
写真は今から100年以上も前の明治42年末から明治43年初めに撮影されたもので、跡見学校(現跡見学園)の前で撮られたものです。
既にHPに掲載していたものですが、この写真が先日フジテレビ系『その顔が見てみたい』に掲載されました。
番組によると、明治40年頃に日本で初めてのミスコンテストが開催され、それ以降女性のオシャレが流行したとの事で、女学生の頭につけてるリボンがそうした流行だったとの事でした。

写真を拡大すると、確かに女学生の頭にはさまざまなリボンが付けられているのが判ります。
そしてこの写真が今月11月いっぱい、跡見学園の車内中吊広告として山手線を走っています。
跡見学園の依頼で写真をお貸ししましたが、100年前と現在の女学生たちの写真が並んだ好感の持てるポスターで。
詳しくはHP内《明治43年頃・跡見学校》をご覧下さい。
昭和からの贈りもの

写真は、先に紹介した大正8年刊行の東京府史跡の中の1枚です。
この建物は霞ヶ関の現在は外務省がある場所にあった筑前福岡藩黒田家上屋敷の侍長屋です。
明治末頃から大正初期に撮影されたと思われますが、福岡藩黒田家の屋敷跡に明治になって外務省が置かれた事から、通称【外務省長屋】と呼ばれていました。
写真を拡大すると、石垣の周りには堀が伸び、右端には立て札も見えますが、きっとこの長屋の解説などが書かれていたと思われます。

次の写真も侍長屋ですが、こちらは【神田橋内長屋】と呼ばれ、旧一橋家上屋敷の侍長屋です。
造りは下見張塗家造で窓の形状は縦格子の?子窓(れんじまど)・(武者窓)です。
現在の神田橋から一ツ橋の内側一帯がかつての一ツ橋家上屋敷で、明治時代には近衛騎兵連隊が置かれ、今は気象庁や東京消防庁がある所になります。
その中でも神田橋近くにあったことから、【神田橋内長屋】と呼ばれていたようです。
各写真の拡大や細かい事は、ホームページ【昭和からの贈りもの】内《大正初期・侍長屋》をご覧下さい。
昭和からの贈りもの

写真に写るのは近衛歩兵第四連隊の面々で前列左から2人目の伯父をはじめ、全員の階級章がラインの上に☆がある【伍長】となっています。
伯父に聞いたところ
「これは皆同じ連隊の連中で、伍長に昇進した時に撮った写真だよ!」
「真ん中で勲章を付けているのは班長だよ・・・」
「ん?左の熊のぬいぐるみ?これは覚えていないな~」
との事でしたが、
「彼は同じ中隊ではないな・・・そうだ!これは連隊の新伍長が集まって撮ったと思うな~」
と言う事で、近衛歩兵第四連隊の新しい伍長が集まっての集合写真のようです。
平成23年11月で93歳となる伯父、は昭和17年2月に【乙種幹部候補生】として軍隊に入隊しました。
この写真が撮られた日付は書かれていませんが、軍隊に入隊して半年後の昭和17年の8月頃には伍長に昇進となりました。
半年で二等兵から伍長というと随分と早く感じますが、幹部候補生ならではだったようです。

こちらは昭和18年9月2日に撮影されたという記載があるもので、大学時代の同級生と一緒に撮った写真です。
伯父は前列右ですが、左隣の方は
「お~彼は仲が良かった遠藤だよ!キンポ2に行ったんだよ!僕がキンポ4で奴はキンポ2!宮城の護衛だよ!」
「後ろは三菱商事に行った伊藤で隣は輸入関係の仕事で海外やいろいろなところに行っていた奴だよ!」
「日曜に久々に皆で会って撮った時の写真だと思うな~。」
と思い出していましたが、卒業後の大学時代の旧友と会った時に撮影したようで、後列のお二人はこの時はまだ召集されていなかったようです。
因みに【キンポ2】とは【近歩2】=【近衛歩兵第2連隊】の略語で、同じく【キンポ4】は【近衛歩兵第4連隊】の事です。
近衛歩兵第2連隊は皇居近辺に連隊本部があり、その跡は現在も北の丸公園内にあります。
この他にも伍長昇進を祝う祖父からの手紙など詳しくは、昭和からの贈りもの【昭和17年・伍長昇進】をご覧下さい。
【昭和からの贈りもの】

たくさんの写真の中に、祖母の集合写真がありました。
少しピントが合っていなかった為に確認が遅れた写真ですが、かっぽう着姿だった事から戦時中の写真と思っていました。
バックは上野桜木の自宅近くの寛永寺の本堂のようで、祖母をはじめ婦人部の方々が写っていると思いながらパソコンで補正をしたら、肩の襷に【大日本国防婦人会】の文字が見えてきました。
と言う事は、上野桜木界隈での【大日本国防婦人会】の集合写真のようです。

【大日本国防婦人会】とは、昭和7年10月に当時の陸軍が中心となって発足した婦人団体です。
この時代には既に明治発足の愛国婦人会と昭和5年発足の大日本連合婦人会がありました。
この大日本国防婦人会は昭和7年3月に、出征する軍人を白いかっぽう着を着て湯茶の世話をして見送りする事を目的とし、【大阪国防婦人会】として最初に発足します。
発足当初は40人程度の会員でしたが、会費が無料から10銭程度で、婦人の労働奉仕が主体だったことから、主婦や婦人労働者を中心に会員数を増やしてゆきます。
これらの事に軍部も注目し、発足7ヵ月後には陸軍支援のもと【大日本国防婦人会】となり、 《国防は台所から》をスローガンに後に1000万人を超える団体となります。
各団体とも会員を募る際などから対抗するような時もありますが、戦時色が濃くなるにつれ、婦人団体の役割も少しずつ変わり、昭和17年には3つの団体が統合され【大日本婦人会】となり、20歳以下の未婚女子を除いて強制的に婦人会に組み入れられる事になります。
かっぽう着姿ももんぺ姿へと変わり、防空訓練や竹槍訓練など銃後の備えとしての軍事色が強くなりますが、終戦を機に解散する事になります。
古い写真の左には旗が見えますが、この旗のマークは大日本国防婦人会のマークです。
またよく見ると端には【大日本】という文字と【谷中第四會・・】の文字も見えます。

以上のように、大日本国防婦人会は昭和7年に結成され、昭和7年で17年には合併によって名称も変わっている事と、祖母やご近所の方々の顔立ちなどから、写真は昭和10年頃から12年頃に撮影されたものと思われます。
この他、愛国婦人会や大日本連合婦人会の事など詳しくは、【昭和からの贈りもの】内《昭和10~12年頃・大日本国防婦人会》 をご覧ください。
【昭和からの贈りもの】

上の写真は以前に掲載したの写真で、伯父が大学時代の同級生と一緒にダットサンに乗って、いわゆるドライブに行ったときの写真です。
この時は王子駅前のロータリーを出発した事までは判っていたものの、何処の橋か不明でしたが、先日都内のMさんから連絡があり、この橋は【戸田橋】ではないか?とのご指摘を頂きました。
早速古い戸田橋が掲載されているという、荒川知水資料館《あらかわ思い出アルバム》のホームページを確認をしたところ、写真に写るのは昭和7年に完成した3代目の戸田橋で間違いないことが判りました。
下の写真がそうですが、戸田市郷土博物館さまより許可を得て掲載しております。

この戸田橋は東京と埼玉県の県境にあたり、現在も4代目の戸田橋が架かっていますが、最初に橋が架けられたのは明治8年になります。
当時は木製の橋で長さ135m幅4.2mの有料橋だったそうです。
その後大正元年に再度木製の橋が架けられますが、関東大震災や洪水で破損したことから、写真の3代目の橋が架けられました。
尚、戸田橋が架けられる以前は【戸田の渡し】という渡し舟で行き来をしていましたが、既に江戸時代前の天正年間(1573~1592)には渡し舟があったようで、当時から主要な幹線だったことが判ります。
この橋が架かる街道は中山道(木曾街道)と言われ、日本橋を出発して最初の板橋宿と次の蕨宿の間となることから、この場所は江戸の要所とされており、また水運を利用した地の利から、幕府公認の河岸も置かれました。

現在は幅が21mという大きな戸田橋が架かっており、新しい4代目の橋が架けられると写真の3代目の橋は取り壊されましたが、戸田橋の親柱のみが板橋区の小豆沢公園及び戸田市の戸田市立親水公園に現在も残っています。
東京側の小豆沢公園に行くと、そこに橋があったかのように、1対の親柱が並んでいました。
そして解説には戸田橋の由来と共に、2代目戸田橋と東京オリンピックの際聖火ランナーが戸田橋を渡っている様子なども描かれていました。

改めて伯父に『この橋は戸田橋のようですね』と言ったら思い出したようで、上の写真を見て
「そうそう戸田橋だ!外語学校の貿易科の友達と3人で行ったんだよ!」
「途中でエンストしてな~大変だったよ!」
「彼は遠藤君だ!丸ビルの愛国工業にいってな~社長までなったけどな~」
とまたいろいろ思い出していました。
Mさんのおかげで、また一つ判らなかった昭和の記録が判明しました。どうもありがとうございました。
その他詳しくは昭和からの贈りもの内【昭和13年頃・戸田橋】をご覧下さい。
昭和からの贈りもの


寒さが一休みの3月6日に千葉県旭市干潟公民館に行って参りました。
3年前に引き続き2回目の童謡コンサートです。
今回はプレゼント用の風船をステージ上にいっぱい飾って子供たちを迎えました。




会場には180名程のお子さんやお父さんお母さん。
そしておじいちゃんやおばあちゃんと一緒の皆さんがおいでくださいました。
子供たちはとても元気で、《はるがきた》や《どんぐりころころ》など知っている歌になると、大きな声で歌ってくれましたが、逆に最近は歌わないのか、《背くらべ》などはじ~っと聞いてくれました。
今回はご父兄の皆さんも多いとの事で、《背くらべ》も歌いましたが、やはり最近はこの歌は歌う機会が極端に減っている童謡ひとつのようです。




今回のコンサートはパーカッションのクツノユキヒデさんと、キーボードの白石公彦さんにもお手伝い頂きましたが、途中の楽器コーナーの中で、特にクツノさんのタンバリンのさまざまな演奏には大人の皆さんからも大きな拍手が響き、白石さんが奏でる不思議な音には、皆さん不思議そうな顔をして聞いてくださいました。


今回は1部と2部に分け、前半は四季の童謡と楽器コーナーが中心で、2部は音の《表情コーナー》や《昔話》、そして《楽器で遊ぶコーナー》でしたが、休憩時間に準備したのが写真のようなフィルムケースとシール。
そして大豆やサンゴのかけら、ビーズとマジックペンです。
2部は《さまざまな短い音楽を聴いてどんな感じがするか?》という音の表情のコーナーでしたが、『たのしい感じ・・・』『うれしい感じ・・・』『怖い・・・』は当然ながら
『ダンスしている感じ・・・』
『誰かが後ろからやってきた・・・』
といった答えも聞こえてきました。


音の表情コーナーでは大きな声で答えてくれたり、笑ったりとさまざまな声がこだましていましたが、むかしばなしの音楽がはじまり、お話が始まったら一気にシーンとなり、みんな注目して聞いてくれました。


後半になると、ひとりの女の子がステージの前に来て、目の前の風船を掻き分けて、被りつくようにして舞台を見ていました。
目の前の風船に興味があったのか、風船が邪魔だったのかは判りませんが、可愛いすぎるひとコマでした。


楽器の演奏コーナーではたくさんの子供たちが手をあげてくれましたが、みんな元気に演奏をしてくれました。
特に兄弟とお母さんの3人で参加してくれた親子さんは、3人がしっかり握っての演奏で、逆に引っ張りすぎて音が響きにくい感じでしたが、逆に一生懸命さがこちらまで伝わってきた演奏でした。




今回は舞台に上がれなかったお子さんたちの為に、《フィルムケースのシェーカー》を全員に作ってもらうコーナーも設けました。
休憩中に用意したケースや大豆、サンゴやシールなどを使って作りましたが、子供たちは真剣にペンを握って好きな絵を描き、世界にたった一つの手作り楽器にチャレンジしてくれました。




そして自分が作った楽器を手に《おもちゃのチャチャチヤ》を全員で並んで演奏しましたが、楽しそうなお子さんの笑顔が印象的でした。

最後はお子さんたちに風船をプレゼントをして最後の曲となりましたが、今回は休憩を挟みながらも2時間近いコンサートとなりましたが、子供たちは飽きたそぶりも見せず、最後まで元気に全開パワーで楽しんでくれたようです。
干潟公民館の職員の皆様にも大変お世話になりました。
またこの場所で楽しい時間を過ごせたらとおもいました。
お星さまの贈りもの 鞠村奈緒

前述の【昭和17年・近衛歩兵第四連隊大島隊】と同じ兵舎前の写真が何枚かありました。
伯父によると、大島隊の面々が写っているとの事でしたが、何人かの階級などから昭和17年の写真と思われます。
上の写真には伯父が写っていませんし、ネガがいつものカメラのネガだったことから、これらの写真は伯父が撮影したようです。
こちらの写真も同じ兵舎前です。
立っている方の後には塔のようなものが立っていますが、よく見ると、【射撃優勝中隊】と書かれているのが判ります。
また、足元には何か立てかけるようなスタンドらしきものが見えますが、これは銃を掛ける時のもののようです。(下右側の写真)

今年で93歳になる伯父には、射撃優勝中隊のいきさつは記憶がないようでしたが、兵舎前こうしたものが建っていると言う事は、配属された近衛師団第四連隊大島隊は、射撃の大会で優勝した中隊ということのようです。
最初の学徒出陣によって軍隊に入営した伯父ですが、しばらくはこの青山の大島隊に所属することになります。
その後、昭和18年に【近衛歩兵第四連隊補充部隊】として甲府へ移動となり、最終的には伯父はスマトラへ赴く事になります。
この他の写真などは【昭和17年・射撃優勝中隊】を御覧下さい。
昭和からの贈りもの