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相変わらず雑誌の話だ、今週は「週刊朝日」がリニューアルされたが「週刊ポスト」を今日は取り上げる。
曽野綾子さんのエッセイにアフリカ南部でエイズと苦しむ男の子のために北海道の中学を卒業した女子学生四人が千羽鶴を半年かかっておった話に曽野さんは「人間の善意なら誰もが感動するはずだという安易な前提の基に書かれた記事たが、ここには無知と見当違いが幾重にも重なっている」と断ずる。千羽鶴をもって南アフリカまで行かねばならないユニセフの人はさだめし迷惑な話であったろうと続き、自分なら一キロある千羽鶴より一キロの抗生物質があれば確実に何人かの命を救えるのだから自分ならそちらを選ぶという。 そして話は続き「四人の少女たちは少しも悪くない。しかし彼女たちの行為が善意であってもあまりにも現実とかけ離れているその幼さを、誰一人指摘してやらなかった周囲の大人たちの無知は看過できない」「千羽鶴を折っていいことをしたと思い、悩みから解放されるのが一番卑怯なことであると、曽野さんの指摘は手厳しいが日本財団を運営していた人らしく話は現実的だ。 もう一つポストにはジャーナリスト江川紹子さんの「老い行く刑務所」という記事がある。 高齢の受刑者が増えているという話だ。 真面目に働くこともせず金もなくなって万引きを繰り返してはわざわざ警察に出頭し実刑判決になった人の話が載っている。 彼は「ルンペンはエライ。わしはルンペンはようせんわ」 路上生活者はいかにも大変そうだからわざわざ刑務所に入るのだという、「自由」はなくてもくってはいける、刑務所には正月のおせちもある。 満員電車に揺られ、住宅ローンを抱え、それでも必死に生きている多くの人々にとって納得のいかない話ではある。 善意志を強調し、行為の動機の純粋さをといたのは言うまでもなく哲学者カントだ。 しかしカントには神による来世での報いの思想があった。 「純粋理性批判」最後のほうの道徳を述べた箇所でこの哲学者は神による来世での報いがなければ立派な道徳的行為も賞賛されても決して行為の動機たり得ないとはっきり書いている。 僕はカントの晩年までの著書を検討したが決してこの思想は彼の若さゆえの未熟な思想ではない、カント哲学を貫くモティーフである。 ではと考える、神の存在そのものが不確かな現在、キリスト教思想そのものが揺らいでいる現在カントは今でも善意志の思想を貫いたろうか。 正直者がバカを見るという、それが現実で来世も無ならば善意志だけでたりるのか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 30, 2006 10:40:28 PM
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