|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
ケイ2959の日記 [全59件]
![]() ・・・洛陽というのは、宋代において衰微するまでは,大した町であった。唐代では、首都が長安であったとはいえ、なお、副首都の位置をたもっていたとされる。 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方まで光芒を放っていたが、その後背地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力を持たなくなり(長安の消費人口が大きすぎるため)食料その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。 このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙(ギョ)がそなえられていた。 皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。 百官を連れて来た。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。 玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食う事がしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたと言う。 江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食料が洛陽まで運ばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。 その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうがてっとりばやく、そう言う発想で洛陽への行幸が営まれた。 九世紀には、日本僧の空海も円仁もこの町を通った。 / ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長安から北京へ 司馬遼太郎(中公文庫) 洛陽は今度の旅で唯一、街を歩きたいと思った都市である。洛陽市の町々が観光地としての位置づけであった。 京都が西安(長安)なら奈良が洛陽といった感じで洛陽を想像していた。だから、小燕との打ち合わせの時から、洛陽は一日市内をブラブラと歩き回りたいから、2泊にしてね。と頼んだ。 だから、昨日、ジャオさんの車で洛陽入りをした時はとても胸がドキドキしていたものだ。5年前、初めて西安の城内に空港バスで入ってきた時と同じ高揚があった。 しかし、車中から眺める街の風景は余りパッとしない。 高層ビルの林立する整然とした都市というわけでもない、といって木々の緑で覆われた静かな古都といった感じもしない。 なんの特徴もない中国の中都市?僕の思い入れの強い洛陽は街の香りを捨ててしまったような印象がした。 成都や鄭州の市街地の華やかさを見てきたばかりのせいもあるけど、その夜、出かけた洛陽の歩行街(ブシンジェ)のうらびれた暗い光景が頭から離れない。 敦煌の莫高窟を見ていたのと、仏像にさほど強い関心がないせいか龍門石窟への期待感はさほど強くはなかったけど、あの川沿いに延々と続く仏像石窟を眺めた時はさすがに「ホーッ」と感嘆の声をあげた。 もっとも、又入り口(切符切り)で我がジャオ氏と係り官の激しいバトルがあり、とうとうジャオさんが負けて、ぼくが切符代200元ぐらいを払うはめになった。その間のトラブルタイム30分の後だっただけに、ホッとした後の感動だったのかもしれない。 さすがに有名観光地なので観光客の数は相当のものだった。ほとんどが中国人で、西欧人も結構目立ったけど、日本人は団体としてはいなかったと思う。 僕たち二人は橋を渡って反対側(東山)から石窟をながめたり、またまた長い石階段を上がる(香山寺)をめざした。 旅の間中、ぼくは何度思ったことだろう。 「もう、山の上にある寺には登るのをよそう。」と それにしても、この香山寺の階段はとりわけきつかった。 どこやらの学生たちと一緒だった。可愛い女の子たちがたくさん一緒だったので何とか上まで上がることが出来たがジャオさんと二人きりだったら,やめてたかもしれない。 しばらく行くと白楽天(白居易)の墓がある公園を訪れた。 洛陽への帰りに関林へ立ち寄った。 曹操が敵側になる関羽に敬意を表して建てたという関林は プランの段階からぼくが小燕子に頼んでコースに組んでもらったところだった。 もう少しさびしい処かと思っていたら、ここは経済(金儲け)の神様なんだそうで、中国全土から金持ちになりたい人たちが訪れるんだそうだ。 一番奥にある関羽の墓(まんじゅうのように大きな円の中にある)に行ってみた。 成都にある劉備の墓も大きかったけれど、ここの墓は三倍は確実に大きいと思った。 帰りの車中でぼくは言った。 「明日はボクひとりで洛陽博物館やら市内見物でもして 午後の汽車で蘭州に行きますから、ジャオさんはボクを ホテルまで送ったら鄭州へお帰り下さい。」・・・・と。 「メガンシー メイガンシー。ハイヨードーシージェン。 ウォ ダイニー ボーウーグアン クオイー」 注:大丈夫ですよ、まだ時間が一杯ありますから ボクが案内します。」 ということで、ホテルに帰らずに洛陽博物館に行くことにした。 余り期待もしていなかった博物館だったけどこれがとても内容の濃い博物館だった。 古いせいか、そういう意味では洛陽の市街地の雰囲気と似ている。豪華な、ゆとりのある内部ではなかったけれど、人も少なくゆっくり見学できた。あとで、ここの陶器・唐三彩は有名だど知ったのだけど、確かに圧巻だった。 カメラを車の中に置いてきたのが残念だった。 またジャオさんがなにかしきりにすすめてくれる。 「シンダボーユグアン マーチャーダ ・・・・・・・シンブシン ニーミンバイラマ?」 何やら新しい博物館を見に行かないか?と言ってるらしい。」ボクが分らないのか、今度はメモ紙に20元とか、馬とか、 書くので 「オーケーオーケー、可以(クァイー)」 あぁ いいですよ」というと、ニャリと笑って走り出した。 連れて行かれたところは洛陽の中心街にある広場(グアンジャン)である。そういえば広場の真ん中に工事の後がありクレーンがあり、大きなテントが張ってある。そして、馬の像があったように思う。 駐車場をみつけ車を降りた。 地下に降りていくと階段の途中で又料金所がある。あぁ、ここが新しい博物館で20元の入場料が要るというわけか? 何とそこは、3年ほど前に、ここに大きなスーパーを作ろうと工事を始めたら底から馬の骨や荷車がいっぱい出てきたらしい。 調査してみると、なんと紀元前700年から200年のころの周の時代というからあの西安で発掘された秦の始皇帝の兵馬ヨウより以前である。 今年2004年の4月というからごく最近にこの現場をそのまま博物館名にしたとのことで、真新しいパンフレットを貰ったのだが残念な事にボクが帰ってから送ってもらうことになっている郵送品箱に入れたままで今此処に無いのでそのパンフレットに書かれた新博物館名がわからない。 送って来次第、ここに書き込むつもりである。 それまでは馬荷車博物館みたいな仮名が付いていて、人々もその呼び名で呼んでいたらしい。 それは暗い地の底に、眼下にそのままの形で、綺麗に土を払い落とした馬の骨と、荷車の列が連なっている。 2000年前の馬のいななきが聞こえてきそうな感動的な現場がライトで照らされていた。 写真撮影が禁止されていたので現場をお見せ出来ないのが残念だけど、 上の原稿の博物館名も分りました。 以前2003年10月1日 周王城車馬杭博物館 開館
![]() 小柄な男が紙切れを振りかざしながらわめいている。料金所の中からは、それを否定するような大きな返事。 とうとうトラックを降りて詰め寄る男。 助手席から彼の奥さんらしい人も降りてきて、二人で抗議。 相手にしない事務所側。 20分ぐらい、後ろからクラクションを鳴らし続ける我が司机のジャオさん。 だんだんエスカレートして行く喧嘩。 しびれをきらしたわが司机のジャオさんがとうとう車から降りて行き怒鳴る 「なにやってるのか知らんが あんたら、ここでやりあわんで 横のほうでやったらどうや!車がよけいならんどるのがわからんか!!このアホども!」 今度は、トラック男と司机のジャオさんの言い合い。が始まる。 、 とまあ、喧嘩の場合は中国語も、カタカナ日本語も合わない。 何故か?関西弁が合う・・・・・・・・・・。 30分ぐらいしてやっとハプニングは終わった。 まだ日の高い4時過ぎには洛陽の街に入ってきた。 洛陽のことについては次の洛陽(ローヤン)編で書くとして ここらで少し小休止《休息休息!一点点》。 *旅も何日か続けているとホテルでの少々のトラブル(不都合な点は余り、気にならなくなってくる。たとえば、TVが点かなかったりすると諦めて観ない(観たくて点けるのではないので)。 お湯のポットが故障していたらミネラルウォーターの「アハハ「」で間に合わしてしまう。 お風呂のお湯にしても出さえすれば少々ぬるかろうと、湯量が少なかろうと、おかまいなし。 暖かい季節のせいもあると思うけど、不思議なもので、浴槽のないシャワーだけのホテルを続けて経験してしまうと、たまに浴槽があっても、何だか湯を貯めて入るのが気持ちが悪くなってくるから不思議なものだ。 上海や長沙市の三星ホテル(四星に近い)だと連泊すると、ベッドシーツなどを新しく変えてくれるけど、地方都市の三ツ星クラスになるときれいに掃除はしてくれてもシーツや洗面用具もそのままというところが結構多い。 たいていのホテルはベッドサイドに電灯のスイッチがセットされているがそのすべてのスイッチが100%機能しているところはなかった。もっとも、全部のスイッチをわざわざチェックするような客も珍しいと思うけど。 どこかのホテルで浴室のなかにインターネット接続端子(電話線)が説明つきで付いていたのにはビックリした。 一人で三ツ星ホテルに泊っているとたいてい按摩・足マッサージの誘いの電話が入る。いや、二人でも同性同志だとかかってくるのかもしれないが。慣れないと注意が必要だ。 言葉が通じないのでアンモアという言葉だけで、「ハイ、ハイ」と言ってしまうと、数分後、ドアfがノックされ、開けると、そこに立っている怪しげな小姐の怪しげな微笑に一瞬!「あれー!!」・・・と、いうことになる。 それはそうと、昨夜頼んだ按摩(正真正銘の)小姐はうるさかった。 年は18歳,名前は李とか言ってた。ホテル内の美容室からの出張とか、とにかくよく喋りまくる。次から次へとローヤン弁ではなしかけてくるので按摩の気持ちよさに浸っておれない。 おまけに力が弱い。お前、本当に、「アンモア小姐??」と言いたくなる。1時間60元が勿体ない。 市井の中国人と話す機会の少なかった頃は《生きた中国語会話編》とばかりに、いろいろ話をし、ときには、按摩中にメモをとりだし、漢字で筆談をしあった頃がなつかしい。 明日は朝、7時に司机のジャオさんが迎えに来る。 明日は龍門石窟と洛陽博物館それに関羽の首塚のある関林堂を観光することになっている。
![]() 「白馬寺は明日の予定になっていますけど、もしよかったら 洛陽(ローヤン)に行く途中なので今日イクドウデスカ?」 うかつにも僕はその名前を今初めて聞いたのである。 「バイ マー スー?ゼンモヤン?」白馬寺って何ですか? 彼は小燕から、届いていた「旅程表」を指差しながら 「ココニ、(写)カイテアリマス・・・白バイ馬マー寺スーです。」 ・・「当然(ダンラン)可以(カーイー)!」いいすよ! ・・・・白馬寺については、そのような訳で実はよく知らない。 案内役のジャンさんも、ここの入場口で案内入場を拒否された。30元かの入場券が必要とのことで、僕もあまり興味がなかったのと、もう呪文の案内に辟易していたのでジャン氏には「スグ見てきますから、30分ぐらい、ゆっくりしていてください。」と言って中に入った。 しきりにジャンさんが「第一次ディイーツー」と言うので、何かが一番なのだろうぐらいの感じだったけど、本当は中国で最初に建てられた寺院だそうだ。 インターネットで捜して、どなたかの説明を拝借した。 ・・・・・・・・ 洛陽郊外にあるこの白馬寺は中国で最初に建立された仏教寺院であると言われています。白馬寺は後漢明帝の永平11年(68年)天竺から仏典を白馬に積んで来た2人の僧侶を開祖すると言う。 山門の両側には、2頭の白馬の石彫があり、境内の東西に、高僧(竺法蘭と攝摩騰)の2人の墓があります。2人の高僧は沢山の経典を持ってやって来ました。 注:実は別な旅行本の説明ではこんなことが書いてありました。 参考に転記してみます。 ・・・・・・中国最初の仏教寺院とされる白馬寺(バイマースー)は、洛陽の東に立つ。この寺の起源についたは興味深い逸話が残っている。 後漢の時代の紀元64年、明帝が宮殿の前の空を神が舞っている夢を見た。占い師に夢の解釈を尋ねたところ、それは仏陀に違いないという答えが返ってきた。 そこで帝は二人の僧侶をインドに送り、仏教の経典を持ち帰るよう命じた。数年後、二人は二頭の白い馬に乗り,経を抱えて戻ってきた。 これが中国に初めてもたらされた仏教経典であるとされる。 経典を保管する為に寺院が建てられ、2頭の馬にちなんで白馬寺と名づけられたというのである。 現在残っているのは後世に建てられたものだが、寺院には1世紀まで遡る事の出来る歴史の記録が残っている。内部には二つの墓があり二人のアフガン僧が永遠の眠りについている。・・・・・ 白馬寺と言う寺名については諸説あり、正確には解らないようである。地名説。白馬が佛典を乗せて来たので、それにちなんだ命名とかいろいろあるようだ。 洛陽に白馬寺が建立された後、各地にも同名の寺が造られたと言うことである。長安にも建康(南京)にも白馬寺と称する寺があったそうだ。 現在の白馬寺は明の嘉靖年間(1522-1566)に大修復され、清代にも1度、解放後の(1961年)にもあったようである。 本堂には(経幢)円形の石柱に佛号・経文を刻んだものと、元代の碑刻は共に芸術性が高いと言われている。 境内には天王殿・大仏殿・大雄殿と言った伝統的な四合院形式による建物が歴史を感じさせてくれる。 大雄殿の東西に元代に彫られた18羅漢像があり、白馬寺観光の中心的なスポットと感じた。 東側に金代の大定15年(1175)建立の斎雲塔と言う石塔が建つている。四角13層、高さ24mでこの寺院のシンボル。馬寺鐘声・『洛陽八景』の一つ。明朝・嘉靖34年(1555)の鋳造で重さ2,5。 面白いことに、この鐘の音にこたえて洛陽東門にある鐘も共鳴すると言う。二つの鐘の周波数が同じなので、こういう現象が起きるそうでである。ここでは「馬寺の鐘音、西にこだます」と言われている。 丁寧な説明に感謝!! 白馬寺の見学は久々に説明役に気を遣わなくて(はっきり言うと演技をしなくていいのと)寺院が古い割には綺麗に維持されているのと、これは、何と言ってもいいのは、階段があまりない、全体が平地で公園のような感じがしたりで、とても快適な?お寺だった。 さて、メモに書かれていた今日の経費(入場料)は・・・ 少林寺入園料 150元 とても高いと思いました。 食事(昼) 40元 とても高いと思いました。 土産に買ったTシャツ(5枚) 160元 骨筋肉痛用薬 100元 達磨和尚の写し絵(松間さんに) 20元
![]() 7:30 司机の趙さんと一諸の朝飯を食べ僕は彼のでっかいマイクロ車に乗って少林寺のある嵩山へと向かった。 華天の小燕が作ってくれた日程表によれば、今日の見学地は 道教・中岳廟・・・中国最古の道教廟 嵩陽書院・・・・・古代四大書院の1つ。 少林寺・・・・演舞庁 塔林・・・・少林寺の歴代和尚の墓地 白馬寺・・・・中国天下第一寺 ・・・・・洛陽へ ・・・とある。 今度の「中原ぶらり旅」は僕としては珍しく事前の旅プラン無しの行動をとることにした。具体的に言うと、今までの旅の場合、行く先々の観光地の詳細を「地球の歩き方」などで、よく調べ、所在地を含め穴場なども、そして、名物や土産品も事前リサーチするのが通常の僕のパターンであった。 今回は何故か?何もしたくなかった。今日の場合も1つのキーワード《少林寺》だけ知ってて、見学し後は鄭州には戻らずにそのまま洛陽に行く。 ・・・それだけだったので小燕のいろいろ考えて立ててくれたプランにはあまり関心が無かったのが本音である。・・・・というより、中国に来てから、あまりのお寺参りの多さに、いささか食傷していたというのが、本音かもしれない。 ホテルに戻ってから土地の「旅行地図」どこでも大体、5元。これだけは必ず買った。を眺めて足跡をたどった。これも、今までとは逆である。 各スポツトの説明は勿論すべて中国語だし、おまけに今説明を受けているところがどんなところなのか?予備知識も無いわけだから、司机の趙さんも、一生懸命説明してても本当は張り合いがないのだが、そこのところは、僕の演技力でカバーした。 言葉の最後の単語をオーバーにリフレインつまり繰り返すのだ。 例えば、年代が分ったとすると、すかさず 「オゥ!!3580年前ですか?」 「オゥ! サンチェンウーバーニェン イーチェンマ?」 又は「オゥ!真的? オゥ ジェンダ マ?」 あとは、合間合間に「対 トイ、対了 トイラ」とか、返事を入れれば よい。 ときには「明白了馬?」と、くるのでこれは簡単である「明白了!」 司机のジャン(趙)さんは大いにご満足の様子なのである。 又、感心するほど彼はいろいろと詳しかった。ときには本当の正式ガイド(胸に写真入カードをぶら下げている)の説明を聞いてる中国人観光客さえが彼の説明の方に鞍替えしてくるぐらいだったから。 それにしても、《中岳廟》は中国最古の道教寺ということで、面積は37万平方メートルで殿堂や楼閣などを合わすとその数400を越えるというとても立派な廟でした。 中には巨大な、今まで見たことも無い大木がいくつかあった。彼がひときわ熱の入った説明をしてくれたのだが分らなかった。 一応、大いに分った振りをして「オーオー ミンバイラ!!」と、慌ててデジカメを構えシャッターを切った次第。ツライデス! 注:帰ってから本で調べてみたら、この古木は《中岳廟》二あるのではなくて、崇陽書院にあることがわかった。 崇陽書院は宗(960~1279)の時代に作られ、儒教の四大書院のひとつだった(以前は仏教と道教の寺院でもあった)その他の書院は湖南省・長沙市の岳麓書院と江西省にある。 注目すべきは2本の古い柏の木だ。これらの木は紀元前110年に嵩山の登った漢の武帝によって、大将軍と二将軍の位を授けられたとされる。 中岳廟はそこから北東、嵩山で最も高い峻極峰に登る途中にあるらしいことがわかった。どうやら我が司机のジャオさんは先に《中岳廟》にのぼりまだ上に行こうとしたら階段の登り口で一人の老夫人に行く手を拒まれたんでした。 「ここから上は工事中で上がれません。」と言われ。 いまここに嵩山・少林寺のマップが無いのでそのとき書き込んだであろう足跡がわからない。 故宮を真似て作られたという峻極殿はとても素晴らしく、変わっていたのは石造りの亀が石碑を背に乗せたのがあり、外国人観光客がパチパチ写真を撮っていたので真似をして写していたら、すかさず、わが司机のジャンさんが傍に来てながいながい呪文が始まった。 お恥ずかしい事に、疲れてくると、僕の聴能力も初心中国語学習者とかわらなく、呪文に聞こえてくる。 さて、少林寺での昼食は何処で食べたか、説明がしにくい。 不思議な体験だった。 最初、割りと大きな食堂ホールに行ったけど、そこから別なところに案内された。西洋人が20名ほどチェックインしようとしているフロントのようなところの横の小さな入り口を入ったところにある小部屋と言った感じの場所だった。 まさか、ホテルの食堂でもあるまいし、 それにしても、ここがホテルだとしたら2星クラスだろう。 司机のジャンさんは結構慣れた感じなので初めてではないのだろう。食事はセルフになっているが、客は4,5名、この付近の武術館で修行しているような外国人青年など、セルフといっても、おかずの種類は4種程度、・・・・どうみても、一般客相手の食堂とは思えない。 ・・・そんなわけで、ここでの昼食シーンがとても鮮明に残っている。・司机のジャンさんに理由を訊けば分ったのでしょうが・・ この時の僕の脳神経は語学サイトが麻痺していたので訊く気にならなかった。 もちろん、とてもまずく、ほとんど手をつけずじまいだった。 演舞場での工夫(コンフー)は圧巻だった。 本当はあちこちにある武術館で少年たちの稽古シーンを見学したかったのだがショー化されたのもここでしか見ることが出来ないのでワクワクして約1時間余りを堪能した。 VTRにしっかり写っていた。もちろん、カメラは膝の上に置いてステージは目でしっかり観ていた。 上海雑技などでクルクル回ったり、身体の間接をはずしたりは観ていたが彼らの工夫は違った迫力のあるものだった。
湖南/桃源のウイグル人物語 95%の人は常徳市桃源県に住んでいます。東晋の陶淵明の「桃花源記」に述べた桃源県は長沙市から230キロ、常徳市から40キロです。小さいけど、30の民族が暮らしています。 ウィグル族、回族、土家族、苗族は人数多いです。宗教もさまざまありますが、仏教、道教、イスラム教、キリスト教、カトリック教が共存しています。桃源県の東部の14キロのところには楓樹ウィグル族回族郷です。総人口は30411人、ウィグル人だけは5327人です。 楓樹郷は小山の麓に位置して江の支流―白洋川が村の近所にくねくねと流れています。車で行くと、入り口の道端に「歓迎進入維吾尓族第二故郷―楓樹」と書いた大きい看板が立っております。 一月中旬に、新疆は凍りつくような寒空、風が骨にしみるほど寒いですが、一方、ここはは平均気温は零度以上で、並木がまだ青々としています。そうですけど、新疆人にとって暖房つかない部屋が外よりもっと寒そうで、なかなかなれません。こういう気候に慣れるように、湖南省のウィグル人は600年ぐらいかかるでしょうか。 ウィグル村の建物は湖南省の普通の建物と同じです。新疆のウィグル人の顔つきや着物のような人とも会っていません。 哈勒・八十将軍はここに来てからもう600年ぐらいので、回族などの民族と婚姻を結んで、顔つきがずいぶん変わりました。 普通、湖南弁と漢字を使って、ウィグル語とその文字を使える人もあまりいません。しかし、イスラム式の生活習慣がずっと守って続いています。 三、湖南省のウィグル人 翦氏父子:現代の湖南省のウィグル人の代表として、言うまでもなく、わが国の有名な歴史学者―翦伯賛です。また彼の息子翦天聡も華中科技大学の教授です。二人といえば湖南ゥィグル人はみんな鼻が高くなります。 ハフィャ:ハフィヤとは23歳の娘です。湖南ウィグル人の23代目です。顔を見るとウィグル族と想像できません。今、長沙市の新疆クチャ人のウィグルレストランでアルバイトして、もう一年ぐらいです。 「新疆ウィグル人と会って、たいへん親しみを感じて、だから、ここでアルバイトします。まるで、自分の家にいるようです。」と彼女は湖南弁でそういいました。暇あると、彼女も同僚のウィグル人からウィグル語を習います。 あるとき、「あなたはウィグル人ですか、それから、漢民族ですか」と聞かれると、彼女は「いったいどういう民族かより、中華民族の一部分ということはもっと大切ではないでしょうか 。私はムスリムです。故郷は新疆のハミです」と答えます。 彼女は新疆に行ったことがまだないですが、「新疆のウィグル娘がなんと綺麗でしょう。ウィグル語をしゃべるとき、歌を歌って言うようです。みんなも歌舞が上手ですね。今、一所懸命ウィグル語を勉強したり、仕事をちゃんとやったりして、新疆に旅行に行きます。」と彼女ウィグル式の帽子をかぶって憧れている顔で言いました。 歴史をたどって見ると、民族の移動は時々発生しました。例え、前漢時代の烏孫、唐の時代のウィグル族、元の時代、モンゴル族およびジンギス汗の西征であちこちに移動された民族、また清の時代にシボ族の西遷などです。 民族の溶け合うによって、社会も進んできました。歴史の車輪は誰も押しとどめられないまま進んで続いていきますが、その轍はまだよく見えます。 湖南ウィグル族はそのことでしょう。600年の間、顔も言葉もずいぶん変わりましたけれど、自分自身はイスラムを信仰しているウィグル族のことはずっと心の中にこだましています。 住めば都という道理、湖南省の桃源県に住んでいるウィグル人も湖南の独特的な風景になりました。人間仙境と呼ばれた桃源郷に幸せの生活がずっと続いていることをお祈っております
![]() 《長沙の食べ物情報について》 さて、ここらでここ長沙市の食べ物情報を書いてみよう。あくまで、僕自身の偏見と体験上の情報であることをお断りしてである。 滞在体験者からすればかなり貧弱な体験でお恥ずかしい。 忘れない為に書き留めておく、と、まあそんな感じと解釈して欲しい。 来る前に持っていた予備知識のうち、辛さ(唐辛子辛さと塩辛さ)はいつも,注文の際「不辛的!」「不辛的!」と注文するし、というより、同伴に、してもらっているので、さほど感じなかった。 また長沙人が口をそろえて「美味しいよ。」という蛇 も、チンワと発音する青蛙も試食はしてみた。いずれも、美味しかった。 蛇も元の形を想像しなかったら、「味口蛇」という料理は醤油味に煮て食べたけど不味くはなかった。 でも、続けていくつも口にするまでは行かなかった。特に、料理の皿の中にあるクルッと丸まった黒い蛇の皮を、美味しそうに食べる袁静さんをみていて、異国を感じた。 鄭さんなど、食べ終わると、お皿の上には脊椎と糸のよう細いあばら骨だけが残っていた。 スーパーの食品売り場にごそごそしているウグイ(亀)は結局、食べなかった。こんな形でヘビを売っているのを見た事はなかった。もひとつ、長沙人は犬が好物と聞いていたが、これも大げさな表現のようだ。 もっとも、鄭さんは「犬も、猫も美味しいよ。」とウインクをしてみせたけど。 食堂についていえば、「松花江餃子店」はお勧め店ナンバー1である 。 黄興路近くの解放路にある店(滋賀の竹岡健一さんご夫婦にお勧めメニューまで紹介して貰った店)と長沙駅から五一大路を西に向かって10分も歩くと右側にある「松花江餃子店」は共に10数回訪れた店である。 ベストメニューは焼き(ジャン)餃子(ジャォズ)に水餃子、中の具は何でも美味しい。 注文するとき注意しなければならないのが注文の仕方である。 日本のように一皿とか、一人前とかは言わない。一人前を2(アー)両(リャン)と、1両が約50g(5個ぐらい)最小注文単位が2両である。 竹岡さんに勧められたうちの3~4品をいつも注文する。一人前の料金が大体、20元ぐらいになり、学生3,4人で行っても60元を余り超えない。 今にして思えば、竹岡ご夫妻は、6種類ぐらいの注文をされたところをみると、僕に試食を勧められたのだろう。多分一番高かった牛肉の薄く切った醤油味は、その後は僕のオーダーからは除かれた。正式名は醤牛肉といい、一皿、25元ぐらいだったと思う。 白菜猪肉も美味しかったけど、その後は食べていない。恐らく、その時の料金は3人で100元は超えていただろう。気の毒なことをした。 さて、何といってもここの餃子に並ぶ人気メニューは「東北三糸」(糸の字はこれではない)という春雨、細切りキュウリに卵焼きをこれまた細く刻んだもの。酢醤油で混ぜる。 「小葱拌豆腐」という絹ごしトーフの上に小ねぎを載せ、醤油をかけてたべる。醤油の中に油が入っているのがなければ日本の冷奴である。 僕は溜まった油をすてて上から醤油だけを又、かけて食べる。 これにねぎのお餅も美味しかった。正式名は香甜糖餅、これは中国人はよく注文する。形は違うけど味はどこも似ている。要するに甘い餅を薄く延ばしたものである。 回数多く行った店では歩行者天国(歩行街ブシンジェ)の入口角にある日本料理店「火の国ラーメン」は日本人には安心して行ける店と言える。5回ほど行ったけど、不思議と日本語はどこからも聞こえてこなかった。従業員小姐たちの、下手な「イラシャイマセ~」の日本語以外は。 ラーメンは一回食べて止めた。20種ぐらいあって20元と、まあまあだけど、焼き魚(サンマ、ししゃも)のほか、コロッケ、サラダ、寿司も二個10元と異常に高いが味は悪くない。 日本感覚で食べたら500円で充分なので、日本の寿司を食べたいきにはお勧めである。みそ汁とキュウリのおしんこはサービスである。 もう、4年ほど前、ウルムチの日本料理店「平政」に馬麗春に連れて行ってもらった。 あのとき食べた寿司の味も忘れられなうほど美味しかったけど。実際は、期待感の薄さとの格差がないので,そう思うだけで、日本でだと、美味しい回転すしと違いはないのかもしれない。 と言ったら、「平政」の美人おかみや「火の国」の調理師におこられそうだが。 何時か、「かつカレー」を食べたことがあったけど、ごはんとルウの比率が、ごはん7にルウ3、その上に薄いトンカツが載っている。これも、味は悪くない、でも、なんとなく変だ。ご飯をたくさん残してしまった。 日本ではカレーを食べて、こんなにご飯を残した経験がないので奇怪である。そういえば、炒飯もいつも三分の一は残す。僕が小食なのか中国人が大食いなのか?疑問は解けない。 ここの「黄興路」近くに平和堂がある。そこの6階にあるブラジル料理店はおそらく長沙では指折りの人気店だろう。竹岡氏のお勧めレストランにも入っていたので、袁静さんご夫婦に連れて行ってもらったことは先に書いたが、あの肉の味と、ボリーユームたっぷりのサラダに惹かれ数日後、また出かけた。 日本語も少し話せる人気ブラジリアン(堺駿二に似ている)の柔らかい肉を切ってもらいながら、彼と日本語で短い会話を交わすのも楽しい。彼はここの主人なんだろうか?二度目なのに、顔なじみになってしまった。 30分程に一度ぐらい回ってくるのでいつも皿の上には彼の柔らかい肉がなくならない。他の人より多めに切ってくれるからだ。 6名ほどのコックがシュシュカバを持ってテーブルを回る。湖南料理と果物やサラダ、それにアイスクリームはセルフになっている。1人50元、土日は58元である。日本人が来たら、まず、連れて行きたいナンバーワン・レストランである。 食べ歩き、というほど食べに行ってはいない。殆どは、ヤオリン近くの庶民食堂か会社の食堂での昼ごはんで済ましている。いずれも4元から6元、ビール3元を加えても日本円にして150円ぐらいである。 味にも慣れてきたし、空心菜など、気に入りの野菜炒めも分ってきたので、済まそうと思えば、一日の生活費は300円(20元)もあれば充分過ぎる。 範先生とは、週一回は必ず行く「碧水藍天温泉」でこれまた、何でこんな料理が無料なのと思うほどの食事を食べながら、長沙の生活水準や中国事情、過去と未来の展望などをいつも語る。 分りやすく今の生活事情を言えばこうである。まず住まいで言えば、日本3LDKの各部屋を十畳程度にデラックスにした部屋で2万円足らずが一月の家賃という。 範先生の自宅(結構、豪華であるが、僕の家程度です。と、彼は言う)範先生は毎日、朝、9時から夕方6時まで、若い女性のお手伝いさん(一昔前の日本の女中さん)を月400元で雇っておられるそうである。 掃除、洗濯、料理(昼と夜)まかせで、食事は食べさせてあげてるそうである。それでも安い。一万円(750元)も出したら、お気に入りの若い女中さんが雇えると言う。「貧しい農村人口が中国は多いですからね」と範先生は言う。 1月の食料費や交通費、以外とかかる携帯電話代などを合わせて1万5千円(1200元ほど)会わせて4万5千円あれば、まずまずの快適生活は、今の中国では出来ることになる。範先生は言う。 「上海郊外の田舎に住む外国人の引退者(年金生活の夫婦)がとても増えてきています」と。ただし、マンションやマイカーを買うとなると日本と現状は変わらないという。 むしろ、贅沢品に関しては日本より金がかかると言う。 情報、文化、娯楽、治安のいい、上海、大連、青島などの郊外に家を借りて老後を過ごす方が、アメリカやオーストラリア、スペイン、タイなど、いわゆる顔から違う国でのんびり老後を暮らすより、中国の方が溶け込みやすいと思うのは僕だけだろうか? 言葉が分らない、通じないのはどこへ行っても同じこと、その個人の問題であろう。
![]() ホテルの洗面所、ぼくがホテルに案内されたらまず最初に覗く場所である。 ホテルの評価を、洗面ブースで決めてしまう人も多いと聞く。 四ツ星や五ツ星に泊ることの多い日本人ツアー客の場合は浴槽があるのは当たり前だから、その浴槽の形やシャワー設備の具合などで評価したりする。 ぼくの娘などは、洗面台に載っている洗面道具のバラエティさやドライヤーが付いているかどうかなどが、評価の対象であるようだ。しかし,二ツ星や三ツ星に泊るぼくにとって浴槽などと贅沢は言っておられない。 いきおい評価の対象はそのシャワー設備がいかようになっているかにかかる。 たいていの場合、シャワー室はビニールカーテンかプラスチックのドアで仕切られているが、 何にもないスッポンポンのタイル敷きにトイレと壁にシャワーがポツンと付いている所も結構多い。 それでも、充分な湯量と温度があれば文句はいえない。しかし、この二つの条件は入浴段階にならないと分らない。 「おぅ!なかなかいい設備じゃないか。」 ・・・と思ってもいざの時にしっぺ返しを食うことがよくある。 《紹興》のホテルはまさにその通りだった。四ッ星で、部屋は広く、外の眺めもよく洗面所もきれいだったけど、お湯を貯める段になってビックリした。お湯がでないのである。ホテルマンに来てもらったら 「こんなものです。ここは部屋の場所が設備から遠いので、申し訳ないが我慢して欲しい。」と言う。 「じゃあ、他の部屋に変わりたい。」と言うと、 「今日は満室で,どこも空いていません。」と答えが返ってきた。 5月2日、確かにその日はゴールデンウィークの二日目だった。 こんなこともあるから安心できない。 《洛陽》のホテルの洗面室にはバスはないけど何故か、サウナ室が付いていた。二日目に入ってみようと服務員に使い方を聞いたら、「知らない」と言う。 今まで、だれも入ったことがないそうなのだ、あきれたものだ。 トイレットペーパーはほとんどのところが節約サイズというのか、ロールの大きさが日本の三分の一ぐらいである。家庭でも、そろそろ新しいのを準備しなくちゃ。と思うほどの量しかない。 その新しい合理サイズのトイレットペーパーが洗面台の上に置いてあるホテルは多い。 一度、用を足して、サテ、紙は何処かな?と思って,捜すけど見つからない。 なんと、便座の真後ろにあるではないか?これにはビックリしました。 「いったい、どうやって紙をちぎるの?」 トライしてみて分かったけど、片手では絶対に紙は切れない事を知った。 是非お試しあれ! 、 貴陽の三ッ星はベッドサイドのライトが無かった。本を読んだりする人はいないのだろうか?モスク系のホテルだったので回教徒は寝る前は本は読まないのかもしれない。 ただ、ここのホテルの良いところは顔を洗う洗面台のすぐ横に飲料水の出る蛇口が付いていたことだ。この設備は中国の何処にもない優れものだった。 いつも、歯を磨いた後のうがいの時水を間違って飲まないよう気を使っていたけどこの設備だと安心して、水でうがいが出来る。 今回の旅で一番感じたことは、浴槽に浸かる。という、あのゆったりした時間を中国のひとびとは、知らないままで一生を終えるのか、ということだった。 反面、誰が入った分らない、ホテルの浴槽に、不潔で、病気がうつりそうで気持ちが悪いから入りたくない。という中国人の友人の言葉も分からないでもないような気もしました。 |一覧|Recommend Item
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||