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カテゴリ:いろいろ
依存したくない! という思いを持っている人は、 依存しているのでしょうね。
エゴイストにはなりたくない! っていうエゴを持っている人が、 エゴイストであるのと同じように。 2年前まで勤めていた会社に、臨時アルバイトに行ってきました。 寒さも弱く、天気も悪くなく、時々お日さまも差してくれるいい日。 昼間の空いた電車に揺られながら、先日から読みはじめた小説に夢中になっているとあっという間の片道1時間半。 予定より早く目的地に着き、久しぶりの一人外ランチ。 おいしいサンドイッチとあったかくて甘いカフェモカ。 お腹いっぱいになり、すごい幸せな気分になって、ルンルンと会社まで歩きました。 私は、その会社の社長が大好きで、尊敬しているし、とっても愛してもいます。 社長がつくる会社の雰囲気が大好きだったのは、社長が大好きだったからでした。 勤めていた当時は、そこまで自覚はありませんでしたが。 とはいえ、恋愛感情とかではありません。 そこに在ったのは、紛れも無い社長への“依存”でした。 大好きだし、尊敬しているし、愛していることも本当。 でも、依存していたことも、本当。 実はついさっき気付いたばかり。 ついさっきまで、会社を辞めてからも、私は変わらず社長に依存していた・ということに。 仕事を終えた後、しばらく社長とお話しながらダラダラしていました。 この、社長の作ったコミュニティーの中に居ることが、とても気持ち良かったから。 今日で頼まれたお仕事は終わってしまったから、また次に会えるのはずいぶん先になるだろう、と思ったし。 何より、いろいろお話ししながら、頭の片隅で、「この会社に戻るという道は、どうなんだろうか・・・」と思案していたりして、なんだか未練タラタラで。。 時間を気にして社長が話を切り上げてくれて、やっと席を立ち、帰り際、「あったかくなったらまた飯でも食いましょう」と言ってくれた言葉に後押しされて、ホッっとしつつ笑顔で帰ってきました。 帰りの電車の中でも、なんだか満たされたような気持ちになって足取りが軽く、小説の続きを読みながら退屈すること無く帰れてとっても順調。 家に着いてご飯を食べ、家族が寝に部屋に行ったところでひとりお風呂に向かいました。 実は、めずらしく今日はもうこのまま顔だけ洗って寝てしまおうと思っていたのだけど(すごく眠かったし、汗もかかなかったので)、お風呂が沸いていたこともあり(sin.家はシャワーの日とお風呂の日が交互にある)、もったいなかったので入ることにしました。 思えば、この日がお風呂だったことも、必然なんでしょうね。 この日、お風呂に入ることは、私にとってとても必要だったのだと、後に解るのです。 お風呂につかりながら、ボーっと今日のことを振り返りました。 会社の人たちのことを思い出しつつ・・・。 ふいに、何の前触れも無く涙が出て来ました。 会社のことを思い出してるだけなのに、なぜか涙が。 その時は理由は全くわからなくて、ただ、そのまま涙と鼻水を垂らしながら思いを巡らせていました。 最近結婚した、会社のSさんのことを思い浮かべました。 Sさんも、とても人として尊敬している上司で、社長ほど思い入れは無くとも、好きな人ではあって。そんな四十路目前のSさんが、やっと運命の女性と巡り会って結婚したと聞いた時は、心から祝福しました。 大好きな人が幸せになることは、とっても嬉しい、そう思い、喜びました。 喜び、嬉しく思いながら、なぜかどんどん泣いてしまう。。 嬉し涙では、ない。 それ に関して泣いている感じでは無かった。 だからといって、妬んで悔しくて泣いているんでも、無い。妬む対象では、無いし。 自分の感情をどんどん水と一緒に流しながら、なぜ泣くのか探って行ったら、 「人に必要とされたい、必要とされないと、私のことを誰にも見てもらえない」 という想いが出て来た。 ここ数日、恋愛問題に関しても出て来ていたウジャウジャモジャモジャの大ボスは、コレだったか、と、ようやく腑に落ちました。 だけど、なぜこんな想いが生まれたのか、というとこにはまだ至らなくて、そこのとこは、まだ腑に落ちません。 今まで出せなかった気持ちが現れた、これだけでもかなり進んだけれど、このままではまだ気持ちが悪くて。なんとか落ち着くところまで持って行きたかった。 なぜそんな想いを抱き始めたのか、というところは、遡ろうとしても曖昧にしか浮かんでこなくてモヤモヤモヤモヤ。。 で、とりあえず冷めて来たお風呂から上がり、熱いシャワーを出し頭からかぶっていたら、また一気に涙が溢れて来て。 水って、本当に“浄化”してくれるものなんだな、と、いっつもしみじみ実感します。 「社長は、私を見てくれた。社長は、今まで見て来た他人たちとは違って、ちゃんと、私を個別の一人として見てくれて、そして必要としてくれて、期待してくれて、私のことを、重要視してくれていた。ただの働き蜂としてじゃなくて、私の人間性をちゃんと見てくれた。“私という人間”を、ちゃんと、見てくれた。それが嬉しかった。すごくすごく嬉しかったんだ。」 シャワーをかぶりながら出て来た想い。 そう、社長は、私を大切にしてくれた人。 私に限らず、雇っているスタッフのことを、誰かに替えられるモノとしては決して扱わなかったし、そう見なかった。本当に家族のように大切にしていました。 こんな風に他人を想って見てくれる人が居たんだ、と、本当に嬉しくなりました。 そんな社長に出逢って、私は本当に救われたことがたくさんあって、まるで一国の王様に忠誠を誓う重臣のように、一生懸命、期待に応えるべく働いて。 この社長について行けば安心だ・というよりは、この社長に尽くしたい!と、思って働いていたのかもしれないです。その時の私にとっては、それが嬉しかったし、とても満たされることだったから。 でも、その気持ちだけでは“続け続ける”ことは、出来なかった、現実。 考えて見れは、当たり前なんだけれど。 入社して3年経ち、私は路頭に迷い始めました。壁にぶつかりました。 応えたいのに、裏切りたくないのに、尽くしたいのに、体も精神もついて行かない事態に会社全体が陥った時期。 とうとう鬱にまで発展して、仕事を続けられなくなって、そんな自分を責めながら辞めざるをえなくなり。 私が抜けてしまったら会社的にすごく辛いという状況下であっても、決して私を責めること無く、私を心配し、辞めるという私の意志を尊重し承諾し、厳しい現実を受け入れ、自分の責任で立ち向かって行く社長だったからこそ、私は辛い自分のことだけを考えていられたし、背負いそうになっていた荷物を背負わずに済みました。 本当に感謝しました。そして同時に少し心苦しくもありましたけど。 私は、必要とされることで、居場所が出来ると、生きて行けると、今まで思っていたようです。 必要とされない人間は、生きて行くのが難しい、と。 必要とされるスキルが無ければ、私は“足りない”人間だから不安だ、と。 周りより何か秀でているもの、誰もが出来ることではない何か特技を持っていることで、自分は世間と対等だ、と、思って来ました。 必要とされることで、自分に自信を持つことが出来、そして堂々としていられる、と。 これが、社長に対して抱いていた、私の依存心。 必要としてくれる人に、依存していた。 必要としてくれるように「もっと、もっと!」と働いた。 必要とされなくなることが、恐かったから。 では、「そんなことはないのだ」・と、自分を納得させるにはどうしたらいいのか、と想いを巡らしていたら、また「一人会話」が始まり、もう出てくるままにベラベラとしゃべって答えを探すことに。。 出て来た答えは、 「必要とされることを求めることは、悪いことではないですよ。 必要とされることで、満たされる人は、たくさん居ます。 必要とした人は、それに応えてもらうことで満たされ、 必要とされた人は、応えられたことで満たされるのです。 誰もが、一人では生きて行けないのです。 お互いに、必要とし、必要とされ、生きています。 それが、当たり前です。 誰もが、他人が居るからこそ、生きて行けるのです。 だから、他人を頼ること、頼られること、そして必要とすること、必要とされることは、 “依存”ではなく、“シェアリング”して生きている、とも、言え替えられます。 どう捉えるか、なのです、 “依存”であるか、“シェアリング”であるか、は。 己次第です。 必要とされることを求めることを、“依存だ”、と、捉えるか、 必要とされることは、自分の何かを他人に“シェアリングしているのだ”、と、捉えるか。」 自分を卑下して“足りない”と思っているからこそ、私は、 「必要とされることを求める」自分の行動を、“依存だ”と、捉えました。 でも、違うんですよね。 私は、私のこなす仕事分、相手に協力出来ているのですから。 私は、相手にも何か必要なことを供給出来ているし、 相手もまた、「感謝」と「賃金」という形で、私に供給している。 (また、必要としてくれたことを、私の方が「感謝」している。) ならば、私は、自分を過小評価して無意味に引き下がる必要は無い。 シェアリングしているのならば、それは“助け合い”です。 それでいいんですよー、わ た し ! 他人をひどく求めて寂しくなっていたのは、ここに根があったからのようです。 何がきっかけでそういう思い込みをし出しのかはわかりません。 そのうちわかるかもしれませんが。 でも、お風呂の中で辿り着いた答えに、とっても納得して、腑に落ちたので、これで良しとします。 この時期に、辞めた会社とのご縁があり、社長と再会したこと、 この時期に、人を好きになって恋愛したこと、 同じテーマ(依存)が隠れてたんですね。 「依存ではなくシェア」。 家族についても同じ。 「家族だから、無条件に自分を愛して必要としてくれる。そういうもの。 だから、私という人間だけを見て必要としてくれる対象・に、カウントしない。 家族・というステージは、この問題を考えるステージでは無い。」 と、無意識に家族を省いていたわけなのですが・・・ 家族以外に、自分を心底必要としてくれる人を欲しがったのは、そういう理由。 家族では気持ち的にどこか満足も納得もしなかったのは、そういう理由。 でも、家族と言う小さい社会の中でも、外と同じように、お互いに“助け合い”をして生きていることには、何ら変わりは無かったですね。 “依存”と聞くとネガティブに聞こえますが、 “依存”も、しちゃいけないこと・じゃないと、思えました。 そうやって助けられていることも、人生、あるのだから。 いつか、もっとうまい生き方を学ぶ時が来るのかもしれないんだし。 実際、来たし。 「依存してる、依存してる」 ってフォーカスし過ぎて、ポジティブな見方が全然出来ていなかったようです。 「依存と自立のテーマ」。 なんか、ちょっとわかってきた。 “自立”っていうのは、「たった一人で立つこと」、とは、違うんだよ、ってことが。 やっとここまで来ました。 感謝。ありがとうございます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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