こんな本を読んだ4: 生きる力、死ぬ能力
「生きる力、死ぬ能力」 [シリーズ生きる思想(8)]池田清彦著弘文堂ISBN 4-335-00060-X=========================ひさびさの本紹介です。この本について、bk1のサイトではこう紹介されている。"たかだか生きて120年。死とセックスを発明して複雑化してきた我々は、どこへ向かおうとしているのか。アメーバからニンゲンまでを語った、痛快無比の生物学。"著者は「構造主義生物学」を提唱する学者。これは社会生物学(遺伝子還元主義的な考え方)を否定するもので-----"生物の世界には、突然変異と自然選択で説明できることばかりではないのではないかと思ったのです。" (139ページ)"ゲノムはシステム化されていると考えたのです。"(141ページ)"ゲノムはランダムに変わるわけではなく、ある構造化されたシステムとして動くから、勝手に変わったりはしないのです。"(149ページ)というような感じ。個人的にはしっくりくる考え方だけど、ともあれ、僕がこの本にうなったのはそういう部分についてではない。というか、抜粋した部分からもわかるとおり、この本は第一部が池田氏による「おしゃべり」で、第二部がインタビュー形式になっていて、基本的には話したものを書き写している。僕はこういった体裁の本がすきじゃない。音声ではなく文字を使うのであれば、ちゃんと書き言葉で書いてほしいのだ。まあそれはちょっと偏屈だけど、こういうのは、だいたいにおいてつまらない本になる。同じような説明を何度もしたり、論点が整理できていなかったりで、無駄に長い文章になってるのが多い。だいたい、単に文章を書くことが面倒なだけだろって。そういう意味で、養老さんの本も読む気がしない。いつも言ってること同じだし(←最近読んでないんで偏見かも)。というわけで、この本は体裁的にはおすすめできないけど、いくつか僕の世界観をひっくりかえす箇所があったのでとりあげてみた(ってなにさま?)。セックスと死とのパラレルな関係(セックスではなく分裂で増える単細胞生物は事故以外では死なない。逆に、セックスによって増える多細胞生物は、すべて老化して死ぬようプログラムされている)や、死といういものが、個体にとっては災厄であるにせよ、多細胞生物が多細胞生物として成立するためのひとつの能力だ、ということもそうなんだけど、もっと僕の人生レベルで脳に焼き付いたのは、"一番最初に生物ができたときの細胞が、分裂して分裂して、それが繋がって現在まできているわけですから、実は、すべての人は三十八億年の寿命をもっていて、その最後のごくごく末端のところを個体として生きているわけです。"(48ページ)という、考えてみればあたりまえなんだけど、でもそれって凄いよなあってこと。38億年のなかで、いまの僕につながる細胞がどこかで分裂する前に死んでいたら、いまの僕はいないのだなあと思うとね(こういうステレオティピカルな一般論は 「僕」の定義において問題があるけど、 とりあえず保留)。個体をひとつの単位として区切れば僕がいて親がいてそのまた親が...っていう考え方も意味を持つのだけど、細胞分裂を単位として区切るなら、やはり「僕は38億年生きている」のだ。このダイナミックな連続性は爽快だ。ようするに「僕」は存在しない、といってるようなものだから。そしてそして、もうひとつ、僕の頭をパコーンと打ったのは、"体の表面には、本当にいくらでも細菌がいるのです。それからお腹の中、ここでいうお腹の中は消化器官の中のことで、これは本当は体の外です。(中略)口の中からはじまって、胃袋の中、小腸、大腸と普通我々が思っている、お腹の中というのは、(中略)皮膚と同じように体の表面です。"(109ページ)いや、考えればあたりまえなんだけどさ。ようするに、本当の「お腹の中」に細菌がいたら腹膜炎になったりして死ぬらしい。僕らは自らの表面に細菌を飼っているけど、中には飼っていないのだ。で、これを読んでから、汚い話だけど、トイレでうんちを出すときの認識が変わった。それまでは、食物を体の「中」に入れ、「中」で栄養をそこからとり、うんちにして「外」に出す、とイメージしていた。でもいまは、僕の「内なる表面」に食物を「通過」させ、その過程でそれから栄養を吸い出し、その残りカスを捏ねくり出す、というイメージ(少なくとも僕は、あらゆる事象に----うんちを出すなんてことに対してすら、なんらかの「イメージ」というか「ヴィジョン」を持って生きている。それってなんなんだ)。本当に本当にあまりにあたりまえなんだけども。「細胞系列」にせよ、「口~胃~腸は体表面」にせよ、とにかくいままで断続的だったイメージが連続的になった。おおげさだけど、"宇宙は事物ではなく、過程である"ということだ(この言葉についてはまた別の本の紹介にて)。量子論が示唆するとおり、あらゆる連続性が微視的には離散性でしかないということも含めたうえでなお、とまることなく過ぎていく連続性のイメージは、少なくとも僕には大切だ。この本を読んでから異様に快便になったし(笑)。