私の顔の前の消しゴム
今日、六本木に復活したP-HOUSEに行き、「ア ヤ ズ エキシビション バ ング ント」展を見てきた。とある編集者の方から「ぜったい見た方がいい」と言われ、レビューを書いてたころとてつもない数を見ていた反動でしばらく展示は見ないつもりだったのに、早々とその封印を解き、馳せ参じたのである。反響もどうやらすさまじいみたいで、入場料が1200円もするのに(1ドリンク付。昼間からビール飲んでいい気持でした)すごい数のお客さん。で、たしかにすんごかった。くわしくはREAL TOKYOにて小崎氏が書いてらしたので(トップ"Out of Tokyo 120")そちらを参照してほしいのだけど、この展示のメインは、会場に鎮座する巨大な立方体。その中の真っ暗闇の空間に、飴屋法水氏が、最低限の装備(僅かな食糧や排便用バケツ等)と共になんと会期中ずっと/朝から晩まで入っている。ちなみに本展は会期中無休っす。彼は閉じ込められている間言葉を発さないらしいのだが、外からノックをすると数秒後にノックし返してくれる。外見上は単なる真っ白な立方体だが、たしかにその中には一個の人間がいるわけだ。(明日((日曜))が最終日。終了後、おそらく変わり果てた姿で、 箱から出て来るのだろうと思う)。「バ ング ント」と題されたこの展示(おそらくはバニシングポイント=消失点の意)には、この箱のほかにも「消失」にまつわるいろんなものが展示されてるんだけど(椹木野衣氏のテキストや大友良英氏のサウンドなども)、その中に「顔の消える証明写真機」がある。一見街中にある証明写真機なのだが、中に入って写真を撮ると、顔の部分がモヤモヤした状態で出て来る。こんな感じ。 参加者は、自分のこうした写真を切り取って、途中の字を消失させた自分の名前をサインペンで書いたうえで、壁の好きなところに貼る(僕はオ ラユ キと書いた)。すでにたくさんの顔が消えた証明写真で壁が埋まっていた。個人のアイデンティティは顔に集約されると言える。顔を記録することでその人のその人性を保証するはずの証明写真が、ここではその人のその人性を消去する。...で、ですね。実は僕も、「自己」の消去...というか、「自己」の無根去性というか、そんなもんもとからないし、僕らの中身は空っぽだ、という思想をふつうに持ってるんだけども(ようするに乱暴に単純化すれば唯物論者なんだけどども)、去年末~今年始めに僕が企画した「The World is Mine」展において僕が出品した作品にこんなものがありました。いま見ると恥ずかしいんだけど...。さらに、写真そのものをスキャンしたわけではないので、かなり映りが悪いんですが。これまた証明写真。円い鏡を顔の前に掲げてシャッターのボタンを押す。フラッシュは、鏡に反射する。本来顔を明瞭に撮影するための光によって、逆に、僕の顔は見えなくなるわけ。発想は近いんだよなあ。でも僕のはやっぱり閉じてる。狭い。飴屋氏の(?)写真機があらゆる人を受け入れ、それぞれに「体験」させるのにひきかえ、僕は自分だけで、それを額装して見せる。そして、前者が「マジ」なのに対し、僕は一歩引いた所でやってる。なんかズルい。ちょっと凹みました、はい。参加型/非参加型っていう違いだけじゃなく、もっと根本的な態度の問題で、ああ、僕はやっぱまだまだ甘い(←あたりまえ)んだなーと。といっても僕には彼のようなことはできないし、やるつもりもないけど。でも閉じたままだとしても、作品の強度として、彼のやったことに匹敵するものを作りた......くもないか、やっぱし。ううむ。とつぜん話は飛ぶけど、最近は、僕にとって美術ってのは学問なんだなと思ったりする。たとえばある種の科学者が、社会的に役に立つかどうかではなく、単に「この世界とは何なのか?」という根源的な問いをひたすら追求するために物理学の問題を研究して、一般の人がそれを理解しようがしまいが気にしないってのと同じコンテクストにおいて、美術もまた究極的には学問なんじゃないか、と。もちろん科学と同じように、結果的にいろんな人が楽しめることはあるだろうし、一般の人にわかりやすいように翻訳しようとする人もいるだろうし、そうあるべきだと思うけれど。なんつって、じゃあおまえの作品は学問的な強度を持ってるのかって言われると、はっきし言ってまだまだNOなわけだが。というか、アーティストとしてやっていけるのか不安になり、まじでブルーになるほど、クリエイティヴィティが枯渇しているわけだが~~。あ、いま気づいたけど、また話は戻るが、いま製作中(苦労中)の僕の映像作品もまた、ある意味「消える」ことを扱ってるな。