田稲作は弥生前期に本州北端まで北上したが、北海道で本格化するのは2000年を経た19世紀とみられている。東北最古の水田跡が検出された弘前市砂沢遺跡出土を標識とする砂沢式土器(東北地方最古の弥生土器)が北海道でも発見されるように、弥生時代に入っても本州と北海道の交流は続いている。また、弥生時代より冷涼な江戸後期に松前藩がしばしば稲作を試み年によって成功している。つまり、道南の続縄文人は稲作をできたにも関わらず行わなかったのである。恵山文化(続縄文時代前期、北海道南西部)では、豊富な骨格製漁労具や人骨コラーゲン分析から、生業に占める海獣漁の比率が高いとみられる。本州との交易を視野に入れ、弥生人が水田に注いだ労力を狩猟や漁労に注いだのでないか。続縄文土器が出土する東北地方もまた、恵山と同様に、狩猟や漁労に半ば特化していたのでないか。

弥生土器は、朝鮮半島から西日本を経て製作技術を受け入れて、各地の縄文土器づくりとミックスされてできた。東北では、亀ヶ岡式土器の技術や土偶祭祀が米作りを始めた後も引き継がれる一方で、高度な漆技術や天然アスファルトなど遠隔地交易は影を潜める。

手間暇かけて製作したデザイン製に富む亀ヶ岡式土器や漆器を壊れる前に廃棄する行為は、合理性では説明がつかず、これらを作り上げる行為が重要だったと思われる。この「遊び」を発達させて集団内外の関係を維持した亀ヶ岡文化は、縄文文化の本質が濃縮された究極の縄文文化と言えよう。水田稲作の導入で、遊びに替わって富が関係を規定する新たな原理となっていったのでないか。





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最終更新日  2016.04.03 17:20:20
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