着信あり
帰宅途中、冷えた通勤電車で本に没頭しながら、ふと携帯がきになりさわってみた。着信が3件、しかも留守録が3件。ちらっと見ると、嫌な予感がした。最後の3件目の留守録を聞くと、「え゛っ」。背筋が寒くなった。ちゃんと確認するために1件目を聞く『・・・・六年前のリベンジをすることになりましたぁ~、よろしく~。』「え゛・え゛・え゛!!!」な・ん・でぇー!!!!暫く動転し、独り言を口走る。電車でまわりが気になり、ようやく携帯を閉じる。・・・・六年前か・・・そうだったのか、六年も経つのか・・・。あの蒸し暑い空気が身体に纏わりついた気がした。六年前の私はマネージャーをしていた。祇園祭の山鉾巡行を終えた京都の中心地、京都文化博物館であるイベントを行う補助をしていた。あの夏はとびきり暑かった。毎日が打ち合わせと、当時職業訓練校で行っていた簿記検定の勉強で精一杯だった。今考えれば、あんな無茶なことは二度と出来ない。私の仕事は、ある先生をメインにしたイベントで、その先生が夢のようにおっしゃる事を一つづつ具体化していく事だった。その点に於いては、かなり優秀に出来たのではないかと思っている。その他は先生のお供をして打ち合わせをしたり、多少の先生の身の回りのお手伝い程度だった。イベントのポスターもチケットも手作りだったが、かなりその雰囲気にあった良いものが出来て、先生も喜んでくださった。チケットは文化博物館に置いて頂いた。少しは売れたようだった。博物館の方もポスターの効果だと褒めてくださった。まさに激動の三ヶ月だった。きっとその三ヶ月は先生にとっても長いものだったに違いない。お手伝いとはいえ、この関連のイベントは初体験で、全て先生の意思に沿うように何事にも了解を得ていた。私自身、細かい事が気になる性質なので、何とか良いものにしようと、逆に先生にプレッシャーを与えたかも知れない。すっかりと準備が整った前日、先生のお宅にお邪魔して、タクシーの手配の件などを確認していた。先生はお疲れになったのか、いつもの精彩が全くない。夕方には、大学時代からのご友人が泊まって下さって、翌日一緒に出発することになったが、先生のお宅を失礼したあとも心配が残った。実は京都では、祇園祭を挟んだこの時期の気候は、健康な人でも腹立たしくしてしまったりすることがある。まして精神的な弱点をもっている人への影響はいかばかりだったか・・・。翌日の午後お迎えに、先生宅へ伺う。先生のご友人が出てこられて、外で私に先生の症状を話してくださった。「今は、全く話せないのよ・・・・」古いご友人なので、先生がこのような時は何が起こっているのかよく分かっておられた。それを聞いた私は、「しまった、無理をさせ過ぎた」と後悔が押し寄せた。とにかく先生にお会いする。このように状態でも、自分が何をしないといけないかというところで、先生は耐えておられた。その夜は、先生の一人舞台だったのだ。実はこの先生のみが許可された名作を演じることになっていた。一般のお客さんも入れている、他に代われる人はいない。何とかご友人に手伝って頂いて、身支度をしてもらい、タクシーで会場に向かう。当然私の頭の中は真っ白だった。先生は極度の躁鬱症だった。それは以前から知っていたが、まさかこのタイミングで症状が出るとは思わなかった。多分それはご本人もだろう。タクシーの中で、先生をセーブできなかった自分をしきりに責めた。それと同時に、先生にリラックスしていただく為にごく普通に接しようとしていた。会場時間になっても先生は、控え室に用意された小さな椅子から立ち上がろうとはされなかった。協力してくださっていた、筝曲の先生や、その作品の関係者の先生に事情を説明しご相談したが、誰も判断する立場には無かった。もう一人に先生のご友人も駆けつけてくださって、先生を抱えるようにしてなんとかしようと努力してくださった。私は受付を開始し、心配して手伝いにくださっていた、先生との共通の友人に相談しながら時間が過ぎた。結局、その手伝いに来てくださった友人に、私の自身の判断を告げ、開演に望むことになった。二作あるうちの一作は短編だったので、先生は気力で演じてくださった。でも二作目は、一時間にも及ぶ大作だったので、どうしても先生の足が舞台に向かずに、一言も発する事も出来なかった。私は司会者として、集まられた方々に症状を説明し、お詫びした。断腸の思いという言葉を背負っていた。場内は静まり返って、お祭りムードは消えうせた。その後、筝曲の先生が数曲、友人として披露してくださり、その日のメインのゲスト(有名な作家のご子息)が、その日演じられる筈だった作品の著者の日常などをユーモアたっぷりにご紹介くださり、何とかイベントとして終了した。あの暑い暑い夏。古い舞台の別館ホールの匂い。挫折感で一杯になった夏。あの夏を着信は思い出させた。多分今回はもうお手伝いは出来ないと思った。