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2024.02.03
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カテゴリ:仙台
2月というのに雪もない。吉岡から三本木まで奥州街道の名残を探訪した。吉岡の宿場町を出て、国道4号をクロスして進む。
■前回記事 吉岡宿を訪ねて(大和町)(2024年02月01日)


すでに大衡村に入っている。田圃の中を北上。善川をわたり、村道に一旦出て東進するがすぐまた折れて小さい道に入る。昌源寺脇のため池を左に見て小道はのぼる。散策路整備の看板がある。
(画像では遠方に小さく看板が見えます。)

(その看板を大きくしました。)

奥州街道の歴史にふれる散策路の整備
ここには、第二仙台北部中核工業団地ができる前、奥州街道がありました。奥州街道は、江戸日本橋を起点として、津軽半島の北端三厩宿までの日本で最長の街道です。平成20年度からの工業団地の造成工事により奥州街道がなくなることになったため、この区間を歩いて移動できるように代替えの散策路をつくりました。
 散策路には、この地域にある樹木を植えたり、造成工事で伐採した樹木を細かく砕いたチップを再利用したりするなど、環境に配慮して整備しました。また、途中の中央平公園には発掘調査で明らかになった一里塚などの地域の歴史を学べる場を整備しました。
 整備にあたっては、工業団地の事業主体である宮城県土地開発公社を始め、工業団地の立地企業や教育機関から多大な協力を得て実施しました。
 平成22年3月 大衡村


上記の案内板の現在地辺りを拡大して示します。(一部画像を加工。凡例を移動しました。)


そのやや先に、車道をそれて左に昔の街道がある。正確には、(上記の看板の説明のように)代替散策路というべきで、往古のルートそのものとは違うのかもしれない。
(こんな感じで散策路に誘導されます。)

(わかりやすく案内板を建てたのでしょう。旧奥州街道はここを入ること、跡ではない、と誰かが添え書きしていました。)

(画像ではわかりにくいですが、かなり傾斜のある坂道。坂をこえるとすぐ、工業団地を周回する道路=看板では村道奥田工業団地西線と説明=に出ます。)


(ここまでの探訪活動と次の動きを地図に示してみました。)



村道に戻り、東に進み、衡下集会所に近い交差点から工業団地に伸びる道(村道奥田工業団地西線)を進む。登っていくと、ほどなく、さきほどの旧街道(散策路)の出口がある。街道は、この新しい道をクロスする形で山中を伸びていたのだろう。そして、右手(東側)は半導体の大工場になるのだろう。いずれにせよ、すでに造成されて街道筋は消えている。

さらに北進すると、ときわ台団地。その道路をはさんだ東側(中央平公園)に、駐車場と碑が在る。

奥州街道の歴史にふれる散策路の整備
1 奥州街道の歴史
 奥州街道は、江戸日本橋から津軽半島三厩(みんまや、現青森県東津軽郡外ヶ浜町)に至る幹線道路です。慶長6年(1601年)、天下の実権を握った徳川家康は、五街道を基線とする全国の交通網の整備を命じました。街道は、参勤交代による大名行列や、物資の輸送、旅行などに利用されていました。
 大衡村における奥州街道は、仙台以北の規模の大きい宿駅の一つである吉岡宿(大和町)と三本木宿(大崎市)の間の3里20丁(約14km)を結び、現在の第二北部中核工業団地内を縦断していました。途中には、旅人の里程の目安となる一里塚もありました。
2 散策路の整備
 この辺りには、江戸時代の景観をとどめている奥州街道が残っていました。しかし、工業団地の造成により奥州街道は分断されることになりました。このため、街道の雰囲気を再現した代替ルートを整備して旅行者が徒歩で移動できるようにし、また、中央平公園には奥州街道の歴史を説明する説明版などを設置し、街道の歴史にふれあう学びの場としました。
 整備にあたっては、行政機関のみならず、工業団地内の立地企業を始め、NPO法人や教育機関と連携を図りながら進めました。
《参加団体等》
◇行政機関等 宮城県、宮城県土地開発公社、大衡村
◇立地企業 セントラル自動車株式会社
◇教育機関等 宮城県黒川高等学校、みやぎ街道交流会(NPO法人)
平成22年3月 大衡村


案内板の地図の現在地辺りを拡大して下に示す。(一部画像を加工。凡例を移動しました。)


随分以前に書いた記事(下記)のとおり、トヨタ工場の造成で旧街道を消してしまったこと、工場外周に代替の散策路をつくったこと、そしてそれぞれのルートが、看板の図でよくわかる。
■関連する過去の記事  セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)


大衡一里塚(おおひらいちりづか)
1 造られた時期
 江戸時代初期(今から約400年前)につくられたとかんがえられています。
2 場所
 大和町吉岡にある一里塚から街道沿いに約3.9km北上したところ、また大衡村駒場に跡が残る一里塚から約3km南下したところにありました。奥州街道をはさんで、丘陵部に西塚、斜面部に東塚が造られました。
3 大きさと形
 西塚 ほぼ円形で、直径9.2~10.3m、高さ2.7m
 東塚 南北に長いだ円形で、直径7.8~10.0m、高さ2.3m
4 造り方〔おだずま注、略〕
5 特徴
 東塚と西塚の高低差は5mほどあり、東塚は海道から見下ろすような位置にありました。付近は痩せ尾根であったため、東塚は斜面に造られましたが、このような場所に造られた一里塚は全国的にも例がありません。また、階段状に土を盛ったり、石を少なくして粘土質の土を使うことで堅く崩れにくくするなど、塚を斜面に造るための工夫がなされていることも明らかとなりました。


■宮城県公式サイト ​奥州街道・一里塚 発掘調査現地説明会

信号まで北進して、県道大衡落合線に出て右折(東へ)、パークゴルフ場を左に見て、トヨタの北側を弧を描く県道を東に進む。
松の平二丁目の交差点に、もみじ広場。ここに案内板があり、階段の先に道が伸びている。
(広場から見るとこんな感じです。)

(案内板を大きく映します。)

森田元平君墓(大義院元覚良道居士)について
森田元平(1838-1879)は、仙台藩天文方を務めた藩士・儒学者で〔おだずま注、以下は要点のみ記す〕、文久3年(1863)志田郡伊賀村に移住し、明治6年斉田小学校(大崎市三本木)の仮教師となる。明治12年伊賀村で死去。享年42歳。黎明期の三本木・大衡地域の初等教育の礎を築き、有力者・政治家を輩出した森田の功績をたたえ、百名に及ぶ教え子が碑に名を連ねている。碑は、当初ここより南西に1kmの森田氏の所有地、通称森田沢(もったざわ)に建立されていたが、平成20年工業団地造成に関連し、妻と妹の墓とともに移設された。平成23年3月 大衡村

(もう一つの看板です。)

奥州街道跡
 奥州街道は江戸を起点とした五街道の一つで、正式には奥州道中と言った。区間は江戸より白河迄で幕府道中奉行の支配下にあった。この本街道を北に延長し、仙台~盛岡を経て、青森県の北端三厩までの街道も一般に奥州街道と称され、幕府勘定奉行の管轄下にあった。奥州街道は奥州を縦貫する重要な幹線道路で、参勤交代の諸大名や商人荷・庶民の往還で賑わった。
 ここ大衡村を通る奥州街道は、現在地付近を含めて、吉岡と三本木宿間の三里二十丁(14Km余)であった。
 平成13年10月 大衡村
(道に入ってみる。かなりの起伏と、左右にくねった道です。中央平公園にあった看板の旧街道と代替整備路の関係からすると、上の画像の階段と次の画像は代替整備路で、その次の写真あたりから旧街道になるようだ。)




この旧街道は地図に落とすと、だいたいこんな感じになる。結構長く、数百メートルある。


改めて、中央平公園の案内板のルートを、拡大して掲げる(下記。一部画像を加工。凡例を移動しました。)。照らし合わせると、もみじ広場近くの階段や急峻な坂は代替路だが、その先(上の二番目の写真や、次の探訪先)は旧街道のルートそのものになるのだと思う。



こんどは、大衡落合線を大衡IC方面に向かい、信号を左折(北進)すると、県道大衡駒場線に入る。しばらく北上して、県道から左(西)に入る(中央平公園の看板では、村道楳田戸口線と説明)。配水場(大衡配水場)があり、その先に、ちょうどさっきの旧街道の出口がある。車道はロープで封鎖されているが、旧街道は人が入れる。


(看板を大きく映します。)

(旧街道に入ってみる。この写真は、村道楳田戸口線の出口方向を向いたものです。)


県道大衡駒場線にもどり北進。次の交差点はショートカットが昔の街道筋で、鶴田川を渡って、石巻鹿島台色麻線に出る。(正確に言うと、旧街道ルートは県道大衡駒場線を横切って田園の中を通過し、鶴田川を渡る橋の手前で現在のショートカット道に合流し、石巻鹿島台色麻線に出るようだ。)
駒場の郵便局をまがって、東北縦貫道をくぐる。すぐに折れて、高速道沿いに北進する。坂を上って降りていくと、三本木に入る。ここで一枚。昔の街道だろう。

(ここまでの経路です。)


■広報おおひら2018年12月号(No636)から。
「大衡村の歴史 3」奥州街道
 「奥州街道」は江戸日本橋から白河宿までの「奥州道中」の延長で、仙台、盛岡を経て青森に至る街道です。奥州を縦貫する重要な幹線道路で、参勤交代の諸大名や商人、庶民の往還で賑わいました。 「奥州街道」の仙台以北の大きな宿駅である吉岡宿を出ると、衡下地区石神沢に入り、善川を渡り松本へ北進します。善川は寛永18年(1641)の検地帳には悪川と記載があり、後に善川と改称したものと思われます。石神沢と善川の間には松並木がありましたが、明治年間に伐採された記録があり、昭和初期まではその巨根が所々に残っていました。
 松本に入った街道は右に折れ、昌源寺の門前に出ます。ここから、昌源寺坂と言われる坂を登り切り、旧大衡村と旧奥田村の村境を進むと、まもなく直径5mの円形の一里塚がありました。子の地点は、文政期の大衡村絵図にも一里塚の印が記載されており、次の一里塚があった雲泉寺入口付近からちょうど3km付近です。
 この一里塚から200mほど行くと、道の西側に馬頭観世音碑が4基ありました。これは吉岡宿の人々や馬の継立に従事した馬子達によって建てられたものと伝えられています。
 旧大衡村と旧奥田村の境は、現在、第二北部中核工業団地となり一里塚跡はありませんが、この馬頭観世音碑は、ときわ台団地東側の中央平緑地公園内に移設されています。
 松の平緑地公園以北から旧駒場村戸口までは、現在も街道の旧観を留めています。旧駒場村に入る手前には三角点があり、西に遠く船形連峰、中程に蓬莱山が眺められる見晴らしの良い場所になっています。この場所は、仙台藩主が休憩されたところと伝えられ、「奥松福城行記」(宮城県図書館蔵)に、「三本木迄山坂道なり、此間西の方、最上境に二つ嶽見ゆる。」と記されている地点と推測されます。
 旧駒場村に入ると、村道楳田戸口線と県道石巻鹿島台大衡線とほぼ重なり、雲泉寺入口付近に一里塚がありました。その先の須岐神社には、江戸時代に「東の茶屋」「西の茶屋」があり、往来の人々の休憩処でした。その後、坂下から左に折れ、坂道を登り下りして三本木宿へ北進する道程となります。
 大衡の奥州街道は、吉岡と三本木宿間の3里20丁(約14km)で、宿場としての賑わいのない通り抜けの道でした。
 参考文献『大衡村誌』『おおひら歴史散歩』


■大衡村の地域について
 明治の町村制では、大衡村、大瓜村、駒場村、大森村、奥田村の5村の区域を以て、大衡村が発足した。現在の大字は、これら旧村の5つのほか、新しい町名である沖の平、桔梗平、中央平、ときわ台、ときわ台南、松の平。

■他の方のブログ(大衡村の奥州街道の探訪記)
 ​悠遊・楽感雑記帳から
 Hitoshさんの街道写真紀行奥州街道
 KLB嵐山・みけねこさんの奥州街道を歩くその12・大衡村を北上する
いずれも本当に素晴らしい内容。当ジャーナルは足元にも及びません。

(雑感)
今回の記事タイトルを「吉岡-奥田-駒場-三本木」としたが、吉岡(前回記事吉岡宿を訪ねて(大和町))はともかくとして、実際は奥田の工業団地周辺が中心だった。駒場の旧街道は車で流しただけだし、その先の三本木はちょっと入っただけ。時を改めて、駒場、三本木、古川と要所を歩いて探訪してみたい。
そもそも宮城県内で、旧街道ルートが現国道4号(バイパスになる前を含めて)と大きく乖離しているのは、この吉岡-三本木のほか、高清水-築館、金成-有壁、有壁-一関、といったところだろうか。中でも奥田の一里塚前後の街道はすっかり山中に潜んでしまい、逆に往時の風情が最もよく残っていたかも知れないが、工業団地造成で消失を機に散策路復元や案内板などで、このように私たちに教えてくれる活動には敬服する。

■関連する過去の記事(大衡村、大和町、奥州街道など)
 吉岡宿を訪ねて(大和町)(2024年02月01日)
 大衡村の良いところは...(2015年3月19日)
 大衡村を元気づけようプロジェクトその2(2015年3月31日)
 宮城・大和町の史跡 御所館と八谷館(2011年9月30日)
 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)
 鶴巣PAのETCカレー(2011年1月23日)
 北根と七北田街道(2011年10月24日)
 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日)
 街道を行く 奥州街道の吉岡-三本木について(05年10月25日)
 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日)
 宮床ダム殺人未遂事件を考える(09年8月23日)







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最終更新日  2024.02.12 17:34:36
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