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2024.03.21
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カテゴリ:宮城



岩沼市にある名取高校は、女学校としてスタートし、戦後は学校組合立を経て県立に移管された。同様の動きは県内各地にみられ、その経緯をたどると、子女の教育の充実を図ろうとする地域の熱意と新制高校づくりに向けた県と市町村の連携の足跡が知られる。

1 実科高等女学校
(『岩沼市史』(昭和59年1月、岩沼市史編纂委員会)から当ジャーナル要約。以下2、3も同じ。)
 実科高等女学校の制度は明治43年にできた。女子教育の進歩発展に伴い、各郡市の中心小学校内に実科高等女学校の設置を要望する気運があった。修学のために父母から遠く離れることなく、学校と家庭の連絡を密接にしようとするもの。入学資格は、12歳以上で尋常小学校卒業程度以上の学力。修業年限は4年(尋常小学校卒程度)、3年(高等小学校1学年修了程度)、2年(高等小学校卒業程度)とされ、高等小学校に併置する場合に限って許可された。

2 岩沼実科高等女学校の経緯
 ・明治32年 岩沼小学校に裁縫専修科を付設
 ・明治33年 補習科と改称。
 ・明治43年 町立岩沼実業補習学校創立。修業3か年、男49女59
 ・大正13年(1924) 町立岩沼実業補習学校女子部が昇格して、岩沼実科高等女学校を岩沼小学校内に設置する。
  生徒 岩沼91人、玉浦16人、千貫18人、他に愛島、館腰から19人
 ・昭和18年 宮城県岩沼高等女学校と改称

3 戦後の高校昇格と県立移管
 昭和23年4月新制高校の昇格が認可され、男女共学の町立高校となる。このとき、岩沼外10カ町村による学校組合が組織された。
 参加町村は、岩沼町、閖上町、千貫村、玉浦村、館腰村、愛島村、下増田村、逢隈村、槻木町。昭和23年11月に増田町が加入する。
(おだずま注:市史の文中には「岩沼外十か町村の組合立」と記載がある。しかし、年表中に記載された参加町村は上記の通りで数えると1つ足りない。岩沼町を含む10か町村、という意味(本文が誤り)なのか、それとも年表の中の列挙に1つ(高館村か)の記載が漏れたのか、いずれかと思われる。)
 新制高校として存続の危機に遭遇したものの「名取高等学校(仮称)設置要望の趣旨」に躍如として記されている。「仙南四郡の広きに亘る一般大衆の憧憬と思慕とを集めてきた我が岩沼高等女学校の宮城県立高等学校昇格は、私どもの心から熱望するところである」
 昭和24年、学校用地として日東産業岩沼工場の敷地建物を買収。町立、組合立を経て、昭和25年4月県立に移管。男女共学の学区内唯一の普通高校であった。定員は全日制451人、定時制507人〔おだずま注、名取高校HPによると昭和25年県立移管時の定員男女600人〕、3分校を設置(玉浦、増田、館腰)。

4 学校組合立と県立移管
 佐々久『近代みやぎの歩み』(宝文堂、1979年)には次のように記されている(p157-、一部要約と下線おだずま)。
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 戦後の物価高や土建関係の多忙、食料欠乏と買い出しなどの混乱が続いた。この時期に、岩沼、岩出山、岩ヶ崎、飯野川に4つの高等学校が町村組合立で静かに開校され、数年ならずして南郷農学校と共に県立に移管された。名取、玉造、桃生の3郡には県立高校がなかった。栗原の西部にも高校がなかった。この地理的情勢に着眼した一視学が、高等小学校に附属していた廃校の運命にある、町立実科女学校を高校に昇格することを考え、各町に出向いて説きまわった。
 当時の飯野川の五島町長、佐藤カゴ屋の主人、高良印刷店主、岩沼の森喜吉前市長、当時の石垣町長、岡崎元町長、岩出山の富岡小学校長、髙橋源治医師(現古川市)、坪井亘先生、岩ケ崎の千葉惣小学校長、太宰作右衛門元町長、三浦薫、岩林豊平氏、各関係町村の議員諸氏の当時の努力の様子が思い出される。南郷農学校県立移管に当っては、県会議員諸氏が大勢で視察にでかけた。米所南郷で餅ぶるまいをうけたという話もきいた。県立移管を最も喜んだのは、創立者の長者野田真一翁であった。
 このほか、桃生郡鹿又の実科高女が、髙橋軍治小学校長の不抜の見識により町立高校に昇格し、しばらく後に遅れて県立となった。いまの河南高校である。

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 佐々先生の説明だと、高等女学校を母体に県立高校を実現したのが、岩沼(名取)、岩出山、岩ヶ崎に加えて、飯野川高校(廃校)、河南高校(現石巻北高校)がある。もっとも河南高校は学校組合をつくらなかったようだ。各町に出向いて回った一視学とは佐々先生ご自身のことかも知れない。それはともかく、名取高校と似た事例が宮城県内で他にもあるのだ。県としては、県立にするためには単独町だけでなく周辺の村ともよく協議調整して体制整備と施設整備を求めたのだろうか。
 次に、『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』(昭和50年3月、企画編集宮城県教育委員会)から、関連する記載を探してみたので、下に掲げる(おだずま要約と下線)。
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【組合立高校や県立移管に関して】
 昭和23年3月31日告示第111号によって、4月1日県立高等学校を36校設置することが定められた。36校は、男子主の普通科9、女子主の普通科11、農業科10、水産科2、工業科3、家政科1である。このほか、市町村立、組合立の高校としては、仙台高校(以下「高校」を略)、仙台工業、仙台商業、仙台図南、塩竈、塩竈女子、石巻商業、石巻家政、大河原、名取、志津川、岩出山、岩ヶ崎、飯野川、鹿又女子、村田、津谷農林などであった。これらの高校のうち、昭和24年度中に県立に移管されたのは、志津川、岩出山、名取、飯野川、岩ヶ崎、津谷農林、大河原の各高校である。
【定時制分校に関して】
 働きながら学べることから入学者が多かったが、問題を抱えていたのは分校。数が多すぎて、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。
 第2 分校設置は市町村又は一部事務組合の地域とする
 第3 一分校の6粁以内に既設分校ある場合は、之を廃止して組合立の独立本校を設置することができる。又、新たに分校を設置しようとするときは、隣接町村の修業希望に応じて組合立の独立本校を設置することができる
 一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格したのである。

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5 各事例について

●岩ヶ崎高校(学校HPから)
  昭和16年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎実科高等女学校
 →昭和18年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等女学校
 →昭和23年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等学校(男女共学、募集定員200)
 →昭和25年2月 組合立に移管(1町6村=岩ヶ崎、文字、栗駒、尾松、鳥矢崎、鶯沢、津久毛) 
 →昭和26年4月 県立移管

●岩出山高校
 『岩出山町史 通史編・下巻』(平成23年11月、発行大崎市、編集岩出山町史編さん委員会)から引用する。一部おだずまで要約と下線。
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 町財政の厳しい中で、新たに中学校の建設も必要となる上に、高等女学校は廃止してはどうかとの声も出てきた。しかし、教育関係の有識者によって岩出山高等女学校を存続させようとする動きも現れた。町立の高等女学校ではあるが、近隣の玉造郡2町6村から生徒が通学していることを踏まえて、廃止の危機を乗り越えるには、県立に移管することで存続させようとの運動が展開された。昭和21年11月、郡内町村会で県立移管の請願が決定された。
 しかし、県立に移管させるためには「新制高等学校実施の手引き」に定められた基準を満たすことが条件であり、校舎の増築が必須の課題であった。昭和22年に町議会や建設促進委員会の活動、それに卒業生のバザーによる募金集めなどを経て、岩出山町議会では新校舎建築を決議し、工事費を予算化。昭和23年2月玉造郡内町村会で、新制高校が(小学校中学校より一年遅れの)昭和23年4月より施行されるまでには県立移管が難しい状況を踏まえ、とりあえず玉造郡内町村組合立としてスタートさせ、費用も分担することなどを決定した。

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  昭和4年 岩出山町立宮城県岩出山実科高等女学校
 →昭和18年 岩出山町立宮城県岩出山高等女学校
 →昭和23年4月 組合立に移管(玉造郡2町6村)
  「玉造郡二町六ヵ村組合立宮城県岩出山高等学校」となる。組合構成町村は、岩出山町、鳴子町、東大崎村、西大崎村、一栗村、真山村、川渡村、鬼首村。必要経費は岩出山町が50%を、郡内他町村が50%を負担することとした。川渡(中学校)、真山(小学校)に分校設置。(上掲町史から)
 →昭和24年4月 県立移管

●飯野川高校
 『河北町誌 下巻』(昭和54年8月、著者河北町、編者河北町誌編纂委員会)には各学校の年表が掲げられている。飯野川高校の部分から一部を引用する。おだずま要約と下線。
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 昭和2年 飯野川高等女学校(本科57名入学)
 昭和4年 補習科設置
 昭和23年 新制高等学校として認可(組合立)、管理者として飯野川町長五嶋三右衛門引継を施行。4月宮城県飯野川高等学校開校。定時制を設置、大川、中津山、二俣に定時制分校。
 昭和25年3月 校舎移転(飯野川旧屋敷元桃生郡役所跡)、4月県立移管公布。
 昭和26年 定時制二俣分校廃止、定時制十三浜・桃生分校認可
 昭和34年 定時制桃生分校と中津山分校を廃止し桃生町分校設置
 昭和40年 大川分校廃校
 昭和41年 桃生町分校廃校

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 飯野川高校の学校組合構成町村はわからなかったが、分校のあった桃生、中津山、二俣、大川、(本吉郡)十三浜などが参画していたのではないか。
 なお、平成22年閉校し、校舎は現在、石巻北高校飯野川校である。

●河南高校(現石巻北高校)
 『河南町史 下巻』(平成17年、編集河南町史編纂委員会、発行宮城県河南町)から、経緯をまとめてみた(おだずま要約、下線)。
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 ・大正13年12月 宮城県鹿又実科高等女学校として認可。
   本科2年、補習科1年、専科1年。定員120名。
   鹿又村素封家高橋三郎が女子教育の重大さを認め、資産を寄附創設。
 ・大正14年4月 鹿又小学校の一部を使用し開校
 ・昭和18年 高等女学校令改正により宮城県鹿又高等女学校となる。本科2年、専攻科1年。定員300名。
 ・昭和21年4月 学制改革で修業年限3カ年となる
 ・昭和23年4月 学校教育法制定により宮城県鹿又高等学校となる。定時制併置
 ・昭和41年 校名変更により、宮城県河南高等学校
  (前谷地高校を廃止。県立農事講習所が閉所)
1966年(昭和41)までは、鹿又高等学校、前谷地高等学校、農事講習所の3つの高等教育機関が存在した。これらを統合して県立の高等学校を創立しようとする動きが以前からあり、同年4月1日に「宮城県河南高等学校」としてスタートし、1968年(昭43)4月には県立移管が実現したのである。

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 女学校時代と戦後の鹿又高校は、鹿又村立だったと思われる(鹿又村など5村合併による河南町の成立は昭和30年)。
 次に、『河南町誌 上』(昭和42年3月 編集河南町誌編纂委員会、発行河南町)を見てみた。河南高校の創立と県立移管に関して、以下に要点を記す。
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・昭和34年 町議会で校地の購入を可決
・昭和35年 PTA校地獲得実行委員会開催
・昭和37年 宮城県・鹿又高等学校校地造成促進委員会発足
・同    鹿又駅向かいの耕地24枚(8000坪)買収を町議会で採決
・昭和39年 町議会で本校新校舎建築予算議決
・昭和40年 校舎落成記念式(旧鹿又高校分)
・昭和41年 第二期工事竣工(農事講習所分)
・昭和41年から町立河南高等学校発足
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 昭和41年に3施設統合により(形式は鹿又高校の改名で)宮城県河南高等学校が河南町立としてスタートし、43年に県立に移管した。(上記要点抜き書きでは省略したが)上記の『河南町誌 上』には、町側の県への陳情や要望の経緯と、施設を町が整備することを条件に県立に移管する協議が進められた関係資料が収載されている。
 なお、平成22年に石巻北高等学校となる。飯野川高校を併合した形である。

●米谷工業高校

 米谷工業高校は、学校組合の事例として取り上げる。同校の場合は組合立の期間が長い。上記の『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』の記載のように、県の基準に沿って、昭和27年に分校から本校に昇格する際に組合立としたもののようだ。
 ここで、『東和町史』(昭和62年3月、監修佐々久、編纂東和町史編纂委員会)から関係する部分を読んでみた。以下に(おだずま要約)。
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 宮城県登米高等学校定時制米谷分校として昭和23年7月、米谷公民館を教場として発足。まもなく米谷中学校を借りての夜間の学習であったが、土日は昼間通学もできた。次第に米谷地区の近隣の地域からも入学者が増加。昭和26年、米谷中と浅水中が合併して米谷中校舎が全面的に空いたので夜間から民間教授への切り替えができるようになった。そこで、同年4月から、昼間週3日授業になる。
 独立の気運はこのころから次第に高まり、隣接の米川、浅水、錦織と4ヵ町村による組合立の議がまとまり、県に設置認可申請をし、昭和27年4月米谷高等学校として独立設立が認可された。
 定時制課程の独立校となったが、課題は教育課程の検討。地域の農林業に就くものは30%程度に過ぎず、商工業や家庭科が望まれた。また、独立校舎建設の課題は、昭和29年米谷町議会が独立校舎建設を議決、昭和30年7月落成。教育課程も普通科と家政科とした。独立校舎を契機に全日制課程の併置と県立移管の気運もまた高まってきた。
 昭和32年5月東和町が発足し、東和・中田両町の組合立高校となったが、議会、組合議会、組合教育委員会等が一体となり県立移管と工業課程(全日制)併置の陳情請願を行った。昭和33年4月、工業課程(機械科)が認可され、生徒は、週6日(1から3年生)、週1から2日(4年生)となり実質的に全日制に。昭和36年4月1日、宮城県米谷工業高等学校が設立認可(機械科、電気科、自動車科)。翌37年4月1日県立移管がなる。

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以上から整理すると、次の通りだ。
  昭和23年 宮城県登米高等学校定時制課程米谷分校(米谷町立であろう)
 →昭和27年 組合立(米谷町、米川村、浅水村、錦織村の4町村)に移管、組合立宮城県米谷高等学校
 →昭和36年 組合立宮城県米谷工業高等学校
 →昭和37年 県立移管
 (平成27年閉校)

■関連する過去の記事(組合立学校)
 東北の組合立学校(08年6月19日)
 明星中は公募による命名だった(10年6月21日)=明星中学校は組合立だった
■関連する過去の記事(岩沼と名取の関係)
 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日)
 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)






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最終更新日  2024.04.02 00:01:13
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