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2011年08月23日
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弁証法

弁証法というものがあります。テーゼに対して、アンチテーゼがあります。テーゼとアンチテーゼが、両方共、アウフヘーベンされる。揚棄されるのです。そうすると、ジンテーゼができるのです。
物質はすべて、弁証法的に存在しています。何かが存在すると、必ず反対するものができてくるのです。何かを考えれば、その考えに対して、必ず反対する考えがあるのです。
そこで、自分の考えと、反対する考えをつきまぜて、もう一つ上の考えに到達する。これが弁証法なのです。
現在、人間は生きています。これがテーゼです。これに対して、死ぬというアンチテーゼがあるのです。
人間はいつ死ぬか分からない。新約聖書にも、明日のことは分からないという文句があります。人間の命は、明日のことが、全く分からないのです。これだけでもまじめに考えたら、永遠の生命が分かるのです。この地球も、実は存在していないことが分かるのです。 人間は、地球があると思っていますが、人間の認識でそう考えているだけなのです。
生きていることは、非常に危険なことです。死があるからです。そこで、生きていることと、死を、目の黒いうちにだきこんでしまうのです。そうすると、生と死が一つになるのです。これを空といいます。
現在生きていると考えているが、明日のことが分からないというのは、今生きていることが、永遠に持続できるものではないということが分かるはずです。人の思想、人の経験は、ごくわずかの間しか通用しないのです。やがて、通用しなくなるのです。
これを見きわめるにはどうするかというと、自分は死なねばならないことを、はっきり見るのです。
生きていながら死を考えますと、生と死が一つになって、命が分かってくるのです。生だけを考えていますと、死ぬのですが、生きていながら死をだきこんでしまいますと、生と死が一つになって、現在、人間が生きているという生命観が、変ってしまうのです。
これがいわゆる般若心経の空であって、般若心経は、哲学的な理論を展開しているのですが、聖書は、誠の命を、イエス・キリストの復活という形で、歴史的に実証しているのです。そこで、いまだ見ない自分が、分かってくるのです。実は、これは、イエスと同じものなのです。
イエス・キリストと、68億の人間とは、同じものなのです。釈尊の悟りの空をつかまえたら、自分とイエスが同じものだということが、分かるのです。
そこで、自分は死ぬべきものではない、永遠の命をつかまえるべきものだ、ということが分かるのです。これは、架空の話ではない。歴史の話なのです。
地球の歴史には、死を破ったという、明々白々な事実があるのです。イエスが死を破ったという事実をつかまえれば、私達も、死を破ることは、必ずできるのです。肉体は朽ち果てますが、魂は死なないのです。
人間存在は、弁証法的に存在しているのです。地球もそうです。現在の地球は、未完成の地球であって、地震があったり、疫病があったり、台風も、洪水も、早魅もあります。
未完成の地球に、未完成の人間が住んでいます。これは本当のものではないのです。
未知の国、本当の世界は、イエス・キリストが復活したことによって、永遠の生命の実体という形で、はっきりと、歴史的に証明されているのです。この未知の国をつかまえたら、未見の我、死なない自分が分かるのです。
人間は、誰でも、死ぬのがいやです。死ぬのが一番いやなのに、人前で死ぬのがいやだという人はいない。いえないのです。なぜいえないかというと、自分がいるという思想にとらわれているからなのです。
生きているという自分の迷いに、とらわれているからです。だから、人見しりをするのです。命みしり、神みしりをするのです。そのくせ、死にたくないのです。死にたくないのに、死にたくないとはっきり言えないのです。これが、日本人のいくじがない所なのです。そのように、日本人の魂は、萎縮している。ちぢかんでいるのです。
生きている自分は、死んでいくにきまっているのです。そんな自分を、なぜ自分だと思うのでしょうか。もう一人の自分、死んでいかない自分、神に生かされている自分を、自分だと思えばいいのです。
生きている自分を、自分だと思うから、死んでいかなければならないのです。死にたくないのに、死んでいく自分を自分だと思っている。これは、魂が萎縮している証拠なのです。魂がひがんでいるのです。
日本人には、恐ろしいひがみ根性があるのです。大胆に、素直に、太陽の光を、そのまま受けとれないのです。日本の歴史の伝統によって、日本の社会的な常識によって、人間の魂がちぢんでしまっている。この状態を、打破する気持ちを持たなければならないのです。
自分が生きていると考えている人間は、必ず死にます。自分が生きていると思わないで、生かされている、宇宙の命によって生かされていると思えばいいのです。
私達の口は、宇宙の命の味を味わっているのです。私達の目は、太陽の光という宇宙の命を見ているのです。五官は、宇宙の命を見たり、聞いたり、味わったりしているのに、心がゆがんでいるのです。自分はだめだ、自分は死なねばならないと、勝手に思いこんでいる。
これを釈尊は、一切空といい切っているのです。五蘊皆空、色即是空という般若心経の根本原理は、常に心に銘記すべき妙薬なのです。
死にたくないという気持ちを、はっきり持つべきです。自分の気持ちを、天真爛漫に、正直に認めることです。これが、生かされている自分を発見する入口になるのです。
生きている自分は死にます。生かされている自分を発見すれば、死なない自分が分かるのです。
人間は、死ぬために生れてきたのではないのです。未知の我、世間の人がまだ気づいていない本当の命を経験するために、生れてきたのです。
時間は、瞬間、瞬間、流れています。時間が流れているということだけでも、人間にとっては、すばらしい事なのです。
人間は、新しい時間を、瞬間、瞬間、経験しています。手がきれるような、新しい時間です。この新しい時間を経験していながら、人の心は、十年前、二十年前の心で生きています。これが間違っているのです。
新しい時間に対して、新しい気持ちを持ちさえすれば、宇宙の命と一つになれるのです。瞬間、瞬間、新しく生きればいいのです。日に日に、新しく生きればいいのです。五年前、十年前の自分を頭において、古い寝間着のような過去をひきずっているから、いけないのです。
一切空という般若心経の原理にもとづいて、古い自分をすてるのです。古い自分をすてても、少しも損はしないのです。得をするばかりなのです。






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Last updated  2011年08月23日 19時24分08秒
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